同一性私彼恋慕

加賀山かがり

私彼恋慕

 この時期にしては珍しい強い雨足の音を小耳に入れながら私は昨晩受け取った分厚い資料の束へと目線を下ろしていた。

 ファイリングされたそれには他よりも少しばかり目立つように、という配慮なのか少し太めに編集された文字列が見出しとして上のほうに綴られていた。


『検体番号0-4 識別名称卯月うづき


 識別名称卯月。

 つまりは私の名前だ。

 私に与えられた名前には苗字が存在しない。だからこの、卯月という名だけが私を証明する全てだった。

 手に取った分厚い紙束を、だけれど読む気にも成れずに真白く丸い小さなテーブルへと置き直す。

 自分が何者か、というようなデータが延々と書き連ねられたそれを読むということを、私自身の希薄な感情がかたくなに拒否しているかのようで、少しだけ笑える。なるほど、私にはそれが嫌だと言えるだけの人間性が備わっているらしい、と実感することが出来た歓喜での笑いだ。間違っても自嘲的なものじゃない。


「まぁ、だとしても……、だよね」


 意外にクリアで、だというのにぐっちゃぐちゃで収束することのない感情回路を落ち着けるため、という名目で降りしきる雨を映し出す窓へと近づいた。

 窓から見える景色は思った以上に灰色で、ずぶずぶと私の心を濡らしつくすつもりなのか、と呆れたくなる。

 分かっているの。実際には空模様は私たちなんてちっぽけなものに左右されるはずもない、ということくらいは。

 だけれど、私は思わずにはいられなかった。

 人間的に言うならば、感傷的にならずにはいられなかったのだ。


「だって、あの時もこんな日だったから」


 一人だけだというのに、妙に口の動く私は、目の前の曇った窓ガラスを右の掌で拭きながら左手で手入れのされていない、だけれど十分に整った自身の長い髪を軽く梳く。

 腰まで届く長髪は、元々は日本人らしい黒色だったのだけれど、ここ一年ほどで徐々にその色合いを薄められてしまったらしく、今ではすっかりねずみ色になってしまった。

 そんなねずみ色の髪の毛がまだ黒々していて、そこまで長くなかった時の出来事が、せきを切ったように私の中で膨らんできてフラッシュバックのように頭の中へと投影されていく。

 パタパタパタパタっ、とパラパラ漫画のように記憶が動く。

 それは今からもう七年も前の出来事で、年齢で言えば片手では数えることが出来なくなっていたころのはずだ。

 そう、私の同族の一人が最初に命を失った日。

 同時に私たちは遠くない何時かに命を失ってしまう、ということを言外に実感させられてしまった日。

 過去の記憶をき止めるように、渡された資料の一ページ目に刻まれた文字が頭の中で踊る。


『生体クローンの育成実験と経過観察の資料。研究者――、の体細胞を用いたクローニング実験は一0七回の失敗の後に実験に成功した。その成功作は全部で七体。男性体が五、女性体が二。驚くべきことに単一遺伝子から別性の獲得に成功した。検体番号は生産された順に一から七まで。識別名称は、上から順に睦月むつき如月きさらぎ弥生やよい卯月うづき皐月さつき水無月みなづき文月ふみつき、とする』


 体細胞クローン。

 この小さな離島の研究所で育てられた私たちには戸籍すら存在しない。

 それはつまり人権がないも同然だった。


「それでも多分、大事に育てられていた、よね?」


 それを知った今から考えても恐らく破格の厚遇で育てられたのだと思う。

 足りなかったのは親の愛情くらいのものだ。

 そもそも、私たちにはお母さんだとかお父さんだとか呼べる人もいないのだけれど。

 毎日の検査以外には窮屈なことを何一つ経験することもなく、かと言ってずっと放っておかれていたわけでもない。恐らく子が育つにはかなり良い環境だったと思う。何かを教えてくれる大人も、私たちを叱ってくれる大人も、気に掛けてくれる大人もいた。

 その人たちは全員研究員だったけれど、多分実母や実父と同じくらいには愛を与えてくれていたと思う。

 だから、たとえ作られた命だとしてもそこに未練だの恨み言だのっていうのは本当に全くない。

 しいて言えば、全部を隠していたこと、そして今のこのタイミングで教えてくれたこと、それくらいだ。

 窓の外の雨足はかなり強く、ばちばちと窓を叩く音は少しばかり勢いを増してきた。

 朝だというのに外はかなり暗くて、ともすれば夕方過ぎと見間違えるほどで、だというのに私の部屋のドアが軽いノック音を立てるのだった。

 音に反射的に振り返った私は、ぐらっと視界が揺れて咄嗟に窓のサッシへと手を掛ける。

 ただの貧血、だなんてことはもちろんあるはずもなくて、だけれどそれを黙って認めるのもやっぱり癪だった。


 だけど、

「誤魔化せないよね」

 思わず独り言を呟いてしまう。


「卯月、そろそろ検査の時間だよ」

「分かったよ如月。すぐに行くね」


 ドアの外からかけられた声に、縋るように返事をしてからノブへと手をかけて捻る。ちらりと横目に映るのは一度たりとも使ったことのない連絡用の受話器だ。

 部屋の外、入り口ドアの真横に私とよく似た顔立ちをしていて、私と同じように白い検査服を着ている男の子が背を預けて立っていた。


「皐月はこれから呼びに行くの?」

「そうだよ、だから早く行こっか」


 本来ならば、もう一人いるはずの人物の名前を出して、私は先を促すことにした。別に、如月と二人きりが嫌、っていう訳じゃなくて。どころかまぁどんと来い、って感じではあるのだけれど……。

 そのなんていうか、今は少し、落ち着かないのだ。

 一緒に居たいけど、二人ぼっちだと落ち着かない。これじゃあまるでジレンマ。


「皐月? そろそろ検査の時間だけど?」


 行くと言っても私たちの部屋はこの小さな離島に建てられた研究所と併設されている所謂宿泊棟と呼ばれる建物の同じフロアに併設されているのだ。だから、一分も歩かないうちに皐月の部屋のドアにたどり着くし、そもそも本来であれば少し大きな声で話せばそれだけで伝わるはずなのだった。

