第206話 《旅の果ての場所》




 フギンと別れてから三か月ほどが経過した。


 マテルはザフィリに戻り、何食わぬ顔で工房の仕事に勤しんでいる。

 ザフィリの街は良くも悪くも変化がない。


 冒険の日々がまるでうそのようだ。


 けれど、うそでないとわかる瞬間もある。


 工房に旅人たちの手を介して定期的に届けられる手紙があった。

 暗号文で書かれたそれは、各地の仲間から届けられたものだ。

 一通は聖都アンテノーラにいるエミリアからだ。

 アンテノーラに持ち込まれた活版印刷機はエミリアの尽力と、リジアたちの協力によってなんとか稼働しはじめたようだ。


 でも、エミリアはまだまだデゼルトには戻ることはできない。

 アマレナはミシスと共に、マテルたちも知らない場所へと去ったが、その脅威が本当に消えたのかどうかは確信が持てないままだった。

 あれだけのことをアマレナひとりが成し遂げたのだとはとても思えないし、帝国領にはその残党とでも言うべき存在が潜んでいるかもしれない。

 エミリアが無事に帝都に戻るためには、当初からの計画を実行に移す必要があった。

 加えて、もう一通。これはマレヨナ丘陵地帯から届いたものだ。

 ヨカテルの論文の発表の時を待っている間に、《賢者の石》の研究をさらに進めることになっていた。研究が正しいものだと証明するのと同時に、《死者の神殿》で見つけた《変異体》――ああいうものが石の力で発生する仕組みを解き明かそうというのだ。


 ヨカテルの研究が世に出れば、それを封印しようという動きが必ず出る。

 しかし魔物の発生や変化に関わっているとなれば、無視することは不可能だ。


 さすがにエミリアのほかに錬金術師の協力が必要だったが、そこに繋げてくれたのは意外にもミダイヤだった。

 ミダイヤの知り合いの錬金術師が、何故だかたまたまミダイヤの妻――その存在を知ったとき、マテルは死ぬほど驚いた。決して比喩なんかでなく。――の療養先に同行していたのだ。

 もちろん賢者の石についての研究を続けるに当たって、何らかの妨害がないとも限らない。ヴィルヘルミナはマテルと別れてマレヨナ丘陵地帯に留まった。


 そういうわけで、マテルはひとりで工房に戻ってきたのだった。


 監視がついているかもしれないことを考えると、何くわぬ顔で日常に戻るのがよさそうだ、という結論になったのだった。

 マテルは工房に戻り、冒険者暮らしもちょっとした道楽、という顔で、元の仕事に精を出しつつ暗号文の解読をしながら過ごしている。


 時折、フギンの姿を見かけた、という手紙も工房に届けられた。

 差出人はアトゥやみみずく亭のルビノ、バーシェや、旅先で知り合った様々な人たちだ。

 見かけた場所は白金渓谷やアーカンシエルの人里離れた寂しい土地が多い。

 たったひとりで、フギンは今も救えなかった人たちの魂をひとりずつ拾い上げていく旅をしているのだとマテルにはすぐにわかった。

 フギンが人気のない山間や森の奥をひとりでさ迷っているところを想像すると胸が詰まる。


 だけど、何もできない。

 マテルの仕事は待つことだ。


 帝都の錬金術師たちの動向や、協会の様子をこっそりと調べながら、フギンが帰って来るのを待つ。

 直接の連絡はなかったが、きっと帰ってくるはずだ。

 何よりマテルたちがフギンを求めていた。

 印刷機は稼働し始めたが、印刷の出来栄えはあまりよくない。マレヨナ丘陵地帯で行われている実験は複雑で、誰かの助言が必要だ。

 フギンならこんなときどうするだろう、と思うことがたくさんある。

 いつも通りを装いながら、帰っておいで、とマテルは心の中で何度も呼びかけていた。そうして月日が過ぎていった。


「坊ちゃん、お客さんですよ」


 職人に呼ばれる。そういうとき、否応なく心が跳ねた。

 もしかしたら、と思って慌てて玄関口へと走り、たいていは見当違いにがっかりすることの繰り返しだった。

 今日も同じで、工房の前に立っていたのは、フギンとは似ても似つかない背格好の男だった。

 旅装の男で、マントの下から灰色の髪がのぞいている。

 俯いたままマテルに訊ねる。


「すまないが、ここはオリヴェ・ヴィールテスの工房だろうか」

「祖父は亡くなりましたが、確かにここです」


 マテルが応えると、男はほう、とため息を吐き灰色の目を細めた。


「そうでしたか。やっと辿り着いた……」

「失礼ですが、祖父とはどんな関係で……? 生前お世話になった方でしょうか」

「話すと長くなるんです。長旅で疲れていて……水を一杯頂けないでしょうか」

「それは失礼、少し待っててください」


 マテルが奥に引っ込み、戻ってくると、男の姿はなかった。

 ただ、玄関先に小さな箱が置かれている。

 両手に納まるくらいの大きさで、臙脂色の布が張ってある。

 恐れや不安より、なんだか妙な納得があった。

 彼が何ものなのかはわからないが、その旅は終わったのだ。この小箱を届けることがその目的だった。

 金色の留め金を外し、マテルはその箱を開けた。

 羊皮紙の切れ端に、消えかけのインクで手紙が書いてある。署名を見てマテルははっと息を詰める。《エスカ》と読めたからだ。

 箱の中には古い空気と手紙のほかに、二つのものが閉じ込められていた。

 ひとつは紐で括られた短い髪の束。その上に白い羽が置かれている。

 そのとき、強い風が吹いて羽はふわりと浮いて風に乗った。

 慌てて伸ばしたマテルの指の先をするりと抜け、羽は風に乗って飛んでいく。

 

