第211話 友からの手紙☆



 《親愛なる友よ》



 たったひとつのフレーズを言葉として書き記しただけで、深く項垂れ、押し寄せてくる後悔の波に溺れることとなった。

 冗談でも、比喩でもない。

 肺が呼吸することを拒み、心臓がつぶれそうになるほど痛んだ。

 彼の傍らには鴉の風切り羽が置かれていた。


 なぜこんなことになったのか……。


 思い返すと、すべての記憶が千の刃となってエスカを切り刻む。

 暗い部屋で明かりもつけず嗚咽する夜は永遠と思えるほどに続いた。


 はじまりはヨインが《鴉の血》に連行されたことだった。


 ヨインはエスカの姪に当たる。

 生まれたときから成長を見守ってきた慎ましやかな娘で、エスカのことを兄のように慕ってくれていた。

 彼女を連れて行かねばならない理由など何ひとつない。

 けれど礼拝の帰り道に《鴉の血》がやって来て、瞬く間にヨインとその友人たちを拐って行ってしまったのだ。

 弁解する余地さえなかった。


 両親は悲嘆に暮れ、宮廷魔術師であるエスカを頼ってやって来た。

 はじめは何かの間違いだろうと思っていたが、調べてみるとヨインの友人が女神教会の正典を隠し持っていたことがわかった。

 不憫な少女を取り戻すためにありとあらゆる手段を試したが、いずれもなしの礫であり、皇帝への嘆願も意味はなかった。


 そんなエスカの元を訪れる者がいた。


 金色の髪にあざやかな緑の瞳をした長耳の少年だ。

 彼はアマレナと名乗り、エスカが自分の部下となって《鴉の血》に加わるならば、ヨインの居場所を教えてもいいと申し出た。


 エスカは悟った。


 ヨインがいつまでたっても戻って来なかったのは、体のいい使い走りをひとり増やすためだったのだと。

 それでも条件を飲まなければならなかった。


 それからは地獄の日々だ。


 鴉の血の仕事は人々を捕らえ火刑台に送りこむことだ。

 皇帝に逆らった罪、正しい女神の教えを布教した罪、法律を無視した罪、先祖返りは存在するだけで盗みや詐欺に当たる罪であり、時にはありもしない罪をでっちあげることさえあった。


 ヨインはオリキュレル離宮の地下にある牢獄に繋がれていたが、エスカの働きによってかろうじて刑をまぬがれ虜囚の世話係に任命された。


 砦の戦いの後、デゼルトに戻ったエスカはヨインとの面会のために離宮の牢獄を訪れた。

 現れたヨインは長く日の当たらない生活をしているせいで痩せて青白い顔をしていたが、それなりに元気そうではあった。

 彼女はおずおずと申し出た。


「エスカお兄さん、お願いがあるの。どうか差し入れを増やしてほしいの」

「もちろん構わないが、何が必要なんだ」


 ヨインは声をひそめた。新しい毛布や粥を作るための麦、のみ取り用の櫛や傷口に塗る軟膏、新しくて清潔な布……。

 彼女が求めたのはそういう品々だった。

 声をひそめたのは牢屋番に聞かれないようにするためだろう。

 それらの品を、ほかの看守たちの目を忍んでヨインにわたすこと、それ自体は、まがりなりにも宮廷魔術師であるエスカにとって難しいことではない。

 だが、おいそれと頷けるようなことでもなかった。


「まさかとは思うが、それを囚人に渡すつもりじゃないだろうな。余計なことをすれば俺もお前もどうなるかわからないんだぞ」


 ヨインは頬を打たれたようにぎゅっと目をつむった。

 もとより真面目で、気の弱い娘だ。

 人目を忍んでエスカに話を持ち掛けるだけでも勇気が必要だっただろう。

 それでも覚悟は強かったようで、彼女はひるまなかった。


「お兄さんにどうしても会わせたい人がいるの。どうしても……。夜が更けたら、牢屋番に賄賂を渡して、牢獄に来て」


 迷ったが、結局はヨインの言うとおりにした。

 それは姪っ子がかわいいからではない。

 もっと現実的な理由だ。

 ここでヨインの求めるものをはねのけるのは簡単だ。だが、彼女がもしもエスカを頼らず何かしらを企み、へまでもすれば、まず間違いなくヨインもエスカも火刑台に送られることになる。