 いや少々話を盛りすぎたかな、でもそのくらい私たちの距離は近いところにある、少なくとも私はそう思っている。

 ノックをしつつ如月がドアの内側へと声をかけたわけだけど、その返事は一向に返ってきはしなかった。


「あれ、どうかしたのかな?」

「うーん、まだ寝てるのかな」


 私たちは揃って首を捻るけれど、本当はもう理由なんて分かり切っているはずなのだ。

 まぁつまり、そろそろ私たちの番。ただそれだけの話。


「うん、それなら開けちゃおうか」

「そうだね、お願いしてもいい?」

「じゃ、開けるね」


 私たちは頷き合って、それから如月が遠慮のない勢いで皐月の部屋のドアを開けたのだった。

 音を立てたドアノブの内側からじわりと仄かな臭気が滲みだしてきた。

 ドアの中は如月の背中で隠れて見えない。だけれども、私はこのニオイを知っている。そして如月だってこのニオイの正体を知っているはずだ。いや、それどころかコレを放つそのものを捉えているはずなのだ。


「皐月?」


 それでもなお、如月は恐らく倒れているであろう皐月に声をかけたのだった。それは多分、否定してほしいがための反応だと思う。

 分かりやすい防衛反応。

 ドアの中へと押し入る如月の背中が遠のき、その奥の赤い染みが私の視界に映り込んできた。

 それから香るような臭気もまた私の鼻腔をつく。

 錆びた鉄を水に溶かしたような、粘るような赤錆のニオイ。

 それから、乾いた肉と土気色の命をぐちゃぐちゃに混ぜ合わせたような非即物的な重く酸いニオイ。

 つまるところそれらは、血と死のニオイと表現されうる代物だった。

 近づいた如月越しに見える皐月の姿は腰かけていたであろう椅子ごと横倒しに倒れていて、研究室と同じ素材を使っているひんやりとしていて硬くも柔くもない不思議な床の上に鮮血の水たまりを作っていた。


「そっか、ダメだったんだ……」


 血だまりのギリギリまで近づいて、そこで足を止めている如月の背中を横へと押しのけて、私は皐月へと近づく。

 この出血量じゃ多分助からないけれど、それでもまだ息をしているかもしれないからだった。

 足の裏にぬるりとした血糊の気持ちの悪い感触が伝わるが、それを無視して屈み、皐月の体へと手を伸ばす。

 触れればまだ少し暖かさは残っているが、それでも人体としてはひんやりしていた。

 口の前へと掌を差し出してみたものの、呼吸をしている様子もない。

 わさわさと心臓へと手を伸ばす。

 鼓動は感じられなかった。


「おつかれさま」


 感慨もなく、私の口から出たのはそんな言葉であって、なんでそうなのかというところが自分自身で理解できていない。

 両手で頬を挟んで倒れた皐月の額に、自分の額を軽く当てる。

 触れた額は思いのほかひんやりとしていて、それはつまり皐月の体の内側からは命が失われていると、主張するみたいだった。

 どれくらいそうしていたのだろうか。そもそも私はなんで想い人の前でほかの男の子のおでこにおでこをあわせていたのだろうか。もっとも、皐月と如月はほとんど同じ顔をしているのだけれど。

 振り返りながら立ち上がってみれば部屋に備え付けられた受話器から手を離した如月もまたこちらを向いた直後だったみたい。


「すぐ、五分もしないうちに来るって」

「まぁ、近いからね。それにしても皐月ももう少し音を立てれば良かったのにね。そうすれば少しは……、」


 多分、動揺しているであろう如月に私は努めて軽い口調で応じた。

 如月のこういう私と似ていないところが結構好きだ。


「ごめん、その、俺が看取ってやるべきだったのに」

「むしろ私こそ、ごめん。気持ち悪いよね」


 如月に近づき、私たちは揃って壁際へとよる。

 私は膝を抱えて座り込み、如月は立ったまま背を壁へと預ける。


「俺さ、卯月のそういうところ結構尊敬してる」

「ありがと」


 私たち二人はそれっきり研究所の職員さんたちが来るまで二人して血塗れの皐月を眺めていた。

 広がった血液は酸化しているのか、徐々にその色調を落としていく。

 それを見ていると、なんというか『命の終わり』を実感した。

 ストンッ、と腑に落ちる。というのは多分こういうことなんだと思う。

 ほんとならば、本当ならばもっと泣いたり叫んだり、悲しんだり、色々なものが湧いてくるものなのかな。

 だけど、私たちは偽物で、それ以上に私たちは目の前のそれを自分のことのように受け入れてしまっているのだろう。

 そのうちにパタパタと数人分の足音がまとめて聞こえてきて、研究所の職員さんたちがやってきたのだと、そう分かった。

 現れた白衣の職員は、多分六人ほどの男女。比率は四対二くらい。


「悪かったね。ここからは私たちの仕事だから、二人は今日の分の検査に行ってきなさい」


 そのうちの一人(猫林ねこばやしさんという若々しく見える中年男性だ)の研究者さんが私と如月に何とも言えない声色でそう告げたのだった。

 多分、私や如月よりも色々な葛藤があるのだろう。だけれどそれを私たちに見せてはいけない、きっとそんな複雑な内心だったから、あんな風にモザイク状の表情になっていたのだ。


