第213話 錬金術師のサロン ☆
サロンは錬金術師たちによる情報の交換や研究内容の報告をしあう場である。
錬金術師が名を上げるオーソドックスな方法はもちろん、錬金術師協会に研究成果を認めさせることなのだが、巷に溢れんばかりの錬金術師たちはまさに玉石混交で、協会もいちいち有象無象魑魅魍魎どもに取り合っていたらいくら時間があっても足りない。
そういうわけで、何の実績もない新参者が真正面から馬鹿正直に協会へ論文を持って行っても門前払いが関の山、まずは帝都のあちこちで開催される《サロン》を利用するのが通例だ。
サロンの主催者は高名な錬金術師である場合もあるし、スポンサーになっている貴族の場合や、会員を集めて多数の錬金術師で開催するものなど様々で、長い歴史を持つ著名なサロンもいくつかある。そうした場で研究内容を披露し名声が高まれば、ようやく錬金術師協会から声がかかるというわけだ。
エミリアとフギンの苦心と努力の末、動きはじめた活版印刷機によって大量に刷られ、ばらまかれたヨカテルの論文は錬金術師たちの狭い世間に激震を与えた。
秘密裡に行われていた追従実験の結果を携えてエミリアは帝都デゼルトに舞い戻り、サロンに出入りして結果報告を行っていた。
*
マレヨナ丘陵地帯にある一軒の農家。
そこが、エミリアたちの隠れ家だった。
豊かな農地、広々とした邸宅や納屋は、錬金術の秘密の実験を進めるのにこれ以上ないほど最適だ。
本来ならいま、この場所にはフギンやマテルも合流して、賑やかな様子になっていたはずだった。
だがエミリアとヴィルヘルミナがフギンとの再会を喜んだのもほんの束の間のことだ。居間に置かれた木のテーブルを囲み、沈痛な面持ちで考え込むことになるまで大した時間はかからなかった。
夜が更けてから、この居間にマテルがやってきた。
いつもは優しげに微笑んでいるその顔を怒りでゆがめながら、テーブルの上に古臭くてかびの生えそうな書物の山を叩きつける。
それから一言、
「ない!!」
と叫んだ。
フギンはちらりとマテルを見上げる。
「やっぱりか」
「ああ。協会が発足から今日まで発行したすべての会則を確認したけれど、どこにも《論文を錬金術師と技師の連名で発表してはいけない》という条項はなかった! 《女性と男性による共著で発表された論文は無効》っていうのもない!」
全員が深いため息を吐く。
その中には協力者である錬金術師テルセロの姿もあった。
先日、エミリアは彼と追従実験の結果を報告しに、とあるサロンへと向かった。
実験の内容は驚きをもって迎えられたが、予期せぬことが起きた。
発表した実験結果とは別に、エミリアが錬金術師ではなく技師であること、そして女性であることを問題視する声が上がったのだ。
錬金術師協会には女性錬金術師は存在しない。
帝国領ではベテル帝の時代の立法が生きていて、その影響で女性は技師にしかなれないのだ。もちろん、それはグリシナの最後の姫君、フェイリュアが錬金術を学んでいたことに由来するものだろう。
「みなさん、ごめんなさい。私のせいで……。論文から、どうか私の名前を削除してください。それなら次のサロンでは私たちの主張が受け入れられると思います」
エミリアは思いのほか意気消沈した様子で申し出る。
「それはいけませんよ。今回の発表も、これからの実験も、エミリアさんの協力なしにはできないことです。むしろ僕は名前を貸してるだけみたいなもんなんで、功績を独り占めにするようなこと、とてもできません」
テルセロは慌てた様子だ。
技師にしかなれなかったとしても、エミリアの錬金術に対しての知識や経験は本物だ。肩書や性別で文句を言われるいわれはない。
すかさずマテルが援護する。