 そうなる前に、諦めさせる必要があった。


 ヨインに導かれて立ち行った牢獄は、この世のものとは思えない不潔さと悲しみと憎悪の坩堝であった。石壁は氷のように冷たく、日が差さないので、あらゆる場所がかびや苔で覆われている。

 汚物は垂れ流しで、ありとあらゆる場所から腐った血や肉のにおいが漂っていた。


 案内されて連れて行かれたのは、ある牢屋だった。

 そこに入っているのは若い女で、ヨインに向けて微笑んだ後、エスカをじっと見つめた。薄水色の瞳をしていた。

 亜麻色の髪は短く切り払われていたが、この女性が何者なのかはひと目で知れた。目にしたのは、たった一度だけ。


 そう、ペダルダの丘で……。


 仲間と共に逃げようとするこの女に、アマレナに命じられるがまま、卑劣な魔術を放ったのは他ならない自分だった。


 ヨインは彼女の世話係をしていると言った。

 アマレナからは禁じられているが、こっそりと敷き藁を新しくし、部屋を清め、体の傷を清潔にしてやり、冷たい食べ物を温めたり、できる限り栄養のあるものに取り換えたりしているのだと。

 その説明のすべてがエスカの耳には入らなかった。


「お兄さん、どうしたの」


 エスカは答えることができず、その場に膝と両手を着いて項垂れていた。

 これまでのすべての後悔と罪が、彼の頭を押さえつけ、起き上がる力を奪った。

 エスカはあの砦で、かつて友と呼んだ者を手にかけた。


 シャグランのことだ。


 その罪について、これまで彼は深く考えることはなかった。

 ある意味、その死は当然のことだと思えたからだ。

 宮廷魔術師であるという立場を忘れ、皇帝を裏切ったのだ。

 何らかの罰があるのは当然のことではないか、と。

 そう考えることによって自分自身の手で友を殺したのだということを忘れようとしていたのだ。でも忘れられるものではなかった。


 本当は理解していた。

 ただ、シャグランは愛する女性を守ろうとしていただけだ。


 エスカがヨインを守ろうとするように。

 誰もそのことを罰することはできないのに、エスカはアマレナが怖いばかりにそうしたのだ。ありもしない罪をかぶせて。

 いつの間にか、知らず知らずのうちに、エスカは身も心も鴉の血に染まりきっていたのだ。


 女はそんなエスカのそばに歩みよると、度重なる苦労と心痛で、まだ若いのにすっかり灰色になってしまった髪を優しく撫でた。


「あなたを許します」


 拷問によって掠れた声で彼女は告げた。


「女神はすべての罪がいずれ贖われることを約束しました。ですから、私もあなたを許します」


 そして今。


 エスカは牢獄から持ち帰った風切り羽と、書き記した手紙を小さな箱に納め、これからのふるまいについて考えている。

 牢獄に残ったヨインのことを考えれば、このささやかな裏切りを誰にも悟られるわけにはいかない。

 この箱を誰にも知られることなく《騎士》に届けなければならないのだ。

 いったいそのためにどれだけの時間がかかることになるかわからない。

 どれだけの世代を越えることになるのかも。



 旅がはじまる。









 親愛なる友よ



 いまさら友と呼ぶことを許してほしい。


 私は愚かで醜い裏切り者で、そのことを知ったのはずいぶん後になってからだった。その上、とんでもない臆病者でさえあって、この手紙に名前を記すかどうかすら躊躇するありさまなのだ。


 考えてみれば、こんなふうに他人の目を気にしてばかりいる人生だった。

 他人が自分をどう思うかということだけが唯一の価値で、必要以上に飾り立ててはそれが利口なやり方なのだと盲信していた。


 そんな自分のことを笑ってくれるのは君しかいなかった。

 この過ちをどうしたら取り返せるのか見当もつかない。


 しかし、私は良心に従うと決めた。

 この国を覆っている恐怖や疑いの心に頭を垂れるのは金輪際やめにするのだ。

 私に命令できる者は、もはやこの国にはいない。

 私の主人たる者は、この私の人格ただひとつのみだ。


 もっと早くそうできたらよかった。

 そうしていたら、私もあの砦にいたのだろうか。


 この旅の果てに人々の宿願が果たされたなら、口にするのも恥ずかしい思い上がった願いではあるが、どうか私もその末席に加えてはくれないだろうか。



 君に会いたい。

 もう一度会って、謝りたい。




 エスカ

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