第212話 サン・グレ ☆
サン・グレは豆畑に飲み込まれようとしていた。
少なくともロイヴィの瞳にはそう見えた。
はじめ、両親とともに訪れたサン・グレの地は絵本に出てくる物語のような場所だった。古くてこじんまりとしている城や、のどかな城下町。
ロイヴィたちとも気軽におしゃべりをしてくれるヴェレ卿や奥方様は、会ったら目を伏せなければいけない帝国の皇帝一族やその宮殿と比べるとずいぶん気さくで親しみが持てる存在で、けれども、帝都や帝国の領地から逃げてきた人々が次々にサン・グレを訪れて、そうとばかりも言っていられなくなった。
とくに食べ物に関する困窮具合は日増しに目に余るものになっていった。
大人たちは畑仕事に明け暮れ、耕せる土地はみんな畑になった。そのうちとうとう石畳も剥がして耕し、城の内側にも豆を植えはじめた。いつかロイヴィたちが住んでいる宿舎にもあのにょろにょろした緑色の蔓が入り込み、何もかもを覆い尽くしてしまうのではと心配するあまり、何度も悪夢を見た。
そんなことを妹のフリエに話すと、フリエは鼻で笑って「ロイヴィは畑仕事を手伝いたくないだけ」だと批難する。
ロイヴィのほうも身に覚えがないとも言えないので、そんなときはお互いむきになって言い返して、喧嘩になるのがいつもの城下町の風景だった。
大人たちはそんな二人を見つけると必ず「お城に上がってフェイリュア様の御髪を編んでおあげ」と言って追い出すのだった。
「ロイヴィのせいよ! フリエは全然そんなことないのに、ロイヴィと一緒にいると、いつも仕方がない子って思われちゃう!」
フリエは顔を真っ赤にして、まるで小鬼のようだった。
その顔をじっと見ていると、ロイヴィは面白くもないのに笑えてくる。
「まあまあ、落ち着きなさいよフリエったら」
ロイヴィはわざとゆっくりとした口調で言った。
「どうしたら落ち着いていられるの。刺繍もお手伝いも、お勉強も私のほうができるのに、大人たちは私たち二人とも似たようなものだと思ってるのよ!」
「まあ、似たようなものだから、無理もないわ。顔がこれだけそっくりなんじゃあね……」
ロイヴィがやけに落ち着いたようすで、呑気そうに穂のついた草で遊んでいるので、フリエの癇癪はますますひどくなりそうな気配をみせていた。
「まあまあ、フリエ。午後の仕事をさぼれたんだから、それでいいじゃないの。それともあなた、フェイリュア様がおきらいなの?」
フェイリュア様はヴェレ卿と一緒にお城に住んでいる若い女性だった。
大人たちが言うには、帝国に滅ぼされた小さな国のお姫様だということで、城でも、城下町でも、まるで女神様のように崇め奉られていた。
もちろんフェイリュア様が崇められているのは彼女が高貴な女性だからというだけじゃない。
彼女はサン・グレに屈強な騎士たちを集めてくれた。滅びた王国に古めかしい忠誠を誓う守護騎士たちだ。ヴェレ卿の兵士たちが帝国と対等に渡り合えるのは彼らの尽力によるところが大きかった。
そしてフェイリュア様自身も、本当なら今頃王国に亡命できていたはずなのに、わざわざヴェレ卿の城に留まってみんなのことを励ましてくれているのだ。
ヴェレ卿がベテル帝と仲違いした後、何度も何度も聖都ミグラテールに救援を求める便りを出したのに、返事ひとつくれなかった聖女様とは雲泥の差だと、みんなが思うのも仕方がない。
「きらいではないわ」
フリエは道端の小さな花を摘みながら、難しい顔でそう言った。
お城へ上がっていく道には野草がたくさん生えていたので、それを摘みながら歩いた。
毒や刺がなくて柔らかいものは食べられる。
お腹いっぱいにはならなくても、いつもと変わらない豆のサラダに添えると美味しい気がした。
途中、おそろいのローブを着て、木の棒っきれを持った男の子たちとすれ違った。
顔見知りのトールカとキトラも混ざっている。
男の子たちは魔術の練習場に行くために城門をくぐり、坂道を降り始めたばかりだった。
めいっぱい道の端っこに寄っていたにも関わらず、集団からひとりが手を伸ばし、フリエのお下げ髪を引っ張った。
「やい、父なし子!」
「母親もいないんだっけ? じゃあ、親なし子だ!」
男の子たちが囃し立てる。
「こら! シャグラン先生に言いつけるよ!」
勇気を出してロイヴィが声を上げると、男の子たちはニヤニヤ笑いを浮かべた。
シャグラン先生はフェイリュアが連れてきた精霊術師だ。
なんでも、帝都にいた頃は皇帝陛下に仕える凄腕の宮廷魔術師だったらしい。
先生はロイヴィたちに読み書きを教えてくれる。それだけじゃなく、男の子たちに魔術を教えてくれた。
魔術を覚えておけば、子どもでも戦場で働くことができるからだ。