「いこっか」

「そうだね」


 私と如月は頷き合って立ち上がると、その場から移動する。

 ペタペタと通路を歩けば、何か奇妙な違和感が足元から突き上げてきたので、何だろうかと振り帰って膝を曲げて、上向きにした足の裏を見つめる。


「足跡、ついてるね」


 如月のその言葉に私は血の付いた足の裏から目を離して廊下へと視線を移す。


「ほんとだね。あとで掃除しないとかな。それとも、職員さんがやっておいてくれるのかな?」

「多分、やって置いてくれると思う。血の処理だし……」


 如月は少しだけ顔を背けて答えてくれた。

 そういう繊細なところが私は結構好きだ。


「そっか、じゃっこのままでいいかな」

「卯月が良いならいいと思うけど。その、気持ち悪くない?」


 遠慮がちに尋ねられた。

 言いたいことは良く分かるけれど、私にとってはすでに受け入れたことであるので、あまり気にされ過ぎるのも、変な感じだった。


「検査の前に拭いてもらえるし、それにこれくらいは平気だから。じゃ、検査の後で、ね」


 男性検査室と女性検査室への分かれ道に到達したので、私は軽く手を振って如月にまたあとで、と告げて検査室のドアをスライドさせたのだった。

 ぱたんっ、とスライドドアが閉じた瞬間に、


「はぁ」


 と思わずため息が出てきた。

 なんでだろうって考えて、まぁいいかと結論付ける。

 私のお決まりの思考封殺だった。

 余計なことはあまり考えない。そのほうが絶対にいい。

 じゃないと私は……。


「ちがうちがう」


 言葉で考えを振り払ってから、すぐそばの台に置いてある問診票を掴んでペンを抜く。

 健康状態の記入、軽い貧血症状。

 何か奇妙な点、特になし。

 本日の気分は、問題のない範囲で不良。

 本日の環境の変化。

 そこで、私は暫しペン先を彷徨わせてからこう記入した。


『皐月が血塗れで倒れていた。呼吸なし脈なしであったので多分助からなかったと思う』


 自分で書き込んでおきながら何とも無機的なその記述にホトホトため息が落ちる。

 けれど気にしても仕方がないので書き終わった問診票を差し出し口へと突き入れて、部屋の奥へと進み、小さな丸い椅子へと腰かける。

 そこへと座れば、スピーカーから隣にある生体スキャン用の機械の上に寝転がるように、との指示が降りてきたのでそれに従った。

 別段見慣れたこの装置は私たちの体の中を情報的に輪切りにするのだ。

 仰向けで寝て目を瞑れば軽い駆動音と共にでっかい機械が動作するのが分かった。

 今更ここから逃げ出そうと企んだら、何かが変わるだろうか。なんて意味のない考えが頭に浮かぶが、私はそれを振り払う。

 だって、今更何かを変えようとしたところで遅いのだから。

 だけれど、今から何かを変えようとして、それで間に合うことがあるのなら、それならば私は、一体どうするんだろうか。

 溺れるように思考は繋がっていくのだけれど、なんで突然そんなことを考え出したのかが、分からなかった。

 何せ今の今までそんなことは一度も考えたことがなかったし、多分ほかの、睦月も弥生も如月も皐月も水無月も、文月だって考えたことがなかったと思うから。

 そうだ、文月だって。文月だってそんなことはきっと考えてなかった。

 記憶のフラッシュバックはいとも容易く再燃して、今度は押しとどめるものは何もなくって、だから瞼の裏側にあの日の記憶がこびりついてしまったのだと思う。

 それは七年前の出来事で、私はその日初めて人が死ぬっていうことがどういうことなのかを知ったんだ。

 その日は今日とよく似て冷たい雨が酷く降りしきっていた。

 太陽はすっかりと海の向こう側へと沈み込んでしまったその時間では私たち七人は外へ出ることも出来なくて適当に集まって施設の中をうろちょろしていたんだっけ。

 そんな中で、私と文月、それから如月と水無月が一緒になってちょっと難しい絵本を転がしていたのだ。

 あの絵本は今本棚から引っ張り出したとしても未だに理解できない自信が私にはある。それくらいなんというか、難解なのだった。

 話としては結構シンプルでネコマタギという主人公がひたすらに猫を跨いでいくというだけなのだが、段々と猫が大きくなっていって最後には猫を跨げなくなってしまうのだ。そうすればあとはもうネコマタギは猫に跨れる側になってしまって、最後にはネズミに跨れて、ぱっと消えてしまう。

 記憶によるとそんな話だ。うぅん、良く分からない。

 読み手は私と文月、驚き役が水無月と如月だった。

 絵本の読み聞かせをする、というおままごとのような遊びも兼ねていたのだ。

 それは突然の出来事だった。真っ赤な子猫をネコマタギがさぁ勇んで跨ぐぞと奮起しているページに、印刷以外の赤色がしたたり落ちたのだ。

 私たち、私と如月と水無月は多分きょとんとしていたと思う。

 それからゆっくりと滴る赤色を追いかけるように目線を上げたのだ。

 私たちの視線が殺到したのは文月の顔。

 そこには大粒の涙にぬれた文月がいた。

 真っ赤な血涙に染め上げられた文月がいたのだ。


『だい、じょうぶ?』


 私は思わず目元へと手を伸ばしながら問いかけた。

 だというのに文月は何とも不思議そうに顔へと手を当ててパタパタと頬やら目元やらをのんきに押さえて掌についたそれを握りつぶして、今度は手の甲で溢れるものを拭うのだった。


