19 勇気を貰いに
コーヒーの香りに癒されるひとは多いのではないだろうか。
コーヒーが飲めなくても匂いは好きだと言うひとは、割といるのではないかと高臣は踏んでいる。
コーヒーの風味が好きな高臣だが、匂いはもっと好ましく感じる。芳しいコーヒーの香りを嗅ぐと、心がほっとするような、なんとも言えず心地良い気分になる。
コーヒーの匂いが脳に与える作用は、実は豆によって違うらしい。これは脳医学によって証明されているようで、リラックス効果を高める豆もあれば、集中力を高める豆もあるとのこと。
であれば。店でコーヒーを飲めば、パンとの相乗効果でよりくつろげるに違いない。
リラックス効果の高いブルーマウンテンやグァテマラといったコーヒーを選んだのは、ひとえにそういった理由があるからだ。ついでにお茶はカフェインの入っていないハーブティーを厳選した。
桜木堂は女性客が多い。それを踏まえて、イートインに相応しい飲み物を用意したつもりである。
本日は新たに生まれ変わった桜木堂の開店一日目であった。朝から引っ切り無しにお客がやってきてパンを購入していく。吉平はこの日のために新しいパンをいくつか考案していたが、それも盛況のようで、どの客のトレイの上にも新しいパンが乗っていた。
そして問題のイートインスペースといえば、早速利用客で埋まっていた。
使用理由としては「朝ごはんや昼食に」という客もいれば、「小腹が空いて」や「なんとなく」という客、「出来たてを食べたくて」と意図した言葉をくれた客もいた。
スペースは広くないので少人数しか座れないが、それでも利用してくれる客や、利用したいと言ってくれる客がいることが嬉しかった。再始動一日目ではあるが、予想以上の盛況ぶりになんとか上手くやっていけそうだ、と安堵する高臣だった。
朝から慌ただしく立ち働き、気づけば夜と呼べる時刻になっていた。忙しなさは時間の経過を早める。高臣はひとつ息を吐き、テーブルの上を拭いているふゆに声をかけた。
「ふゆ、疲れただろ。先にあがっていいぞ」
ふゆは振り返るとにっこり笑う。
「いえ、大丈夫です。まだお仕事できますよ」
そう言ってくれるのはありがたいが、働きづめなのは事実である。無理をして身体を壊しでもしたら大変だ、と心配のあまり眉間に皺を寄せていると、ドアベルが響いて高臣を我に返らせた。若い女性客の姿に、高臣は急いで表情を戻す。
「いらっしゃいませ」
女性は店に入るや否や、きょろきょろと辺りを見回した。レジカウンターにいる高臣と目が合うと、彼女は瞠目し小さくお辞儀をした。そのあと素早くトレイとトングを持つと、高臣の視線から逃げるようにパンを選びに棚へと向かう。
……なんだ?
高臣は、何故あのように驚いたような、気まずそうな表情をされるのかわからなかった。
知り合いではないはずだ。しかし、どこかで見たことがあるような気もする。
頭の片隅に仕舞い込まれていた記憶がぼんやりと浮き上がろうとしていた最中、レジに件の女性客がやってきた。高臣は慌てて会計を開始する。
トレイの上にはシナモンロールがひとつだけ乗っていた。
「ここのシナモンロール、美味しいですね」
ぽつりと降った言葉に、高臣は目をあげる。
目の前に佇む女性は恥ずかしさと申し訳なさを混在させたような顔で高臣を見ていた。
「先日は失礼な態度をとってしまい、申し訳ありませんでした」
そう言って頭をさげる彼女の後頭部をしばし見つめて、はたと気づく。
どこかで会ったことがあるような気がしていたが、事実高臣は出会っていたのだ。
伸雄と偶然再会したあの日。あのとき彼女と出会っている。伸雄が連れていた婚約者だ。
彼女とは早々に別れてしまったため、記憶が曖昧になっていた。高臣はひとの顔を覚えることが苦手であるから尚更だった。
失礼な態度、というのは挨拶をする間もなく立ち去ってしまったことを言っているのだろう。伸雄曰く、あのときは虫の居所が悪い状態だったらしいが、いまは落ち着いているのだろうか。もしかしたら、わざわざそのことを謝りに来たのかもしれない。
「いえ、気にしていませんから。おひとりですか?」
伸雄が一緒ではないことに疑問を抱いていると、彼女は答え難そうに「ええ、まあ」とだけ言った。
ひょっとしてまた喧嘩でもしたのか?