「先生を呼んだって来やしないよ!」
「《なんでそんなことをしなくちゃいけないんだ?》《この俺が?》」
男の子はシャグラン先生の声真似をする。
ロイヴィは唸った。
すごくよく似ている。
先生は見た目も性格も陰気で、どこか他人と一線を引いているところがあって、しかも嫌味っぽい。
たとえロイヴィたちがいじめられていたとしても、そんなこと歯牙にもかけないに違いない。どうでもいい、と恥ずかしげもなく言い放つだろう。
そのとき城門のむこうに人影が見えた。
ロイヴィもフリエも「あっ」と声をあげそうになる。
「ロイヴィ! フリエーっ!」
青空に向けて手を大きく振り、長い亜麻色の長い髪を絹の旗のように翻した女性が二人を呼んでいる。
「見て、こんなにたくさん豆が取れましたよーっ!!」
青々とした豆を山盛りにして手を振っているのは、男もののシャツとズボンを身にまとったフェイリュア姫だった。
*
たしかにフェイリュア様は女神様や噂に聞く聖女様のように美しく、お優しい。
しかし、ときどきロイヴィたちですら心の底から恐ろしくなるほど子供っぽくなるところがあった。
そういうとき、ロイヴィとフリエはこの人をシーツか何かに包んで、お城の奥深くに隠しておきたい気持ちになるのだった。
たとえば今がそうだ。
「フェイリュア様、男の方の前で大声を出してはいけないんですよ」
フリエが注意すると、フェイリュアは不思議そうな表情を浮かべた。
彼女は錬金道具がたくさん並んだ作業台に、豆の房を割って取り出した中身、つまり豆を並べている。なんでそんな風変わりなことをするのか、しなくてはいけないのかは、誰にもわからない。
ご覧の通り、彼女はかなりの変わり者なのだ。
「え? どうして? みんなかわいい坊やたちではありませんか」
「そういう意味じゃありませんったら。そうだとしてもフェイリュア様は子どもじゃないんですよ」
「大人になったら大きな声を出したらいけないの? なぜ? どんな理由があって?」
「シャグラン先生みたいなことを言わないでください!」
フェイリュア姫は、絵本に出てくるお姫様からはあまりにもかけ離れていた。
ヴェレ卿の居館にもらった一室は、ひらひらしたレースやお化粧道具、ドレスなんかはひとつもなくて、錬金術に使う訳のわからない石や道具が並んでいる。
放っておいたら、身なりも適当にしたままで、そうした道具に夢中になって一日中過ごすことになるに違いない。
フェイリュア姫にくらべたら、ロイヴィのほうがよほどおしとやかだろう。
ロイヴィは長い髪を梳くのに一生懸命になりながら、そう思った。
フェイリュア様の髪はサン・グレのどの女性よりも長い。どんなに髪を結うのが上手でも、たいへんな仕事なのだ。ちなみにこの仕事を誰よりも早く投げ出したのは、ほかならないフェイリュア姫自身である。
「でもシャグランは私が大きな声でしゃべっていても、怒ったりしませんよ」
「先生の言うことなんか、当てにならないじゃないですか!」
フリエが叫んだとき、後ろから咳ばらいの音が聞こえてきた。
部屋の入口に地獄の門番のように陰気な目つきの男が立ちふさがっていた。
「私の言うことがどうしてあてにならないんだ? いまの発言はどっちがしたんだ、ロイヴィ? それともフリエか?」
意地悪そうな声だ。ただでさえ目つきが悪いのに、じろりと睨みつけられると背筋に冷たいものが這い上がってくる。
ロイヴィは震えあがった。
彼が噂のシャグラン先生である。
フリエはあまりの恐ろしさに、顔を伏せたまま、黙ってロイヴィを指さしていた。
このままでは、絶対に殺されると思った。
けれど、そうはならなかった。
「シャグラン。ちょうどいいところに来ましたね! 私の育てた豆を見てくださいませんか」
ちょうどいいタイミングでフェイリュアが話題を変えてくれたのだ。
シャグラン先生はロイヴィとフリエから興味を失ってしまったようだった。
「また君はくだらないことに夢中になってるようだな。いったい何を見ればいいんだ?」
「豆です。じつは私は去年収穫された豆から、粒が大きい物、それからひと房にたくさん実るものを選んで城の畑に植えていたのです」
「なぜそんなことを……」
「それはもちろん、収穫量を上げるためです。だって、大きな豆からは大きな豆が、たくさんの粒の豆からはたくさんの粒の豆が生まれてくる気がしませんか?」
「果たしてそうだろうか」
「うんうん。シャグランは冷静ですね。結論から言うと、あなたの疑問の通りなのです。今年の収穫物は、残念ながら昨年と同じく粒の小さいものやひと房に少量しか豆が実らなかったものが混じった状態でした。いったい何故なのでしょう?」