「安心して。今回読み込んだ規則は全部暗記したからね。次の発表には僕も同行するし、もしも同じような難癖をつけてきたら、そいつには公衆の面前で恥をかいてもらう。これからは僕が法だ。錬金術師といえど法律には勝てない」
マテルの目は妙に据わっていた。
「マテルは怒ると怖いキレ方をするな」とヴィルヘルミナが呟く。
「今思うと、サロンで発表するために用意した紹介状もよくなかった」
フギンは暗い表情でぼやく。
錬金術師のサロンには格式高いものもあり、貴族の出入りもあるため、身元を保証する紹介状を用意する必要があった。
とはいえフギンは在野の錬金術師で、マテルもただの町民である。
これといってちょうどいい人物がいない。
「一応有名貴族出身のアンナマルテ様に頼んだのだが、まさかリジア様とレヴ陛下の連名で帰ってくるとはな!」
ヴィルヘルミナはあっけらかんとしているが、聖女リジアとコルンフォリ王の連名の紹介状の衝撃はものすごかった。
間違いなく本物なのに、どう見ても偽物にしか見えないのだ。
「あれは詐欺とかをやる人が持ってくる紹介状だよ。僕も仕事相手があれを携えてきたらまず信じないね……」
「考えてみたら、ギルド長あたりで手を打っておけばよかったんだよな」
なにしろ紹介状の真贋を調べるために丸一か月かかったのだ。
それが偽物ではないとわかっても、不信感は消えなかっただろう。
これからもサロンで発表するたびにけちをつけられることは目に見えている。
「これから先も論文の内容とは関係ないことで余計な口出しが入るとしたら、その対処だけで疲れきってしまいそうだね」
「ああ、何とかしないとな」
何しろフギンたちはこれから魔物を使った実験に手を出そうとしているのだ。
すでに準備は進められていて、庭のプールで水棲の魔物の飼育をしている。
そのとき、居間の戸が開いて、たおやかな女性が入ってきた。
華奢な両肩に花柄のレースのショールを羽織っている彼女は、この家の女主人のフィヨルである。
「みなさん、お集りのところ……。ちょっと見てほしいものがあるのですが」
彼女は卓上に禍々しい木製の器具を置いた。
頑丈そうな木製の長方形の箱の一端に、やはりこれも相当に頑丈そうな包丁を取り付けたものだ。
「台所にあったものを利用して製作してみました。かねてからの懸案事項であった小型のスライムを一定の力、一定の速度で殺す装置です。箱の片方の穴からスライムを入れ、取り付けた包丁を動かすと下に敷いた板がスライドしてスライムを運び、切断します。入り口の大きさは変わりませんから、実験に用いる魔物の大きさが変動することはないでしょう。そして、この装置、なんと……ちょうど成人男性の腕が入る大きさになっています」
そう言ってフィヨルは笑顔を見せた。
「ええ、つまり、エミリアさんが女性だからといって論文に難癖をつけた不埒者の腕も入りますね」
そして、女性の力でも簡単に切断が可能であることをアピールするため、何度も包丁部分を動かしてみせる。
フギンはあまりの恐怖に慄き、のけ反った。
これまで意識したことはなかったが、帝国領の女性たちの怒りは深いものがあるようだ。
「ちょいとフギンちゃんよ」
不機嫌そうな声が真横からかかり、フギンは今度こそ飛び上がりそうになった。
じろりとフギンを睨みつけてくるのはザフィリの戦士ギルド教官・ミダイヤである。
「フィヨルがそうしろと言うから許しちゃいるが、お前さんたちはいったいいつまでここに居座るつもりなんだ」
もともと、この農家はフィヨルの静養のために用意されたものだ。
そこに錬金バイクが破壊されて追われる身となったテルセロが居座り、いつの間にかエミリアと護衛役のヴィルヘルミナが、そしてフギンとマテルが合流して今の形となった。まさに招かれざる客人だ。とくにフギンは。