『えへへ、どうしちゃったのかな? でもね、だいじょうぶ』


 ぐしぐし、ごしごしと、涙をぬぐう文月。

 だけれど、彼の顔を伝うのはただの涙じゃなくて血涙だったので、結果顔中へと血が広がって薄いかさぶたのような色が広がってしまったのだった。

 その時、私は泣いていたのだろう。当時はよく理解できていなかったが今から考えれば良く分かる。

 私は私自身がきっとそうなる、そう理解したのだった。

 だからそれは、多分文月への涙なんかじゃなかったと思う。

 それでも泣いていた私の頬を文月は血だらけの手で拭ってくれて、優しく笑いかけてくれたのだった。


『だいじょうぶ、だから、わらって?』


 そして、ニッコリと印象的な血塗れの明るい笑顔のままで文月は体中から血を噴いて絵本の上に崩れ落ちたのだった。

 私と、隣にいた如月は文月の真っ赤な血を正面から被ってしまって、多分全身が染まってたと思う。

 如月も、当然私だってその場から動けなくなって、うん、茫然としてた。

 如月の反対側にいたはずの水無月がいつの間にかいなくなっていたことにも気が付かないほどで、だから後ろからそっと抱き寄せられたときにやっと気が付くくらいだった。

 私と如月を抱き寄せた水無月は温かくって、まるでお母さんみたい。なんて思ったくらいだった、同じ年のはずなのにおかしいね。

 そして私は知ったんだ。

 私たちの体は遠くない将来には必ず壊れて、それで――――、

 死んでしまうんだ、って。


「終わ、ってる?」


 ひも解かれた記憶の残滓が瞼の裏側から消えてからゆっくりと瞬きを繰り返す。

 目の前にはドーナツ型の機械の内側があるわけでもなくて、ただ検査室の白い天井が広がるばかりだった。

 ゆっくりと起き上って、それから次の検査をするために部屋を一つ移動する。

 スライド式のドアに手をかけて一気に開けば、中には見慣れた白衣の女の人が待機していた。

 いつもと同じように軽く会釈をすると向こうも同じ動作で返してくれる。

 それを見届けてから私は女の人とは反対側にある、脱衣服用のバスケットへと近づいて、裾にちょっぴりと血の付いた衣服を躊躇いもなく脱ぎ捨てたのだった。

 私たちは普段から下着というものを身に着けて生活をしていないので、それを脱ぎ捨てれば即座に素っ裸になってしまう。

 あのころの水無月よりもぐっと女性らしく柔らかみのある体躯を漫然と見下ろしてみる。

 水無月よりも大人になったのかな、なんて感慨くらいしか思い浮かばなかったので、私はそれを振り払って検査台へと腰かけることにしたのだった。

 それから全身に電極付きのパッドを張り付けられていって、それは普段と違って妙にむず痒い。

 首、肩、両手、両肘、上腕、肩甲骨のあたり、脇腹、胸、お腹には二つ、それからお尻と太もも、ふくらはぎに足の裏。

 最後に人差し指を挟むようにクリップ型の電極を付けられた。


「じゃあ、横になってね」

「はい」


 私はとても素直に、先程までの反抗心なんて全くこれっぽっちも何処かへと投げ捨てたように応答して、勢いをつけるために足をあげて体制を整えてから、検査台へと仰向けになった。


「リラックスしてね」


 見届けられたようで、そんな毎日お決まりの文句と共に私の体にはピリピリとしたしびれるようなこそばゆいような、痛いと感じない程度の違和感が発生していく。

 もうすっかりと慣れきってしまったはずだというのに、その刺激は私の記憶を刺激して、忘れることのできない過去を無理やりに思い起こさせるようだった。

 それは三年前の暑い夏の日。

 ピリピリとした日光が肌を焼くように煌めいていて、空にはあんまり雲もないはずなのに、何処からともなく突然雨が降ってくる。そんな日だった。

 私たちは、揃いも揃って海へとやってきていた。

 私と、それから如月と弥生の三人は誰が一番遠くまで泳いでいけるか、なんていう酷く子供じみた遊びをしようとして、付き添いに来ていた職員に制止され、あえなく浮き輪で海をぷかぷかと漂うという遊びに落ち着いた。

 残りの睦月、皐月、水無月は砂浜で砂遊びだ。

 いや、遠目から見えた光景を正しく言語化すれば、砂で城を作る睦月と皐月を突き立てたパラソルの日陰の下から見守る水無月、という構図だった。

 私は遠巻きに砂浜の光景を眺めながら波に任せてぷかぷかと浮いていたのだけれど、一緒にいたはずの如月と弥生はバシャバシャとバタ足で何処かへとゆっくり泳いで行ってしまったみたいだった。

 なので、私は海の上で一人。

 特に何かあるわけでもないけれど、それだけでは流石に退屈だった。

 なのでパタパタと足を動かして浜まで戻って、砂遊びをしていた睦月と皐月を引っ張りだして一緒に海へと乗り出したのだ。水無月も誘ったのだけれど、


『暑いからイヤ』


 と一蹴されてしまった。

 結局私たちは日が暮れるまで海で遊び倒したのだった。

 その時の水着は、多分もう残っていないと思う。元々私物なんていう概念は私たちには存在していなかったから。

 若干ながら息を切らしていた私たちと睦月は砂浜に上がった途端にバタンとその身を砂に投げ渡した。

 全身に広がる奇妙な砂の感覚は今でもよく覚えている。

 その場には私と睦月と皐月、それから様子を見に歩み寄ってきた水無月がいて、如月と弥生はとっくに飽きて研究所へと戻ってしまったらしかった。


『ねぇ、なんか体中が痛いの』


 私の横に寝転がっていた睦月は突然そんなことを言い出して、遊び疲れたのかと思ってぐるっと首を回した。

 そしたら、ゾッとした。

 揃いも揃って贅肉に乏しい、かと言ってやせ細っているわけでもない私たちの体。それはもう見慣れたもので、だからこそ異常にはすぐに気が付いた。いやきっと見慣れていなくてもすぐに気が付いたと思う。

 だって、睦月のお腹からはドロッとした血の色が透けていたから。

 私は慌てて起き上がって、自分のお腹を確認した。


『わたし、人連れてくるねっ』


 ハッと息をのむように水無月は矢継ぎ早にそういうのだけれど、


『待って、水無月、どこかに行っちゃやだよ』


 と睦月がわがままを言うものだから、代わりに皐月に行ってもらうことにしたのだ。

 水無月はずぅっと、睦月に声をかけていて、だけれど睦月はもう全然返事なんてできなかった。

 だから二人はお互いに手を握り合っていたのだと思う。

 だけれどそれは、やっぱり気休めにしか過ぎなかったみたいで、とうとう終わりの瞬間はやってきてしまう。

 私の目にはそれは、とてもとてもゆっくりと視えていた。

 堪え切れなくなった皮膚がパックリと、弾けるように内側から開く。開いたその場所にはたくさんの、本当にたくさんの血糊が詰め込まれていて、堰を失ったそれは一斉に外へと広がっていったのだった。