そういえば伸雄はもうすぐいまの住居へ戻るのだと言っていた。確か明日にはここを発つはずだ。最後の最後までふたり揃って店にくることはなかったのかと思うと、改めて残念に思ったが、いずれ機会は訪れるだろう。まだ吉平も高臣も、桜木堂を閉店させてしまうつもりはないのだから。
「こんな時間ですけど、ここで食べていってもいいですか?」
「ええ、どうぞ。遠慮せず」
会計を済ませると、彼女はイートインスペースへ足を向けた。店内にいる客は彼女だけになった。時間も時間なので、扉にはクローズの札をさげる。本日最後の客は彼女ということになる。
彼女は席につくと、もそもそとシナモンロールに齧りついた。甘いパンだし飲み物が欲しくはないだろうかと、高臣は彼女へ問いかける。
「コーヒーでもいかがですか」
飲み物はあらたに料金が発生してしまうのだが、伸雄の婚約者であるし、いま彼女以外の客もいないので、無料で提供していいだろうと高臣は判断する。
甘いシナモンロールにはこっくりとしたコーヒーが殊更合うものだ。
しかし彼女は困ったように苦笑を返した。
「ありがとうございます。でもコーヒーはちょっと……他の飲み物はなにがありますか」
もしやコーヒーは飲めなかったか、と高臣はハーブティーを勧める。
店で出しているのはカモミールやルイボスといった、ハーブティーのなかでも割と一般的なもの、そしてノンカフェインのものを用意してあることを伝えた。
「ノンカフェイン……それなら……」
いいさして、彼女は唇に指を当て、どこか考えるような素振りを見せると、「やっぱり水でいいです」と答えた。
遠慮している、といったふうには見えない。ハーブティーが苦手であるから断ったようには見えず、なにか考えがあって水にしたというように思えた。
――なにか事情があるのだろう。
高臣は深く考えず、希望通りグラスに水を入れて彼女のもとへと運ぶ。ありがとうございます、と言って彼女はシナモンロールを堪能する。
彼女の様子をちらりと見やってから、高臣はカウンターで閉店業務を行うことにした。ふゆも棚に残ったパンの回収を始め、静かに店の一日を締めくくっていく。今日も穏やかに一日を終えられそうだ。
高臣はしばらく作業に没頭していた。だから唐突に「大丈夫ですか!」と叫んだふゆの声に驚いて、思わず手を止めた。
何事かとカウンターを出ると、ふゆはイートインスペースにいた。身を縮こませる彼女を、膝をついて不安そうに見つめている。
「どうした」
「あの、それが、なんだか具合が悪いみたいで」
困惑の表情でこちらを見上げるふゆに代わって、高臣は彼女の容態を窺う。
彼女は口元を抑え、前のめりになって苦しそうにしていた。顔色もよくない。傍目にもわかる具合の悪さに高臣の表情も険しくなる。
「伸雄に連絡します。迎えに来られないようなら、こちらから送りますから」
「いえ、そこまでして頂かなくても……」
こちらに気を回して遠慮する彼女だったが、それでも放っておくことは出来ず、伸雄に連絡をとろうとしたときだった。
「ノブに連絡した。二十分ぐらいで着く、だってさ」
不意に姿を見せたのは、厨房で閉店作業を行っていたはずの吉平だった。手に提げていたスマホをポケットに突っ込んでこちらへやってくる。吉平に気づいた彼女が口に手をあてたまま顔をあげ、高臣にしたのと同じように礼をした。
「いつぞやは失礼しました」
「……いまのこの状態で、言うことじゃないっすよね」
吉平は腕を組んで彼女を見下ろす。その瞳の硬質さに一瞬どきりとした。けれどそれはただ冷たく否定するためのものではなく、彼女を慮ってのものであるとすぐに気づく。
「あんときのことなんて、こっちは全然気にしてない……っていうか憶えてないっつうのに。彼女さんも律儀だねえ。揃いも揃ってノブと同じなんだからさ。いやあ、お似合いのカップルだよアンタたち」
呆れたように大きく溜息を吐き出してみせる。態と嫌悪を露わにする吉平を、彼女は意外にも察しているようだった。
「ノブくんの言ってた通りね」
彼女は申し訳なさそうにしつつも微笑んだ。苦しそうにしながらも、彼女の表情が和らいだことに少し安堵する。弱々しく笑い声をあげて、高臣と吉平を見つめる。
「ふたりとも不器用で、どこかひんやりとした空気を纏っていて。だけど、触れると温かい。優しいんだって、言ってた」
彼女の口を介して聞く伸雄の言葉に、高臣は息を呑む。
咄嗟に言葉が出ないのは吉平も同様だったようで、高臣とふたり無言で佇んでしまう。
「……今日ここに来たのは、シナモンロールが美味しかったからなの。そしてあなたたちに謝りたかったから。ノブくんが信頼するあなたたちをきちんと見たかった。……勇気を、貰いにきたの」
「勇気?」
傍らで控えるふゆが小首を傾げると、彼女は頷いてみせる。緊張した面持ちを宿すその目には決意が滲んでいた。
「ノブくんに、伝えなきゃいけないことがあるの。それをちゃんと告げられるように、シナモンロールを食べて元気になろうと思って。あたしシナモンロール大好きなんだけど、ここのはただ甘いだけじゃなくて、シナモンの風味とか、しっとりとした食感とかが、あたし好みでとっても気に入ったから」
「……それ時間経ってるから、ベタついてると思うんだけど」
吉平は僅かに眉根を寄せて不機嫌に言う。
シナモンロールの表面にはアイシングが施されていることもあって、できるだけ早めに食べるのがベストである。彼女がいま食している時間の経過したシナモンロールは、吉平の言う通り、確かにベタついていて良い食感とはいえないかもしれない。
その様な状態のパンを褒められても、と吉平は不本意なのだろう。
けれど彼女はゆっくりと首を振る。そんなことは関係ない、とでもいうように。
「ちゃんと、勇気貰えました」
彼女はゆっくりと背筋を伸ばす。
「打ち明けられるはず。今度こそ、ちゃんと」
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