ある程度、誤解や過去の因縁が解けたとはいえ、ミダイヤに刻まれた恐怖の記憶は消えない。ここにきてからというもの、フギンは猫に追われながら針山の上を走り回るネズミの気分であった。
フィヨルはそんなフギンを庇うように言う。
「まあ、あなた。静養のおかげで私の体もだいぶよくなりましたし、錬金術というものをエミリアさんから教えて頂いて、久しぶりに楽しいのです。この楽しみを奪わないでください」
ここで研究ができるのは彼女の好意のおかげだ。
「…………フィヨルさんもそう言ってるし、しばらく置いてくれると助かる」
フギンは頭を下げた。しかし、何か煮え切らないものがあるのも確かだ。
「それにここはフィヨルさんの親戚の家だろ」
「だが妻が小型のスライムを一定の力、一定の速度で殺す装置を開発してるんだぞ。心配もするだろ」
「それに関しては……………ぐうの音も出ない」
正論だった。しかも、あまりにも隙がなさすぎる。
ミダイヤはフギンにたかるとき以外は、正論しか言わないのだ。
「だいたいな、こんな状態で話を進めたって絶対に上手くいきっこないぞ。お前さんら全員、ナメられてるんだからな」
「だけど、これは冒険者の話ではなく、錬金術の話だよ。筋を通して話せば彼らもわかってくれるはずだ」
いかにも心の優しいマテルらしい反論を、ミダイヤはエミリアとテルセロが用意した論文を爪で弾きながら鼻で笑ってみせた。
「正しさの話なんか誰もしてねえ。いいか、相手の腹のうちを考えてもみろ。お前らは並の錬金術師が震えあがるようなやばいもんをわざわざ掘り出して陳列したんだ。だったらそういうやばいもんは元の穴に帰って頂くほかないだろう。こんなところでしょうもねえ足踏みしてる間に、墓穴が埋まるぞ。笑えねえ」
ミダイヤが言いたいことも、わからないでもない。
時間がかかればかかるほど、フギンたちは不利な立場に立たされる。
これは論理の正しさではなく、信用の問題なのだ。帝都の錬金術師たちは、とうに表舞台から消え去ったはずの老錬金術師や、どこの馬の骨とも知れない錬金技師に自分たちの研究を引っ掻き回されたくないのだ。
「ヨカテル氏の論文は《賢者の石》がいったい何なのかを明らかにするための大切な足がかりです。その答え如何によっては、確かにこれまでの研究が無かったことになるかもしれない。ですが、この結論なくしては、これからの錬金術にも未来がありません。しっかりと議論することが大事なんです」
エミリアは考えながら言った。
考え込む面々に対して、結論を出したのは意外にもヴィルヘルミナだった。
「とにかく、連中に余計なことを言わせず、論文の内容だけに集中させればいいのだろう? なら、方法があるぞ」
ヴィルヘルミナは人差し指を向けた。
そこには不機嫌な顔を晒しているミダイヤがいた。
*
フギンは納屋の二階に用意してもらった寝台に横たわっている。
小窓からは夜の農場が見渡せる。
ザフィリからマレヨナ丘陵地帯までは、寄り道さえしなければ大した道のりではない。しかし、これまでの旅の道のりのことを思うと、ここは世界の果てのように遠く感じられた。横たえた体には重たい疲れがある。
そういう夜は、夢を見るだろうな、という予感がある。
その予感の通り、眠りについたフギンの後ろ髪を何者かがそっと掴んで、どこか遠い場所に連れていく気配があった。
そこは真っ白な雪原だった。
大地の果てまで見渡す限り雪だけがある。広大な景色だ。
その風景の真ん中に、芦色の髪を上等の絹のように翻して彼女は立っている。
裸足のままで、体には麻の襤褸をまとっただけの姿で、碧玉の色あいをした瞳は遠くを見つめている。
「久しぶりですね」
と、彼女はフギンの気配に気がつくと、言った。
じわり、と、言葉よりも先に心に感情が広がる。
会いたかった……。ずっとずっと会いたかった人だ。
