第210話 英雄くんのはなし ‐下


 旅慣れ過ぎているほどに旅慣れた二人の旅だ。

 道中は何の問題もなかった。

 にかかわらず、英雄くんの憂鬱ぶりは村が近づくにつれ拍車がかかっていった。

 何を話しかけてもだんまりで口数も少なくなり、歩く速さも極端にのろのろとしている。

 まるで村に行こうと言い出したのは自分の意志ではない、とでも言いたげだ。

 それが不思議でないこともなかったのだが、メルは英雄くんをそっとしておくことにした。

 村に入る直前、英雄くんは隣を歩くメルだけに、ようやく聞き取れるか取れないかといった小声で呟いた。


「メルメル師匠……もし、私が……だったら、止めてくれますか?」


 誰を止めるのかなどと聞くまでもなく、耳をつんざくような悲鳴が上がった。


「リヨット!! リヨットじゃねえか!!」


 リヨット――。


 それこそは誰あろう、忘れ去られた英雄くんの本当の名前だった。

 ここは間違いなく英雄くんの故郷なのだ。


「おーい、みんな出てこい! リヨットが帰って来たぞおっ!!」


 野良仕事をしていた男がそう叫ぶなり、村中が歓喜の声に包まれた。

 どこから集まってくるのか大勢の村人が英雄くんの周りに集まり、あっという間に身動きもできないほどもみくちゃになる。オリヴィニスでのときと同じだ。


「まあリヨット! 元気なの? お腹の具合はどう?」

「こら! 失礼なこと言うな!」

「ねえねえ、戦争に行ったの?」

「もっと顔をよくみせて。ほらみて、皺ひとつない」

「村の教会に寄付をどうもありがとう」

「連れているのは貴方のお弟子さん? ずいぶん若いのねえ」

「お前はうちの村の自慢だよ」

「武器をみせて! 触らせて!」

「これ、俺の倅!」

「そういえば、従姉妹のセガリアが結婚したのよ!」

「あなたはお嫁さんはまだ? いつ連れてくるの?」


 絶え間なく続く質問と質問の合間に、無邪気な子供たちが走り回る。

 英雄くんは青薔薇の剣をずっと体の前のほうに抱えていなければならなかったし、メルも触ったら危ない武器をさりげなく隠さなければならなかった。





 英雄くんの故郷は王国領の西端にあった。


 王国の穏やかな気候の恩恵を受け、地理的には港湾都市ブロメリアに近いこともあって旅人の行き来もある。何もない小さな村というのはいささか過小評価か、それとも謙遜だろう。広大な畑や子供たちのための学校、そして教会と、宿屋を兼ねた酒場が揃った豊かな村だ。


 英雄くんとメルは酒場に押し込められ、狂ったように歓迎され続けた。


 英雄くんは憂鬱のヴェールをすっかり脱ぎ去って、穏やかな笑みを浮かべて人々の話に相槌を打ち、ひっきりなしに持ち込まれてくるお見合い話を断り続けている。

 酒は樽ごと、食事はありとあらゆるものが食べ放題だ。

 だれも勘定など数えていない。

 きっと食べ過ぎても飲み過ぎても文句は言われないだろう。


 雲行きが怪しくなったのは、日が暮れて、村長だと名乗る男が訪ねてきた頃あいからだろうか……。


 彼は英雄くんの帰還を祝う言葉を述べた後、恭しい声音で「ところで、子供たちの学び舎を増築したいと思うのですが……」と言い、続きは敢えて口にせず顔色をうかがう仕種をしていた。


 暗に、その費用を負担してほしいと言っているのだろう。

 露骨すぎる金銭の無心を受けても、英雄くんは気分を害している雰囲気ではない。

 変わらない笑顔で頷いた。


「私で良ければ、いくらか用立てましょう」


 英雄くんがそう答えると、村人たちは歓声を上げて杯を飲み干した。

 気味の悪いおねだりはそれだけに留まらなかった。


「それから、壊れた水車小屋の修繕費用がかさんで……」

「それも何とかしましょう」

「年頃の娘のために、いい縁談を見つけたいと思っています。取り持っていただけませんか」

「知り合いに声をかけてみましょう」

「しかし貴族位を持つ相手となると、嫁入りにも何かと入用でしょう?」

「心配なさることはありませんよ。当然のことです」


 どんな美酒美食も砂の味になりそうな光景だ。

 オリヴィニスで史上類を見ないほど成功した冒険者にとっては確かに、いずれもはした金に過ぎないのかもしれない。

 しかし、あまりにも敬意がない。まるで彼が金貨のたくさん詰まった革袋に見えているんじゃないかというありさまだ。

 英雄くんが故郷に帰るのを渋っていた理由がようやく見えてきた。


 そこで、少しだけ疑問が湧く。

 何故英雄くんはこの場にメルを伴ったのだろう? というものだ。


 まさか、村人たちの金の無心を止めてもらいたかったとか?


