第219話 再試験 上 ☆
賢者の石の力は無限ではない――。
それどころか、魔物に予期せぬ力を与えることもある。
サロンでの発表を繰り返し、フギンたちの唱える新説は少しずつ、ヴェルミリオンに衝撃を与えていった。
聴衆たちがまず最初に受け止めた衝撃は、帝国の威信に傷をつけるような発表をした者たちが無事であるということだった。
サロンの者たちは最初、彼らは皇帝一族の誰かが差し向けた刺客によって、すぐに亡き者にされるだろうと考えていた。これは聞いてはいけない発表だと思い、目を覆ってサロンから逃げていく錬金術師もいたくらいだ。
しかし、フギンたちはその後も大小のサロンをめぐっては自説を展開していった。
アマレナが帝国を去った今、フギンを亡き者にしようとする勢力もなくなったのだろうか。闇夜にひそんで人々を連れ去っていった者たちの活動は完全になりを潜めていた。
フギンたちはこの機を見逃さずにヨカテル・クローデルの論文と自分たちの新しい論文を帝都中の錬金術師に送りつけた。
反響は緩やかに、しかし確実にフギンたちの元に届いていた。
最初は取沙汰されなかったこれらの論文を求める声は日増しに大きくなっていったのだ。
これらの論文は印刷機を置いた聖都アンテノーラから輸送しているため、印刷工程にはさほど時間はかからないものの、輸送に費用と時間がかかる。
そのため、エミリアやテルセロをフィヨルのいる農場に残し、その護衛をミダイヤとして、フギンとマテル、ヴィルヘルミナだけが帝都近郊都市ザフィリに帰還した。
輸送にかかる空白の時間を埋めるために、高台にあるヴィールテス写本工房でも論文の写しを取ることになったのだ。
工房は夜を徹しての作業に追われていた。
マテルは写本師に戻り、フギンは製本を手伝っている。
一方、ヴィルヘルミナは護衛という仕事を任せられただけで暇を持てあまし気味であった。
最初はマテルやフギンの作業を手伝おうとしてあれこれやってみたのだが、狭い工房内で細々とした仕事をするには力が有り余りすぎている。
彼女は少し動けばインク壺を割り、知恵を絞ってはフギンに白い目で見られたりして、次第に居場所がなくしていった。
せめて皇帝一族がアマレナの部下を何人かでも送り込んでくれていたら、ヴィルヘルミナも力の見せようというものがあるのだが、職人街は概ね平和そのものだった。
ヴィルヘルミナは剣とともに戸口に座り込み、高台からザフィリの街の明かりの列を見下ろしていた。
ヴィルヘルミナはため息を吐いた。
工房に移って一月くらいだろうか。
工房の主もおかみさんも、ヴィルヘルミナがいてくれるだけで心強いと言ってくれている。その言葉にうそはないだろう。彼らは自分たちの家系に秘められた血筋の謎については何一つ知らないままで、息子が突然、旅から戻ってきて錬金術についての危険な論文を写本すると言いだしたことに驚いていた。
「今の状況や待遇に不満はない………………」
ヴィルヘルミナが呟いたその独り言にも、うそはかけらもなかった。
写本工房では職人たちが作業場で雑魚寝をしているにも関わらず、おかみさんは女神に仕える女性であるからといってヴィルヘルミナに個室をくれた。
ろくに働いてもないのにまかないをたくさん食べても、嫌な顔ひとつせず、安くてたくさん食べられる料理を工夫して出してくれているくらいだ。
「だけど、な……」
力になれない心苦しさもあるが、ヴィルヘルミナの視線は、自然と街のある一角に吸いつけられていく。
めずらしく彼女はアンニュイな表情を浮かべていた。
「ギルド街が気になるのかい?」
そんな彼女に声をかけたのはマテルだった。
彼は戸口の明かりの下でしょげているヴィルヘルミナを見つけると、食堂に行くのをやめて玄関にやってきたのだった。
「あっマテル。今日の作業は終わったのか?」
「交代で休憩だ。そうしたら、君が寂しそうな顔をしていたからさ」
「寂しいというわけじゃないが……」
隣に腰を下ろしたマテルは前掛けをつけた見慣れぬ職人姿だった。
ヴィルヘルミナは続く台詞を言いよどんだ。
前はフギンには言いにくいことも、心優しいマテルには何でも話せると思っていたが、この時ばかりは言葉が出てこなかった。
薄紫の髪も優しげな眼差しも、旅の最中と何一つ変わらないが、写本師としてのマテルの顔をはじめて知ったせいで気後れしているのだ。
そのことをマテルも薄々悟っているのだろう。
マテルはどこか切ない顔つきだ。
「遠慮することはないよ。もともと、僕なんかは旅が終わったら工房に戻るつもりだったけど、君は大陸一の冒険者になることを夢みてオリヴィニスからやって来たんだものね……。元の暮らしに戻りたかったら、いつでも戻っていいんだよ」