 一言で言えば血飛沫が上がる。

 呆気にとられた私と水無月は睦月の血液を頭っから被って血に染まってしまう。

 多分、そこで水無月は泣いていた。

 皐月が大人を連れてきたのはそれから少し時間を置いてからで、つまり睦月は助からなかった。


「はい、もういいわよ」


 声を聞いて、私の意識はちゃんと帰ってくることが出来た。

 体に張られた電極からはもう刺激を感じることもない。

 起き上がって、それからゆっくりと電磁パットを剥がされていく。


 それがむず痒くって、

「んんっ、」

 と声が漏れてしまった。


 こんなこと、今までには一度だってなかったのに。変なの。

 と思えば、私のその声を聞いたからだろうか、研究員さんの手が暫し止まる。


「珍しいわね」

「アハハ、ホントですね」


 どうやら揃って驚いていたらしい。そりゃあそうだよね。

 止まっていた手がまた動きを再開して、程なく私の全身から電極付きのパッドは全て取り外されるのだった。


「それじゃあ、次の検査ね」


 それを受けて頷き、検査台から立ち上がって籠に突っ込んだ検査着を取りに行く。

 中を見ればきれいに畳まれた真新しいものと取り替えられていたけれど、私は戸惑いなくそれを着こんだ。


「血がついちゃってたから新しいのと交換しておいたわよ」

「いつもありがとう」


 お礼を言って、先へのドアを開いた。

 移動して、視力検査、聴力検査、嗅覚検査、等々の数種類の検査を履行していく。

 毎日毎日検査だけで何時間も時間を費やしていたのは、何のためなのか。

 それがようやく私にも理解できるようになったのだった。

 つまり、私たちは実験用のモルモットだから毎日毎日のデータが必要だった、という訳だ。

 全ての検査を終えると研究所内をぐるりと一周することになる。少し前までは職員の人たちから勉強を教わっていたのだけれど、今はもうそういった拘束時間は無くなってしまったので、私はフリータイムなのだった。

 だけれど、特に考えることもなく二階の談話室へと足を向ける。

 階段を昇っていれば否が応に外の雨足が強くなっていることを感じ取れた。

 ザァというよりはバタバタと表現したくなるほどに雨足は強くって、これぞまさにバケツをひっくり返したような雨と言ったものだ。

 階段を昇り切れば正面には談話室へと続く通路。

 右手側には誰も寄り付かなくなった遊戯室という名のオモチャ部屋へと続く通路が伸びる。

 おもちゃで遊ばなくなって久しい私は、だけれど記憶の残滓に突き動かされるように初めの目的地とは別の方向へと舵を切っていた。

 対して長くもないその通路を通り抜ければスライド式のドアへとぶつかる。

 軽く息を吐き出してから、一気にドアを開けてみた。

 ドアを開けた先には二年も前と変わらない光景があった。

 変化に取り残されたように様子の変わらないその部屋の中は、つまりあれから誰も人が入っていないだろうことが、如実に見て取れる。

 ただし、最後に見た記憶とは明らかに食い違う点が一点だけ。

 電気を落としたこの部屋の中で弥生は一人椅子に腰かけて木でできたちゃちなミニカーを眺めていた、んだと思う。

 私と水無月が弥生を見つけた時には、すでに血に塗れて丸机へとへばり付いていたのだから。

 気が付いたときには弥生はすでに血塗れで、もう助かる見込みなんて欠片ほども残っていなかったのだと、今なら分かる。

 荒い呼吸を吐き出していた弥生に声をかけても、一向に返事なんて返ってきはしなかった。

 それが示す可能性は私の中では二つだけ。

 耳が聞こえていないか、声が出せなくなっているか。今にして思えばすでに気を失っていたという可能性もあったはずだ。

 どちらにせよ、と頷き合って私と水無月は部屋に入ったのだ。

 入り口の横に備え付けられた受話器で手早く人を呼ぶ水無月、それを横目に流して弥生へと近づいた私。

 触れてみれば体温は致命的なほど冷たくて、汗と血の混ざった得体の知れない臭気が漂っていたのだ。

 私が体に触れたことに気が付いたのか、弥生の冷たい体がもそりと動いた。


『卯月、弥生は?』


 近づいてくる水無月に、私は答えた。


『生きては、いるよ』


 それはつまり、生きているというだけだ。


『弥生、聞こえる?』


 そんな呼びかけに弥生はやっぱり反応しなくて、それで私は確信した。

 弥生は耳が聞こえなくなっているんだって。

 だけれど、私の諦めとは裏腹に弥生の体がゆっくりともたげた。

 ギョッとしたのだけれど、ふらつく弥生は私なんて全然見ていなかった。

 手を伸ばして水無月の頬を触ろうとして、だけど途中で考えを変えてしまったらしくその手は力なく重力に負けてしまった。

 落ちるその手を受け止めたのは当の水無月で、掴んだその手と、動かないだろうもう片方の手も取って、弥生の両掌を水無月自身の両頬へとつけた。

 そのまま額を近づけて、重ねる。

 そこからはもう、雪崩みたいな勢いだった。

 満足そうに弥生は笑って、ばたりと横倒しなって血の池に波紋を立たせる。

 私と水無月は跳ねた飛沫で体を濡らし、所々が真っ赤に染まる。

 それっきりだ。それっきり私たちは動けなくなって、呼んだ大人たちが来るまで呆然としていた。

 弥生は最後の瞬間には報われていて、水無月はきっと死んでも報われない運命を背負ってしまったんだと思う。

 フラッシュバックのような記憶の濁流から、強烈な眩暈という形で脱出した私は近くの壁に派手な音を立ててぶつかったのだった。

 肩も打った、頭も打った。正直痛い。

 だけれど、すっかりと感覚はマヒしてしまっているのだ、と思い知らされただけだったのかもしれない。

 よろよろと壁伝いに歩いて、もう一度出入り口を開いて通路へと戻る。

 私はそこで何もないはずなのに盛大に蹴躓けつまづいて転んだのだった。


「あいたたたぁ、どうしたんだろ、気を付けないと……」


 頭を押さえながら立ち上がる。

 瞬きを数度繰り返せば私の視界は確かに赤く染まっているのだった。


「あ、あれぇ。本格的にダメなのかなぁ」


 右手で右目を覆い、ゆっくりと時間をかけて数度の瞬きを繰り返す。

 痛みは特段感じないけれど、頭はズシリと重かった。

 深呼吸と瞬きを繰り返せば視界の赤味はゆっくりと治まってくれたので、一安心だ。


「そろそろ如月の検査も終わったころだよね。心配かける前に会いにいかないと」


 自分が同じ立場なら絶対に心配などするわけはないけれど、きっと如月ならそうする、なんて私の勘がそう言っていた。

 意識的に大きめの呼吸を繰り返しながら短い通路を歩き、角を曲がって談話室へと向かう。

 途中までは壁に手をついてもしもに備えていたけれど、その必要もなかったらしく何事もなくドアの前まで来ることが出来た。

 中にいるだろう如月に無駄な心配を掛けさせない為に、深呼吸をして二度首を縦に振る。一種の儀式のようなもの、なのだと思う。そうすると何となく自分が落ち着く感覚があるような気になれるのだった。