思い返してみれば夢の中で彼女と会うのははじめてではなかった。
旅を始めたときは、フギンは自分が何者かということを忘れていて、彼女の夢が意味するところには気がつけないままだった。
でも、今はちがう。人の体をしていたとしても、フギンは女神に作られた魂を運ぶ器なのだ。そして彼女はフギンに預けられた魂のひとつ。
夢だと思っていたのは夢ではなかった。
ここは《死者の国》だ。肉体を失った魂の居場所なのだ。
「ああ、久し振りだな。フェイリュア……。ここはイストワルか?」
「ええ、そうです。なんて広くて冷たい場所なんでしょう。あの牢獄よりも寒々しく凍えた大地がこの大陸にあるなんて、私はあなたが旅に出るまで知りませんでした。もしも知っていたら……」
フェイリュアはうっとりと目を閉じた。
彼女がイストワルのことを知っていたら、なんとしても行ってみたいと言い出したことだろう。どれだけ不可能な理由が転がっていたとしても、抑えきれない好奇心のかたまりになって道を進む。それがフェイリュアであり、彼女が錬金術に惹きつけられた理由でもある。
彼女の考えていることがフギンには手に取るようにわかる。
収容された魂たちとフギンとは深くつながっている。
だからこそフギンは彼らの力を借りることができた。錬金術の知識や、魔術の力、人を励ます言葉の力、剣術や旅の知恵を。
それと同時に悲しいことや辛いことが時の流れとともにフギンの胸のうちにある。導師シャグランでさえ狂わせたほどの膨大な悲しみの連続、降り積もる憎しみと怒りの記憶だ。
「考えてみれば、君はいつも導こうとしてくれていた」
「あなたの内側から、ずっと見守っていましたよ。できれば、辛いことを忘れたまま生きていってほしかった……。せっかく人間になれたんだもの」
「君と一緒にいたときも、幸福な時間はあった」
フェイリュアは俯いたまま、細い首を横に振る。
「人はひとりでは寂しく、二人でもひとりぼっち」
呟いた言葉は彼女の苦難に満ちた人生を表していた。
聡明で気高く、多くの人に慕われて、それでも最後は冷たい牢獄で生涯を終えた。何より生を受けたときはグリシナ王国の人質として、そして、死んだときは謀反人としてだった。
彼女を取り巻いていた人々のうちいったいどれだけの人間が、本当のフェイリュアを理解していただろう。
「君とちがって、俺はいつもひとりではなかった」
「ええ……。そうです。マテルやヴィルヘルミナが一緒にいてくれましたね」
「そして君がいた」
フェイリュアは少し驚いたような顔つきになり、微笑んだ。
フギンが持つ錬金術の知識、そして未知のものを知ることへの好奇心は、すべてがフェイリュアによってもたらされたものであって、自分自身はどこにもない。
そのことが辛いと感じたこともあるが、今はちがう。
フェイリュアは、誰よりも一番近く、さ迷うフギンのそばにいてくれたのだ。
「シャグランに会ってくれますか?」
フェイリュアはフギンに手を差し伸べた。
その姿は粗末な麻の服ではなく、輝かしい金剛石を飾った夜色のドレスをまとっった姿に変わっていた。星芒の宴でみせたあでやかで若々しい姿だ。
フェイリュアに連れられて向かったのは、わざと薄暗く照明を落とした薄暗い部屋だった。毛深い絨毯が敷き詰められており、行きかう人々の服に焚き染められた香のにおいが微かに漂っている。
暗い色のカーテンの向こう側で男たちが談笑している。
ひとりは臙脂色のローブをまとった灰色の髪の男で、向かいに腰かけているのがシャグランだった。
シャグランも同じ色のローブを肩にかけている。しかしその顔つきや、身につけている服はサン・グレにいたときのもの。
いま、表情は穏やかで、憎しみや怒りといった負の感情は見受けられない。