フェイリュアは律儀に合いの手を入れるシャグランですら置き去りにして、早口にまくしたてて首を傾げる。
シャグランは豆に夢中な姫君に優しく微笑みかけた。
それから、むき出しになった豆をすべて籠に戻し、それを持って立ち上がった。
「貴重な食糧を実験に使った罰だ。これは昼食にする」
フェイリュアは泣きそうな顔でローブの裾に縋りついた。
「ああっ、やめて! やめてください! 実験なんかじゃありません。それは私が手ずから育てた、我が子のように愛着のある特別な豆なのですよ! 本当です。うそじゃありません。名前までつけているのですから!」
「ほう、じゃ、全部の豆の名前を言ってみろ」
「いいですよ、マリアンヌ、ジョアンニ、ピスカ、スリヤ、ヌムン、ジョアンニ、カーラ、テアトラ、ジョアンニ……」
「ジョアンニが三回出て来た。愛情が足りないな。没収だ」
「ああっ! お願い許して!」
「謝る相手がちがうんじゃないか。謝るなら、実の母親に名前を間違えられたかわいい我が子たちに謝罪するんだな」
「ふがいないお母さんを許して子どもたち! そしてシャグラン、次の実験に使いますので豆を返してください!」
豆は没収され、昼食になった。
すべての豆の母となったフェイリュア姫の深い悲しみと引き換えに、ロイヴィとフリエは、お城の料理人がつくったいつもより塩味が濃い豆のスープと卵、そしてパンというご馳走にありつくことができた。
とくに卵は、お城の厨房以外ではめずらしくて贅沢な食材だ。
ふたりが食事に夢中になっている間に、シャグランはロイヴィの代わりにフェイリュアの髪を結っていた。
丁寧に丁寧に、思いがけない器用さで、長い髪が複雑に編み込まれていく。
ふたりはときどきくだらない話をしながら、笑い合っていた。
ロイヴィは、お父さんとお母さんのことを思い出した。戦場に行って、帰って来ないふたりのことだ。
「ねえ、フリエ。ふたりは恋人どうしなのかな?」
小さな声で訊ねると、フリエは泥を噛んだような顔つきになる。
そんなわけないでしょ、とでも言いたげだ。
それもそうか、とロイヴィは思う。
フェイリュア様はとびきりの美人だし、彼女に仕えている騎士たちはみんな強くて頼もしく、優しくて親切で顔もかっこいい。わざわざ痩せて貧相で、目つきが悪くて、口も相当に悪いシャグランとつきあう理由がない。
けれども、シャグランが結い終えたフェイリュアの髪は飛び切り美しかった。
ロイヴィとフリエが摘んだ色とりどりの野の花を一緒に編み込んで、桃色や赤や黄色や、若々しい緑が咲き誇り、春の花園の冠のようになっていた。
「意外な特技……」
「意外ではない。優秀な魔術師は器用なものだ。雑な人間が魔術を扱うと危険だからな」
シャグランは不満げに言った。
「ふたりとも、次の授業は明後日だぞ。遊んでばかりいるんじゃない。宿題を忘れるなよ」
シャグランはそう言って、去って行った。
ひととき感じた感動も余計な小言に汚染されて、何とも言えずつまらない気分だ。
「あれでも、悪い人ではないのよ。いいところもあるの」
フェイリュア姫はそう言って笑っていた。
先生が悪い人でないかどうかはロイヴィにはわからない。
だけど、髪を結ってもらっている間中、フェイリュアが乙女のように頬を染めている景色は、輝かしく美しいもののように思えた。
*
城からの帰り道、ロイヴィとフリエは先のほうから騒がしい声が聞こえて来るのに気がついた。
それは練習場の方角から聞こえてきた。
声というよりは、悲鳴に近い。
二人は勇気を出して、普段は立ち入らない練習場に寄ってみることにした。
そこでは、城に行く途中でフリエに意地悪をしていたあの男の子たちが、全員もれなくびしょぬれになって悲鳴を上げ、走り回っていた。
ロイヴィもフリエも、何が起きているのかわからず戸惑うばかりだ。
「助けて!」
彼らを追い回しているのは小さな掌サイズの雲だった。
真っ黒な雲は男の子たちの頭上で激しい雨を降らしたり、紫色の雷を放ったりしている。まさか魔術の練習をしようとして、失敗したのかとも思ったが、どうも様子が違う。
「これって、お城に先生を呼びに戻ったほうがいいんじゃないかな」
「先生ならあそこよ」
先に気がついたフリエに袖を引かれて振り返ると、急な坂道の上のほう、城門の近くに杖を持ったシャグランが立っているのが見えた。
導師シャグランはロイヴィたちの視線に気がつくと、にやりと意味ありげに笑う。
そしてゆっくりと城の方へと戻っていく。
そしてシャグランの姿が城門の影に隠れてしまうと、男の子たちを追い回していた小さな雲も消えてしまったのだった。
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