 ガラッ、とドアを開けば案の定如月が所在なさげにソファに腰かけていた。


「いつも通りだった?」

「いつも通りだった」


 妙にひんやりとした床に後ろ髪を引かれながらも如月の問いに答えながら近づく。

 ソファの端っこにもたれかかるように座る如月は飲み物さえ用意していなかった。

 それは多分、それほど気がかりなことがある、ということの証左なのだと私は納得する。それくらいはきっと分かり合えているはずだと思うのはきっと悪いことじゃないはず、だってもうずっと一緒にいるのだから。


「喉、乾かないの?」

「そういえば、そこそこ」

「それじゃ持ってきてあげるよ。何が良い?」


 如月の真後ろのソファの背もたれに両手を預けて話しかける。

 私の顔と如月の顔が凄く近づく。

 談話室にある古臭い少女コミックによると近づくと男の子のまつ毛が長いのが凄く気になるらしいのに、如月のまつ毛はあまり長いということもなくて少し残念だった。


「うーん、卯月は何飲むの?」

「私? 私は、あるもの飲むけど、そういえば何があるんだろう?」

「じゃあ、一緒に見に行こう?」

「そうだね、そうしよっか」


 ソファの背もたれに預けていた重心を背筋からお尻のあたりに移動して体制を整えれば、同じようなタイミングで如月もしゃっきりと立ち上がった。

 この談話室のつくりは完全にファミリー向けのダイニングキッチンのそれとそっくりだ。 

 テーブルがあって、椅子があって、ソファがあって、本棚があって、知育系の玩具が並ぶ。キッチンにはシンクと、それから冷蔵庫と湯沸かし器、くらいのもので、あとは飲み物を注ぐ用のカップが七つと、おやつを盛る用の七枚の小皿しかないけれど、それは当然だ。だって私たちはこの場所で食事をしたことなんてないのだから。

 冷蔵庫の前へとやってきた私と如月。私がドアを開ける。


「そういえばさ、コレの中身も随分少なくなったね」

「そういえばそうだね。昔はもっといっぱい色々入ってたもんね」


 目の間にはすっからかん一歩手前、くらいにしか物の入っていない冷蔵庫。

 中に入っているのはオレンジジュースとカフェオレ、それだけだった。

 私の身長よりも大きな冷蔵庫にたったそれだけ。何とももったいない、そう思うのはいくらか人間らしいだろうか。


「私はカフェオレにしよう」


 如月に向けて発言しつつ紙パックのカフェオレへと手を伸ばす。


「俺も同じのにするよ」

「そっか。分かった」


 カフェオレを掴んでいるのとは逆の手で冷蔵庫の扉をバタンと閉める。

 流し台にはなぜか如月が用意してくれた私用の白いマグカップと如月用の紫のマグカップが鎮座している。いつの間に出したんだろうか。


「ありがと」

「こちらこそ、ありがと」


 私がお礼を言えば、お礼で返された。

 如月が臆面もなくそんなことを言うので、何故だか私は少しばかり照れを感じる。

 とぷとぷ、と液体が注がれる音は強い雨足の音とは比べ物にならない弱弱しさだ。

 注ぎ終われば又しても如月がいつの間にやら用意していた盆へとカップを乗せる。


「持って行くね」

「お願い」


 運ぶのを任せて私はカフェオレを仕舞うために冷蔵庫へともう一度近づいて、ドアを開けてパックを元の場所へと戻してから扉を閉めた。

 歩く如月の背中を少しだけ眺めてから、すぐに隣に追いつく。

 別に追いついても特に意味なんてないのだけれど、それでも少しの間だけでも隣を歩いてみたかった。きっとそれだけだ。

 ソファの前に置かれた背の低いテーブルへと盆を下ろす如月の横で、私はぽんと体をソファへと投げ出して真ん中あたりへと座る。

 如月は相変わらず端のほうが好きみたいで、縁のほうへと所在なさげに腰かけたのだ。

 気遣いなのか、性質なのか、嫌われているということはないとは思うのだけれど、一言で説明すれば、ちょっと切ない。

 なので、思い切り距離を詰めることにした。

 まずテーブルの上へと置かれたマグを掴むために腰を浮かせて、掴んだら位置を変えて座り直す。

 ソファの端へと座った如月のすぐ近く、腕一本分くらいの距離へと腰を下ろした私はそれとなく如月のほうを盗み見る。


「あのさ、去年のこと。覚えてる?」

「去年……、」


 去年と言えば突出した出来事なんて一つきりしか存在しない。


「水無月、のことだよね」

「うん」


 視線を伏せた如月の短い、それだけの言葉に私は大いに揺さぶられた。

 そう、あれは去年の出来事。より正確に言えば今から十四か月前の出来事。

 からりと晴れた秋の日の出来事だ。

 気持ちのいいほどの快晴は秋晴れという言葉が良く似合っていた。

 それで私たちが外へと出掛けるかと問いかけられれば別にそんなことはないのだけれど。

 だけど、その澄み切ったどこまでも抜けるような蒼穹は際限のないほどに魅力的で、だから私は談話室の窓際に腰かけてずぅっとそれを眺めていたのだ。

 それはもう、わき目も振らず一心不乱に。

 その空の青さはそれだけ私を虜にしていた。

 私が知る限りで最も美しい青で最も美しい空だ。


『ねぇ卯月。一緒にお花探してみない?』


 だから、いつの間にか真後ろに立っていた水無月のことに声を掛けられるまで気が付けなかったのはきっと仕方のないことだったと思う。

 私は水無月の提案にのって、だけれど突然どうしたのだろうと考えながら靴を履いて外へと出掛けたのだ。

 この離島には砂浜と研究所、それ以外はほとんど森しかない。

 近くに研究所があって、人も住んでいるのに私たちが向かう場所は森なのだ。

 森林に分け入った私たちは、きれいに紅葉した木々たちには目もくれず足元だけに視線を彷徨わせる。

 この辺り、春や夏には数種類の花が咲いているのだけれど、秋以降になると青々とした輪郭はとても下火になってしまう。

 樹木はかなり逞しく立脚し、赤い葉っぱが日差しを遮る。

 秋と冬との境目のこの時期に花をつけている植物なら、ぱっとサクラソウの仲間だよね、なんて考えつつも、独特な木目を持っている樹に手をつきながら枯葉を踏み鳴らしながら、水無月の後を追いかけていた、はずだった。