困難な彼の人生のすべての時間が、一身に集約されていた。
シャグランは立ち上がり、親しげにフギンに片手を上げてみせた。
「やあ、君か……。なるほど、こうしてみると瓜二つだ。少し二人で話そう」
シャグランはしげしげとフギンを見つめる。
フェイリュアをその場に残し、シャグランは歩きはじめた。
二人は暗い通路に入っていく。
「君たちはまだこっち側に残ってるんだな。未練があるからか?」
アラリドが言った通り、フギンは正しい死者の国ではない。しかしムニンの《風切り羽根》を手に入れたことで、本当に望むならば、彼らはフギンのそばを去ることもできるのだ。
「なぜ? アマレナのことを恨んでいるからか?」
アマレナの身柄をハイエルフたちに任せたのは仕方がないことだった。
もはや人間の法律ではアマレナのしたことを裁くことはできない。裁いたとしても、罪を償わせる手段もない。
あの場の判断ではそれが最善だった。
「アマレナを恨んでいないと言えばうそになる」
シャグランは落ち着いた声音で言った。
「オリヴィニスの者たちには迷惑をかけたが、だがあの憎悪の感情は、いまも私の中にあり、そういった感情を抱くことを悪いとは露ひとつ分ほども思っていない。この世のすべてが滅んでも構わないと心の底から感じているのも本当だ」
言葉の苛烈さと裏腹に、シャグランは穏やかだ。
「だが、それと同時に、そうではない感情もある……。ベテルやアマレナを哀れだと思う」
「哀れ?」
「莫大な権力を持ちながら、終生、恐れと猜疑心に苛まれていた。そして同じ醜さがほかならない己自身にもある。私が君の体を借りてアリッシュにした仕打ちについては、女神もさすがに許すまい。すまなかった……」
「済んだことだ。でも、どうしてなんだ?」
フギンはシャグランの深い怒りを一番そばで感じていた。
それはとても消えることのないような炎だった。なぜその炎を消して、いま穏やかでいられるのかフギンは不思議でならなかった。
シャグランはすんなりと答えた。
「君の旅がおもしろかったから、かな」
「俺の旅が?」
「そう。いろいろなことがあっただろう? 毒沼の大蛇の目から、剣を引き抜いて、それからずっと……」
「見てたのか」
「ああ。全部みていたよ」
そう言って、シャグランは通路の暗い壁のほうを見る。
フギンが視線で負うと、真っ黒な壁に風景が広がる。
それは緑豊かな丘陵地帯や、帝国の地下水道、山岳地帯や霧の煙る街道、様々な見覚えのある光景へと次々に変わって、果てなく広がっていく。
「眠りこけた村のことも、ニスミスの馬鹿馬鹿しい小さなコインのことも。エルフヒントってなんなんだ? それからアーカンシエル、飢えの森に隠されたアジト……なつかしかった……。君たちがおかしな村で捕まったときは、フェイリュアがとても心配していた。華やかな西の都。噂に聞くアンテノーラの美しさ。不思議な商人や幽霊船……」
まだ知らないことが、見たことのない景色が、次々に現れては消えていく。
ひとつひとつは些細なことでも、思い返すと極彩色の地図になる。
「そしてその旅の間に、強い者、弱々しい者、やたら騒々しい者、誇り高い者、いろいろな人が君たちを支え、通り過ぎていった……。人間は一種類ではないな。そして、私自身も同じ。憎しみや怒りだけではない……」
シャグランが見つめている先には、椅子に取り囲まれた小さな壇があった。
「もしも君の旅の続きを見たいなら、世界を滅ぼしてしまってはそれができない。私たちは君の旅の続きが見たいんだ」
「いいけど、望みのものは見れないかもしれないぞ」
「構わない。がっかりするのもある意味、旅の醍醐味だ」
「ものすごくくだらない結末が待ってるかもしれない」
「ひとまずは、君がどうやって陳腐な論評者どもを黙らせるか、お手並み拝見しようじゃないか」