 そして、別の誰かの指先がそれを捕まえた。


 職人街の武骨な石畳の上に、その人物は立っていた。

 先ほどまでは確かに誰もいなかったはずの場所に《彼》は現れて、飛び去った《白い羽》を手にしてぼんやりと立ち尽くしている。


 羽を太陽の光に透かしながら、ぼんやりと。


 マテルはしばらく言葉を失った。


「何故、俺が探していたのものをマテルが持ってるんだ?」


 と、は言った。

 マテルはなんて答えようか、言葉を探した。

 言葉にならない感情が胸の奥にたくさんしまってあるのを感じた。


「知らないよ。おかえり、フギン……。本当の意味で、おかえり」


 それは何の羽なの、と問いかける必要はなかった。

 どこからか翼のはばたく音がする。

 それは天の高いところから弧を描いてフギンの元に降りてくる。

 そしてフギンの肩にとまり、そっと羽を畳む気配がした。

 フギンはマテルと向き合い、まっすぐに答える。


「ただいま」


 その鈍色の確かな眼差しに、マテルと同じようにたくさんの感情がしまってあるのを感じる。

 中庭の物置小屋は、旅がはじまったときのままだった。

 盗み出した賢者の石や、マテルの武器が転移魔術をかけられた状態で残ってる。


「旅の果ての場所は見つかった?」


 旅のはじまりを見つめながら、フギンは頷いた。

 そしてゆっくりと語り出す。


 そこは豊かな田園風景の中にあった。

 気候も風景も、穏やかで大地の恵み豊かな大陸西部のものだ。

 ちいさな村は痛みや苦しみのない宝石のように輝いている。

 そこに辿り着いたとき、フギンにはすぐに理解できた。

 ここが目指していた場所で、旅の終着点なのだと。

 フギンが行くと、人々はそれぞれの仕事の手を止めた。野良仕事をやめ、家事をする手をとめて、小さな家々から人々が出てくる。

 誰もがフギンに祈りを向けている。そして髪の毛の束や爪のかけら、骨のかけら……そういったものを次々に差し出してくる。

 そこは、帝国の支配を幸運にも抜け出すことができたわずかな人たちが住む隠れ里だった。あの砦の悲劇や、冒険者たちに支えられた死の道行きを越えて、ようやく与えられた安住の地で、道なかばで倒れた者の遺品を受け継ぎながらずっとフギンを待ち続けてきたのだ。


「なんだか、悲しいね」

「そうだな。だけど、それが、俺を待っていてくれる人たちだったんだ。だからもう迷わない。自分が何をするべきか、どうすればいいのか、ちゃんとわかってるつもりだ」


 フギンは果ての場所を見つけてからも、当てのない旅を続けていた。

 それは彼らの魂が眠る場所を探す旅だった。

 フギンは魂を回収することはできても、正しい死者の国の入口がどこにあるか知らない。それを見つけることができたのは同じく女神に創造されたムニンだけ。

 しかしムニンはフェイリュアと共に連れ去られて戻らなかった。

 せめてその遺骸の一部がどこかにないか、砦のあった場所やサン・グレの領地を探し回った。


「そうしたら、マテルが《風切り羽根》を持って現れたんだ。驚いたよ」

「それは僕の功績ではないけどね」


 おそらく誰かが……フギンや、騎士たちのように、なんらかの役目を負った人たちが、虚しく散っていった人々の魂を繋いで旅立ち、果ての場所を見つけたのだろう。

 フギンはもう一度、白い羽を太陽にかざした。


「おかえり、ムニン」


 細かく砕けた賢者の石が散った作業台の上に、臙脂色の小箱を添える。


「おかえり、エスカ……」


 フギンの指が、安らかに眠る人の額にそうするように、箱の表面をそっと撫でいく。

 それから、マテルを見て、不器用に笑った。


「ただいま、マテル」


 自分が何者で、どこから来て、何をするのか……。

 明日はなにをして、そしてどう生きて行けばいいのか……。


 これまでずっと、わからなかった。

 暗闇の道を手探りで進んでいた。

 

 今度は自分の番なのではないか?


 もしも自分が何者なのかがわかったら、そこには誰かが待っているかもしれない。


 そう願いながら、いつも不安だった。

 誰かが自分を裏切るのではないか。

 進んでも進んでも、そこには無明の闇だけが広がっているんじゃないかと。

 だけど、それは思い違いだった。


 本当は、フギンの名前を呼び「よく帰って来てくれた」と涙してくれる誰かが、いつもそばにいて背中を押してくれていたのに、日々の苦しさに負けて気がつけないでいただけだった。


 明日の朝、目覚めたらどこに行こう? 何をしよう。


 もう迷わない。

 ほんの少しの勇気があれば、旅がはじまるだろう。

 無限に広がっている可能性の旅だ。


 そこでは女神の奇跡は、《いつか》という約束の形をしている。

 たとえ道半ばで倒れるとしても、死に行く手を阻まれるとしても、いつか……。


 いつか、きっと。


 どんな悲劇が起きたとしても、悪意や絶望に蝕まれたとしても世界が終わることはない。


 いつまでも道は続いていって、いつかは手が届く。



 明日、靴を履いて旅に出て……。


 そして、繰り返す。

 誰かの「おかえり」と「ただいま」が聞こえる。








『靴を履いて旅に出て、鞄に荷物を詰め込んで 死者の檻の冒険者編』完

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