『あれ、水無月?』


 はずだったのに、私が気が付いたときには水無月の姿は見当たらなくなっていて、思わず私は青くなる。理由は分からなかったが、それはとても嫌な予感に思えてならなかったからだ。そしてもう一つ予感はあった、これは予感というよりも確信に近かった。

 つまり、私は見失った水無月を諦めなければならないのだ、とそう確信していた。

 しかしそんな確信なんてものに全てを預けることなんて私には出来なくって、だから水無月を探しながら林の中を彷徨っていたのだ。

 体感時間にすればかなり長い時間探し回って、私はようやく水無月にたどり着いた。

 たどり着いたのだけれど、やっぱりそれはもう手遅れでしかなかった。

 森の中、ほんのりと開けたその場所で紫色をした花に囲まれ、水無月は息を荒くして血塗れで倒れ込んでいた。

 私の足音に気が付いたみたいで、こちらへと視線を彷徨わせていた。

 だけれど結局水無月の彷徨う視線は私の瞳を捉えることが出来なかった。

 どれだけ駆け寄っても、水無月の揺蕩う目線は私と交わらない。

 そばまで近づいて私はやっと気が付いたのだった。なるほど、目がもう見えていないんだ、と。


『そこにいるのは、卯月だよね?』

『うん、そう私は卯月だよ。手、伸ばせる? 伸ばせたらそのまま伸ばして、掴んで』


 倒れた水無月を抱き起こすように座らせて、足を開かせる。

 手を伸ばせばそこに私の肩が触れるように調整してからそう指示を出したところ、よろよろと本当にゆっくりと水無月は腕を動かしてくれた。


『ねぇ、卯月。見たでしょ、ここお花がね沢山咲いてる……、』


 掴まれた肩から水無月の両手を無理やり動かして私の首へとまとわせてから、両手で足を抱えてゆっくりと立ち上がる。

 血塗れの水無月をおんぶしたのだ。


『これだけ沢山あれば、きっと弥生も睦月も文月だって、喜ぶよ』


 立ち上がって、その場を後にしながら水無月に伝える。


『気づいてたんだね。私てっきり……、』


 水無月の言葉はそこで途切れてしまう。

 多分後に続く言葉は、『何にも感じていないのかと思ってた』だと思う。

 木々を縫って歩きながら、それを否定できない自分は少し嫌だな、と考えられた。これは人間的な情緒と考えてもいいのだろうか、なんて考えてから思わず自嘲してしまった。

 そこから私はどれくらい歩けばいいのだろうか。

 ゆっくりと沈み始めた太陽を道しるべにして、息を切らせながら森の中をただただ歩いた。

 枯葉を踏みつけて、草を分けて、樹木を通り過ぎて。

 敷き詰められた赤い葉はまるで私自身も誘っているように思える。

 怖い、とは思わなかった、と思う。

 だけれど背中から伝わる体温はどんどんと暖かみを失って行って、流れ出した血液が指先からしたたり落ちる。

 人を一人背負うだなんて、慣れないことをすれば当然のように必要以上に体力を消耗するわけだけど、息を荒げていた私はそのことにまでは意識が回っていなかった。

 だからそれに気が付いたのは本当に偶然だったと思う。

 それというのはつまり水無月の体と同じように私の体も悲鳴を上げていた、ということだった。

 痛みは特になかったと思う。

 ただ、違和感と血の失せるような焦燥くらいだった。

 もう全身に水無月の血を浴びていた私には体のどこから血が出ていたのかも定かではなかったのだけれど、それでもふらつきながら進んだ。

 這う這うの体で、そうまさに這う這うの体で、研究所の入口へと辿り着いた私は玄関口のインターフォンへと頭突きをしてそのまま気を失った。

 結果、私は生き残って水無月は死んだ。

 特に涙は出なかったけれど、それでも心に穴が開いた気はしたと思う。

 本当は未だに良く分かっていないのかもしれない。言葉では分かっているつもり。だけれど本当に分かっているかどうかと問われればきっと答えに窮する。


「ごめん。そうだよな、思い出したいことじゃないよな。考えが足りてなかったよ」

「ううん、別に平気だよ。水無月はきっと、天命だったんだと思う。それで私は違った。多分ただそれだけ」


 記憶を手繰り寄せていた私がどれくらいの時間そうしていたのかは分からないけれど、如月の言葉で我に返った。

 手に持ったカップに注がれているカフェオレはコーヒーと砂糖と牛乳が混ざっているのだ。苦みと甘みとまろやかさ、感情なんて言うものはきっとカフェオレとそう変わらないものだ。そう思えば少しは気が楽になった。

 ころころと手の中でマグを転がしてみれば、液体の表面はかすかに揺れて波を打つ。


「あのさ、ここから逃げ出してみない?」

「えっ?」


 私は何の気なしにそんなこと口に出して、それから自分の言葉に驚いた。


「ごめんね、変なこと言っちゃって。どうしたのかな、私は」


 どうしてそんな言葉が口から出てきたのか、良く分からなかったけれど一つだけ確信することが出来た。

 私はこの場所より、如月を重く見ている。

 それを理解したとたんに、無性に如月の顔が見たくなった。だから少し瞬きを繰り返してから小さく息を吐き出して様子を窺うように視線を移す。

 口元へと手を当てて、何か真剣に考え込んでいる様子の如月は一度頷いてから、しっかりと私へと目線を固定させたのだった。

 なんだろう、すごく見つめ合ってる。


「いいんじゃないかな、逃げ出してみても。でも、方法はどうしよう?」


 如月のそんな言葉は予想外の産物で、私は目を丸くした。


「アハハ、本気にしないでよ。冗談だったんだから」

「俺は卯月と一緒ならそれも悪くないって思ったんだけどなぁ」


 アハッ、なにこれすごくうれしい。

 だってそれってつまりそういうことでしょ?