 しかし、メルには少々荷が重い話だ。

 だいたい、止めたいなら英雄くん自身がやればいいことだ。

 もしも英雄くんがそれを止めたいと思ったならば、一言で済む。

 でも彼は《そんなことは大したことではない》とでも言いたげに微笑んでいるだけだった。





 そうしてすっかり夜も更けた頃、酒場にはそれなりに親しい者たちだけが残っていた。いとこ夫婦や年頃が同じ幼馴染たちだ。


「それにしても、あの泣き虫だったリヨットが今や《英雄》と呼ばれてるなんてな!」


 英雄くんのいとこにあたるイズムが言った。

 イズムは給仕や宿の仕事をすっかり人任せにして、妻と共に思い出話に花を咲かせていた。年相応に成長した仲間に囲まれている英雄くんは、忙しく給仕の仕事に勤しむ彼らの一人息子と同じくらいの年頃に見える。

 それでも、彼らは打ち解けた様子で昔話などに花を咲かせていた。


 ひとしきり盛り上がり、ふと会話が途切れる。


「ところで、アイニスはどうしたんですか?」


 英雄くんが訊ねた。

 その瞬間、テーブルに着いていた男たちがいっせいに口ごもる。

 メルは酒場の隅で眠りかけていたが、つかの間の静寂がうるさくて目が覚めた。


「覚えているでしょう、酒場で働いていた女の子ですよ」


 英雄くんは笑顔のまま、たたみかけるように言う。


「ああ……アイニスなら、故郷の村に戻ったよ」


 促され、イズムは答えにくそうに言った。


「そうですか。なぜ?」


 問いかける英雄くんは、先ほどと変わらない様子だった。

 愛想笑いを振りまいて、言われるがままに金貨を配って回っていたときと。

 なのに男たちの表情はこわばっている。


「なぜって……。アイニスには子供ができなかったんだ」


 イズムは半笑いの表情で、澱みながらも答えた。


「それに、あの子は先祖がえりだったし……リヨット、お前が言いたいことはわかる。だけど、こういうのは早いほうがいいんだ。お互いのためにもな」

「アイニスはあの子のことを心から愛していたではないですか。この村のことも」


 答える英雄くんの声は、メルでさえ、ぞっとするほど冷たいものだった。

 距離を隔てていても怒りが伝わってくる。

 表情を見ていたら、冗談ではなく、恐怖で震えていたかもしれない。

 実際にイズムたちは視線を伏せ、体を縮めて膝の上で組んだ両手を見つめ、必死に気配を殺そうと励んでいた。

 メルからは後ろ姿しか見えなかったが、英雄くんの足元に青い薔薇の花びらが落ちるのがわかった。

 持ち主の強い感情の動きに魔道具が感応しているのだ。

 メルは少しだけ緊張した。それは気まずい場面に遭遇したときの反応というより、強い魔物に相対したときの体の反射で、指先が自然と武器を探すようなものだった。


 けれど、少し考えて、やめた。諦めたのだ。


 彼らの前にいるのは英雄青薔薇だ。

 もしも望むなら目の前にいる者たちすべてをなで斬りにすることができる。

 号令をかけさえすれば、この村を一晩のうちに灰に変えられるだろう。

 そしてそのことを止められる者はこの大陸にはいないのだ。

 メルは荷物を手にとると、ごく最小限の声音で英雄くんの背中に声をかけた。


「もう行こう、リヨット。夜明けまでに次の街に着かないと。そうだろう?」


 英雄くんは無言だった。


「行こう……」


 再び声をかけると、英雄くんはふらつきながら立ち上がる。

 そしてメルに手を引かれるまま、酒場を出た。

 まるで子供のようだった。





 アイニスは数年前まで酒場で働いていた若い娘だった。

 彼女はイズムの一人息子と恋仲で――と言うと、いささか語弊がある。

 端的に言うならば、アイニスはイズムの息子の妻になる予定で連れて来られた。

 ただし、本人はそのことを知らないままだった。


 村を出た後、英雄くんは暗い表情で呟いた。


 まだ村が貧しく、まともに結婚式を挙げることもできなかった頃からの風習だった。若い娘を下働きとして連れて来られて、子どもが生まれれば晴れて嫁入りとなる。もちろん、子どもが生まれなければ娘は郷里に帰されることになる。