「手立ては考えたんだが、物凄く馬鹿にされそうだからお前だけには見られたくないよ……」
フギンはぼやいて肩を竦めた。
そのとき、フギンの肩を誰かが掴んだ。
*
フギンが目覚めると、目の前の光景は先ほどまでとだいぶ違っていた。
薄暗い部屋の椅子を埋め尽くしているのは帝都デゼルトの錬金術師や、見物にきた貴族たちだ。
フギンは彼らの後ろ頭越しに、見物客の椅子に囲まれた小さな舞台に上がるエミリアとテルセロを待っている。
そこは錬金術師のサロンだった。
フェイリュアも、シャグランもいない。フギンの両脇に立っているのは鎧を脱いで正装を着こんだマテルとヴィルヘルミナだ。
「フギン、こんなところにいたの? そろそろ発表の時刻だよ」
「…………まだ納屋の二階にいると思ってた」
マテルに言われて、そういえば、と発表のために帝都に来た経緯を思い出す。
最近、そういうことがよくあった。
グリシナの鴉としての過去を思い出したせいだろう。
不意に現実の世界と、死者の国でのことがごちゃまぜになってしまうのだ。
「寝ぼけているのだな。無理もない。実験のためにみんな徹夜だったからな」
ドレスを着たヴィルヘルミナが淑女然として、扇の内側で小さな声で言う。
「それにしても、あの作戦は上手くいくのか?」
フギンは観客の顔を確認する。
事前にサロンに出入りする錬金術師は調べている。ここは比較的、貴族の出入りが少なくて、錬金術師の数が多い。
しかしその中に《女嫌い》で有名な学者がひとりいて、取り巻きも多い。
それだけが厄介な点だった。
三人はその人物を注視している。
檀上にテルセロとエミリアが現れ、予定通りの時刻に発表がはじまった。
図表を広げながら説明している途中、件の男が挙手した。
「テルセロ氏、確か君は錬金術による長距離輸送手段の研究を行うグループに属していたはずじゃないのかね?」
男が話しかけたのはテルセロに対してだが、視線は意地悪そうにエミリアの全身を睨めつけている。何か攻撃をしかけてくるのは明白だ。しかもその攻撃は、盾でふせいで剣で斬り返せばいいといった単純明快なものではない。
「いったいどういう理由で宗旨替えしたのかお聞かせ願いたいね」
ねっとりとした口調だった。
テルセロは戸惑いながら答える。
「それは――そうだが、自分にも個人的な研究テーマというものがあるし、正規の手続きを踏んでいる。問題はないはずだ」
「いいや、問題あるね。隣の女は一体何者だ? もしかすると君の恋人か妻、それとも愛人なのかね」
「彼女はそんなんじゃない。やめてくれ。彼女は協会で錬金術のために働く立派な技師のひとりですよ」
「技師! 技師だと!? おい、みんな聞いたか?」
男の周囲に笑い声の波が起きた。
「技師ってのは、錬金術師の下働きみたいなもんだ。それが一丁前に人前に出て、錬金術師に物を言うっていうのか。馬鹿馬鹿しい、女の色香に惑わされてサロンの品格を貶めるとはな。女なんてものはしょせんは下等な知性の持ち主なんだ。家で洗濯でもしていればいい!」
野卑た笑い声に囲まれ、エミリアは戸惑う。
サロンには女性の姿もあったが、エミリアを庇おうとする者はいない。女性たちは大抵が貴族の夫の同伴者で、扇の下に素顔を隠したままだ。
フギンたち三人は声をひそめた。
「なんて奴だ。あんな奴、工房の職人だったら今すぐ辞めさせてやるのに」
「これが冒険者ギルドならあばらを折られて退場だ」
「アンテノーラ宮殿でだって、なます斬りにされてるところだぞ」
ひそひそ声でそう話しながらも、手は出さない。
エミリアを見放したからではない。こうなることを見越して、すでに対策は打ってあるのだ。
「そもそもだ!」
恥ずかし気に視線をそらしたエミリアに、勝利を確信したのだろう。