「あのさ、それならこれから少し外に行かない?」

「この雨足で?」

「そうだけど……」

「いいよ、外出よっか」

「ん、ありがと」


 だから私は選ぶことにした。

 本当なら絶対に手にとってはいけない選択肢を。

 だってそれはすごくすごく、独りよがりでわがままな選択だから。


「でも、なんでまた急に?」

「外に出てから教えるよ」


 私たちは立ち上がって談話室を後にして、階段を下り少し歩いて玄関口へと辿り着いた。

 靴を履きかえて私はそのまま玄関のドアを開く。


「待って、傘持たないと濡れるよ」

「うーん、じゃあ如月が持ってて?」


 ドアに手をついたまま振り返って、小首を傾げながら如月を待つ。我ながらあざとい気はするけれど、私が見つけた答えはもう止められないのだから、仕方がない。


「お待たせ、行こうか」


 傘を手に持った如月と一緒にドアを開けて外へと踏み出す。

 開けた途端に冷たい外気が吹き込み、思わず息がつまった。

 雨足はかなり激しくて、ほんの数メートル先の景色も見えないような有様だった。


「思ったよりも雨凄いね」

「傘もう一本取ってくる?」

「ううん、いいよ。如月にくっつくから」


 傘を差した如月の腕へと体重を寄せて縋り付く。


「あ、あのさ、卯月?」

「うん、どうしたの?」

「その、近くない?」

「だって近づかないと濡れちゃう」

「そっか、それで行きたいところでもあるのか?」

「雨の中の散歩ってちょっと憧れてたの」


 そんなことはもちろん嘘だ。

 私にはちゃんと私の目的があって如月を外へ連れ出したのだから。


「それじゃ取りあえず海のほうまで行って、戻ろっか?」

「そうだね海まで言ったら話、するよ」


 それっきり私たちはくっついたままでゆっくりと歩く。

 冷気は肌を突き刺すようで、かなりみる。

 先の見えない土砂降りはきっと私とよく似ていて、だからこの寒さだって私とよく似ているのだろう、なんて考えた。

 歩調に合わせて揺れる如月から感じる暖かさが心地よくて、もうずぅっとこうしていたいと思う。

 だからせめて、これくらいは許してほしいかな。


「卯月っ!? ほんと、どうしたの?」

「どうもしないよ。それとも、嫌だった? それなら止める……、」


 手を繋ぐ、それだけの行為にやたらと動揺している如月が好きだと思った。

 私なんかよりもずっとずっと、まともな感性を持っている彼が愛しいって思った。それは尊いって思った。

 だけれどそれは、私が私の選択を諦める理由にはならなかった。


「これ以上進むのは止めとこうか?」

「如月がそういうのなら……」


 手を繋いで、ぴったりと体をくっつけて一つの傘に納まっていた私たちは、海の見えるその場所で足を止めた。

 そこから見える海は荒れていて、私たちが良く知っている砂浜とは別物だった。普段穏やかな海しか知らないから、それは驚きと同時に新しい発見に思えて、なんとはなしに心地の良い感銘を受けたのだ。


「ねぇ、如月」


 うねる波を眺めながら、覚悟を決めて名前を呼んだ。


「何?」

「あのね、大好き、だよ」


 冷たい肌と肌が密着する距離で、彼の頬を捕まえて告げた。

 私の嘘偽りのない本心を。


「卯月は、知らないの?」


 そこから逃げるように体を揺らした如月は、だけれど私のことを雨ざらしにすることなんて出来なかったみたいで、半歩分の動きに留まってくれた。


「知っているよ。私たちは同じ人の細胞から作られた同一の遺伝子を持つ体細胞クローン。性別の違う双子よりも近いんだってことくらい」

「なら……、」


 迷うように、惑うように、如月は視線を泳がせる。私から逃げようとするみたいに。


「それでもね、私は如月のことが好き。良くないことだっていうのは良く分かってるつもり。だけど、それでも止められないよ」


 私の見上げるような視線と言葉に動けなくなった如月から、優しく傘を奪い取る。

 そこが、私のタイムリミットだった。

 けほっ、と咳が出る。

 体から力が抜けて、私は奪い取った傘を掴み損ねて地面へと落とした。

 じわりと、体中に熱さと冷たさの両方の感覚が伝わっていく。

 パチパチと血管が弾けてサラサラとした血とは違う何かが逆流するような感覚と、皮膚の表面が裂けて啜るような鋭い痛み。それらがほぼ同時に全身へと広がっていった。

 焦点は結べなくなって、かくんと体から力が抜け落ちる。

 立っていられなくなった私は、よろけてそのまま真後ろへと倒れる。

 はずだったのに、


「卯月っ!」


 怯えて私から逃げ出そうとしていたはずの如月が捕まえてくれた。

 あぁ、やっぱりそうだよね。

 如月はそうしてくれるんだって、信じてた。


「あり――う」


 口の中でぬめっとした感覚が広がる。味覚が機能しなくなっているのだと、血を吐き出しながら気が付いた。

 抱き寄せられた私は、その腕の中で安心感に包まれていて、だからそれが欲しかったものだとすぐに気が付いた。


「俺も卯月が、好きだった。ずっと好きだったよ。だけど、あの資料を渡されて、だからよくないって……、」

「大丈夫、だよ。どうせ――もた、ないもの」


 全身に広がる痛みと倦怠感を振り切って、私は如月の頬へともう一度手を伸ばす。


「だか――後に、――」


 キスをして、と言おうとしたのだけれどもう声帯は上手く動いてはくれなかった。

 だから諦めようかな、と思った。

 だけど、

 冷たくて柔らかい如月の唇がふってきた。

 それは触れるだけのやさしいものだったけれど、それだけですごくすごくうれしかった。

 視界はぼやけて、だけれど私は賭けに勝ったという確信を抱いた。

 私と、それから如月も、このままここで命を失くす。

 だって私たちの体に雨の中ずぶ濡れになって移動できるほどの体力はないのだから。

 ぼんやりとした意識の中で、終わりの瞬間は大好きな人の唇の感触と血に彩られていて、それはとてもとても幸福なことだと、私は素直に信じられた。


end 

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同一性私彼恋慕 加賀山かがり @kagayamakagari

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