「ずっと、村人やイズムを説得していました」


 英雄くんが故郷のあの村に最後に戻ったのは十年ほど前のことだ。

 そのときすでにアイニスの体質のことはわかっていて、それでも村を離れたくないと言った彼女のことを、英雄くんは何かにつけて気にかけていたようだ。

 しかし村人たちは、英雄くんがハイエルフの世界へと旅立った隙に、アイニスとイズムの息子を無理やり別れさせてしまった。

 最初から最後まで、そこに彼女の意志はなかった。


「説得だけではありません。この十年の間、私は私なりに貧しかった村を豊かにし、畑を実らせ、教育を施しました。でも何の意味もありませんでした」


 村人たちの暮らしが豊かだったのは、英雄くんの大量の仕送りのおかげだ。

 流れ込む大量の資金で、村は豊かになった。

 かつての風習を続ける理由は何ひとつなかったが、それでも人々は古臭い慣習をやめようとはしなかったのだ。


「止めてくれてありがとうございました。メルメル師匠。あなたがいなかったら、私は、今頃どうなっていたことか……」

「魔道具を使おうとしていたね」


 メルは言った。少し厳しい声つきだったかもしれない。

 けれど無理もない。

 今も英雄くんの足元には青い薔薇の花びらが降り積もっている。花弁は村からここまでの間を繋いで、夜道に輝いている。

 その花びらでどんなことができるのか、メルには知る由もないが、英雄くんの感情がまだ収まっていないことだけはわかる。

 

「村人を皆殺しにするつもりだったの? 君の言うことを聞かないから?」


 メルを振り返った英雄くんの表情は強張っていた。


「アイニスは村に来たとき、まだ十四歳だったんです。少しの間あの酒場で働いて、お金がたまったら両親のもとに帰れると思っていたのですよ」


 英雄くんの表情は、それは怒りというより、恐怖の表情に見えた。

 冒険者として世界の果てを見て、英雄として残酷な戦争の隅々を見てなお、理解し難い人間の理不尽さを目の当たりにした。そんな表情だった。


「わかっているんです……。暴力では何も解決しないってことは。私が剣を抜いたら、彼らは私に従うでしょう。アイニスに謝罪し、村に呼び戻すかもしれません。でも、それは彼らが自分たちの間違いに気がついたからじゃない。ただ私が怖いだけだ……」


 そしてまた間違いを繰り返すだろう、と英雄くんは言った。

 唯々諾々と習慣に従うことは、自分たちを押さえつける強い者に従う、というのと本質的には何ひとつ変わらない。


「メルメル師匠、私はここにいてはいけない人間なんです。近いうちに旅に戻ります。戻らなくては……」


 なぜ、英雄くんは自分を連れてきたのだろう。

 村人たちに暴力を振るおうとするのを止めてほしかったからだろうか。

 メルは項垂れる少年の肩を抱きよせた。

 微かに震えている。暖かい血が巡っている人の体だ。心臓の鼓動もする。

 しかし、エルフたちは冒険と引き換えに何か大事なものを彼から奪ってしまったような気がする。彼らが止めたのは肉体の時間だけではないのだ。


「僕はね、君が帰って来てくれてよかったと思ってるよ」


 無数の偉大な旅を繰り返し、その結果、追い立てられるように大陸を離れるのは、どれだけ辛いことだっただろう。


 冒険の旅には果てがない。


 旅路を進めば進むほど、帰るべき場所は遠ざかっていく。






*****青薔薇の英雄リヨット*****


 オリヴィニスが輩出した最高の冒険者のひとり。

 幼い頃に両親を亡くし、彼を忌み嫌っていた祖母に村を追い出されるようにして冒険者となった。

 青薔薇を飾った剣とマントはエルフ王からの贈り物であり、それぞれ強力な魔物を封じた魔道具を兼ねている。剣に封じられた薔薇の魔物は魔術を、マントに封じられた茨の魔物は敵意を吸い込み、倍にして反射する。


 青薔薇の耳飾りは、遠くから彼を想う高貴な女性からの贈り物。

 


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