マテルはそう言って、ヴィルヘルミナの視線の先を向いた。
そこにはギルド街の明かりがある。
ヴィルヘルミナの夢は町人として平和に暮らすというマテルの将来設計とは真逆のものだ。彼女は魔物と戦い、迷宮にもぐって危険をくぐり抜ける日々を今でも望んでいると思ったのだ。
そしてそれは、彼女の本心を半ば言い当ててもいた。
しかし、ヴィルヘルミナは自分を気遣ってくれているマテルのためにも、その心に背を向けるしかなかった。
「違うのだ、マテル。……二人との旅を経て、私も考えを変えたのだ。いまは、フギンとマテルというかけがえのない仲間たちが目的を遂げるのを見届けるのが先決だ。私のことはそのあとでもいいのだ」
「ヴィルヘルミナ……」
マテルは複雑な心境だった。ヴィルヘルミナが町人に戻ったマテルのことも仲間だと思ってくれているのは嬉しい。だがしかし、今の生活を続けたとしたら、ヴィルヘルミナは確実に冒険者の世界から遠ざかってしまうに違いない。
何と返事をしたものかと考えあぐねていると、ヴィルヘルミナを挟んで隣にどさりと音を立てて腰を下ろした気配がある。
「うわ! フギン! どこから来た!?」
人や魔物の気配には誰よりも敏感なヴィルヘルミナも驚いている。
マテルと似たような前掛けや手袋をつけた姿のフギンが、仏頂面でそこに座っていた。全く気配がなく、どこから現れたのかもわからなかった。
記憶を取り戻したフギンは、前と何も変わらないと自分では言っているくせに、そういうときが頻繁にあった。
「もちろん、作業場からだ。製本作業が一段落したから出てきたんだ。突然だが、マテル、ヴィルヘルミナ。もう一度オリヴィニスに行くぞ」
「えっ!?」
「論文が足りないんだ。装丁は工房の職人たちががんばってくれているが、中身が足りないんじゃどうにもならない……。早急にアンテノーラからの荷物を受け取らないと間に合わないんだ」
論文を求める声は日増しに大きくなっている。
帝都の錬金術師からだけではなく、帝国領のあちこちからも声がかかっていた。
しかも錬金術師ではなく、商人や貴族たちからも、この論文を自分の目で確かめたいという声が上がっているのだ。
ここで出し惜しみをしていれば、またもや痛くもない懐を探られることになるに違いない。
活版印刷機そのものはアンテノーラにあり、アンナマルテ・ミセリアや聖女リジアの厚意により、修道女たちが総出で印刷機を動かしてくれているが、誰かが荷物を受け取りに行かなければならないことには変わりがなかった。
「硝子窓で連絡したところ、オリヴィニス付近までは騎士団の護衛つきで運んでくださるとの返答があった。しかし、緩衝地帯を越えて帝国領に踏み入ることは、やはりできないそうだ」
「そうだね。アンテノーラの人たちはどちらかといえば王国側の立場なわけだし、無駄に帝国を刺激したくないはずだもんね」
「エミリアには、ただでさえ危険なのにこれ以上の旅はさせられない。俺たちが最適だと思う」
「しかし、旅費はどうするのだ? 私もマテルもフギンも、もう借りられるところからは借りまくっているのだぞ? そろそろ借金返済のめども立てねばならないし、ギルドの依頼を受けながらの移動では、時間がかかりすぎるだろう」
ヴィルヘルミナがかなり現実的な意見を言ったので、フギンは握り潰した羊皮紙みたいな顔つきになった。
サロンへの入会料や、論文の印刷にかかる莫大な経費、研究費のもろもろは、もちろんフギンたちの懐から出ている。
錬金術師協会からの補助金などは一切期待できない研究であるため、ヴィルヘルミナはミセリアから、フギンはなんと、オリヴィニスのヨカテル・クローデルから金を借りている。エミリアの実家も娘の結婚資金にと貯めていたものを切り崩しているし、マテルだって少なくない額を工房から持ち出していた。
フギンなどは、借りたところが悪く、返済が少しでも遅れようものならヨカテルのところで『一生奴隷として働く』という契約まで結んでいるのだ。
後に引けないのはみんな一緒だった。
しかし、記憶喪失時ならともかく、現在のフギンは旅費を問題にしない移動方法を持っていた。
「移動そのものは、一瞬ですむから問題ない。俺がお前たちを一緒に運んでいけばいいことだ」
記憶を取り戻したフギンは、その副産物として《神烏》としての能力を得ていた。
フギンには見えない翼がある。知っている土地ならば、肉体は転移術で移動させ、それと同時に魂をその翼で飛んでいくことができる。物だけでなく、命のあるものも一瞬で運び去ることのできる転移魔術の完成形だ。