男はさらに声高になった。
「女は錬金術に関わらずというのは皇帝陛下がお決めになったこと。それに反するとは帝国に弓を引くのと同じことだぞ――ぎゃん!」
男のセリフの最後が、何やら妙な音階によって汚されたのには訳があった。
その椅子が背後から強く蹴られたのだ。
「な、なんだ。誰の仕業だ!?」
怒った男がうしろを振り返ると、信じられないくらい尊大な態度で椅子にふんぞり返る大柄な男が目に入ったことだろう。
目に入った、どころの騒ぎではない。
男の真後ろの席には場違いな若い男が、左右両側の椅子の背もたれに両手を回して独占し、ただならない威圧感を放ちながら、それが当然とばかりにのけ反っていた。
「おい兄ちゃん、悪かったな。俺様の長すぎる脚が椅子に悪さをしちまったようだ。わざとじゃないぜ、許してくれよ。なあ?」
金色の髪に、鮮やかな緑の瞳は爛々と輝く。鎧は脱いだ姿だが、胸板は鋼のように分厚い。
ほとんどの錬金術師は研究室に閉じこもって一生を終える学者だ。
それとくらべたら、丸太と豆もやしくらいに体格がちがう。
ミダイヤは男の背もたれを何度も蹴りつけた。
「なんとか言ったらどうなんだ。さっきまで立派なご高説をぶってたじゃねえか。あの威勢はどこにいったんだ。ぜひともこの俺様にもう一度、聞かせてくれよ」
男は必死になって、今にも壊れそうな椅子を両手で押さえつけているしかない。
ひとりだけ大地震に見舞われているかのようだ。
それでも男は歯を食いしばり、椅子を蹴ってくる凶悪な男の存在を見ないようにしている。まるで自分は揺れてはいないのだと必死に言い聞かせているふうでもあった。まるで無意味な努力だ。
男の椅子を蹴りつけているのは戦士ギルドのミダイヤなのだ。魔物ですら、ひと睨みで逃げていく生まれながらのいじめっ子だ。筋肉の量がちがう。錬金術師などという学問オタクに勝てる見込みはない。
「おいおい、どうしたんだ? びくびく震えちまって。人様に意見を言うからには、しゃっきり立って言え」
明らかに調子に乗っているミダイヤは男のズボンを両脇から掴むと、空中に吊り下げた。
「やめろっ! 離せ! 離せーっ!!」
「ほら、さっきは何て言ったんだ。女は下等な知性の持ち主だとかいうところからだよ。俺様は自他共に認める愛妻家でその意見には一言も二言もある。だが、言論の自由は尊重するべきだからな。遠慮せず言ってみろよ」
ミダイヤは必死に抵抗する小男を上下に揺さぶって遊んでいる。
周囲の人間たちはミダイヤを恐れ、震え上がってしまい、仲間のために反論をしようという気配すらなかった。
「な? 名案だっただろう。いじめっ子にいじめっ子をぶつければ、強いほうが勝つ。当然の理だ。これでエミリアに文句をつける輩はいなくなったぞ」
ヴィルヘルミナはさも名案というふうに言う。
このいじめっ子に実際に追い回され限界まで疲弊した過去を持つフギンと、《眼鏡をかけている》とかいうどうしようもない理由で手習いに通っていた幼年学校で似たような目に遭っていたマテルにとっては、あまりにも気の毒すぎて胃が痛くなるような光景だった。
「…………とてもじゃないけど見ていられない。次は別の方法を探そう」
「そうだね、フギン」
フギンは溜息を吐いた。
そして、この光景を彼らも見ているだろうか、と考えた。
学究の場に暴力を持ち込むなんて、と怒っているかもしれない。
それとも、くだらないと言って腹を抱えて笑っているだろうか。
どちらであっても構わないとフギンは思った。
どちらでもあるかもしれないのだから。
きっと今日のことも、いつか色鮮やかに思い出すだろう。
人は複雑なものなのだ。
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