「でもそれって……大丈夫なの?」
転移術の便利さはマテルも知るところだ。しかしフギンの能力は本来、死者を天の国に迎えるためのもののはずだった。
「あまり良くはないと思うが……。マテルは一応はグリシナの騎士の系譜にあたるし、ヴィルヘルミナは光女神に仕える身だ。光女神も見逃してくれるだろう」
「フギンだけで行って、荷物を持って戻ってきたほうが安全ではないか?」
ヴィルヘルミナがもっともな質問を投げかける。
すると、フギンは、眉間の皺をさらに深くした。
「…………確かに俺の翼で運べば一瞬で移動できる。それでも白金渓谷の周辺には近づけないんだ。何度か飛翔しているときに竜たちの視線を感じた。やつらには光女神の恩寵なんて関係ないから、接近してしまうと危険だ。オリヴィニスから国境までの間は陸路を使って荷を運び、護衛する必要があるんだ」
「フギン、それは確かに理由のひとつではあるんだろうけど。素直に言ったらどう? 最近のヴィルヘルミナが心配だって……」
とっくの昔に、親友の複雑な心境を掴んでいたのだろう。
マテルが気遣わしげに言う。
ヴィルヘルミナはびっくりして、マテルとフギンの横顔を見比べていた。
「そうなのか!? 心配してくれていたのか、フギン!」
フギンは苦虫を嚙み潰したような顔つきである。
けれども、数分後には観念したのだろう。素直に思うところを述べた。
「…………そうだ。ヴィルヘルミナを連れていくといったのは、途中でお前がオリヴィニスに戻るタイミングを作るためだ」
「なぜだ、私の力がいらなくなったからか!?」
「そうじゃない。アマレナの仲間がどこに潜んでいるかもわからない以上、護衛は絶対に必要だ。いま、とくにトラブルがないからといって今後どうなるかはわからないし、いつになれば俺たちの目的が果たされるのかも、正直はっきりとは言えない。もしかしたらこの先何年もかかるかもしれないんだ。その日までヴィルヘルミナに自分の夢をあきらめてほしくない。だからオリヴィニスに戻り師匠連の試験を受けろ」
「再試験……」
「引っかかっているのは、そのことだろう?」
ヴィルヘルミナはかつて魔術アレルギーという思い込みで師匠連の試験を受けることができなかった。だが、試験は一度きりではなく実力がついた頃に出直してもいいという情報も得ていた。
ヴィルヘルミナはザフィリに来て、平穏な暮らしを送るうちに、そのことを強く意識するようになった。この暮らしを守りたいという気持ちはあるが、ここは本来の自分の居場所ではないと、自分の真の力を発揮する場所があるはずだと、夢や野望が呼んでいる声も強く聞こえるようになっていたのだ。
「お前が凄い冒険者だということは、俺とマテルが良く知っている。そのことを証明して来い」
フギンは不貞腐れたような顔つきだが、その声や言葉は仲間を心から思いやっていた。ヴィルヘルミナは自然と涙腺が緩みそうになった。
「…………わたしが師匠連になったら…………ギルドの依頼をたくさん受けて、がっぽがっぽ金貨を稼いで、フギン、お前をヨカテルのところから身請けしてやるからな…………!」
泣きたい気持ちをぐっと堪え、冗談めかして言う。
あまり冗談にもなっていない未来予想ではあるが、フギンは無言でヴィルヘルミナの左肩を支えた。
「そのときは工房の運転資金の貸し出しも頼むよ」
マテルもそう言って、右肩を支える。
三人の道は違えど、ここにいるのは本当の仲間たちだった。
*
フギンたちは緩衝地帯まで翼に乗って行き、そこからは徒歩で荷物の受け渡し地点に向かうことになった。
荷物の受け渡しはオリヴィニスではなく、近い村で行われる予定だ。
アンテノーラの守護騎士たちは旅の商人に変装しており、荷物も王国産の織物などに偽装してくれていた。
受け渡しが済むと、ヴィルヘルミナはほかの二人と別れ、単身でオリヴィニスに向かうことになった。マテルとフギンは村に留まり、ヴィルヘルミナの試験が終わるのを待つのだ。
「本当に一緒に行かなくて大丈夫かい、ヴィルヘルミナ」
マテルは最後まで心配していたが、ヴィルヘルミナは気丈に振舞っている。
「うむ。これは私がやり残したことだ、私の力だけで片付けたい!」
フギンとマテルもついて行きたいのは山々だが、受け取った荷物を護衛するというやっかいな役目がある。それに、フギンはオリヴィニスを少なからず騒がせ、街に損害も与えた存在だ。ほとぼりが冷めるまでは近寄らないのが無難だった。
そういうわけでヴィルヘルミナは単身、オリヴィニスに入った。
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