第205話 死者の檻の冒険者



 あまりにもあっけない幕切れだった。

 けれども街中を覆っていた魔力の波が引き、日常に戻ってきたのだとはっきり感じられるようになっていた。


 フギンはアマレナに背を向けた。

 アマレナは地面に顔を伏せたまま、動こうとしない。

 マテルはフギンに駆け寄った。


「フギン。君なんだよね……?」

「うーん……」


 フギンは首を傾げてみせる。


「たぶん…………?」

「たぶんって!」

「三割くらいはそうだと思う」

「十割じゃないと困るよ!」


 焦るマテルに、フギンは視線を伏せたままかすかに笑っている。


「大丈夫だ。シャグランやフェイリュアの魂を前よりも強く感じはするが、概ね、俺だと思う」


 その返答を聞きマテルはようやく緊張を解いた。友達をなくすかもしれないという恐れを手放し、フギンと向き合う。


「フギン、よかった……。もしかしたらもう二度と会えないんじゃないかと思ったよ」

「そうならなくてよかった。マテルのおかげだ」

「僕だけじゃない。色んな人たちが手伝ってくれたんだ。もちろん、ヴィルヘルミナもね」

「ヴィルヘルミナは?」


 今度はマテルが首を傾げる番だった。

 ヴィルヘルミナは二人から遠く距離を取ったところにいた。

 建物の影に隠れて、怯えた子猫のように小さくなっている。


「何してるの? フギンが戻ってきたんだよ!」

「…………………ふ、フギン…………さま……………………」


 マテルはフギンと顔を見合わせる。

 どうやら、フギンの存在がヴィルヘルミナの信仰心に何かしら訴えるところがあったようだ。


「ヴィルヘルミナ、フギンの正体がわかっても遠慮はいらないよ。君だって背中に光女神の弓を背負ってるじゃないか」


 マテルが問いかけると、ヴィルヘルミナは助走をつけてマテルの頬を打った。


「失礼なことを言うなマテル! この弓は光女神の加護があるから神秘の力を発揮するだけで、ただの弓だ! フ、フギンさまは! 光女神が望まれて肉体そのものを創造なされたのだぞ!?」

「それを言ったら俺だって普段はほぼただの鴉だ。今は鴉ですらない。この体はあくまでもシャグランの形だから……。何も特別なことはできないんだ」


 フギンは笑いながら答えた。


「そうなの?」

「さっきは特別だ。女神だって暇じゃない。いつもいつも俺を見てるわけじゃないんだ」


 フギンはいつもの無表情だ。

 ヴィルヘルミナはおそるおそるフギンに近づいてくる。


「ほんとにほんとにフギンなのか……?」

「ああ」


「好きな野菜のおかずは?」とヴィルヘルミナは問いかける。


「え? おかず? キャベツの酢漬けかな……」


 フギンは困ったような顔で答える。


「じゃあ、好きな魚のおかずは?」と、今度はマテルが笑顔で訊ねた。


「塩漬けニシン……かな。それ以外食べたことないからわからない」

 ヴィルヘルミナがフギンを抱きしめる。

 マテルもその後に続く。二人の目じりには涙が浮かんでいる。


「おかえり、フギン」

「ただいま」


 その光景を、アマレナが呆然として見つめていた。

 彼には告げられた《許す》という言葉の意味がわからなかった。


 これまで、皇帝の名のもとにあまりにも多くの命を奪ってきた。


 だからこそ、いつか誰かが、自分がしたことをアマレナにやり返すだろうと思っていた。財産を奪われ、牢屋に繋がれ、生きたまま皮を剥いで内臓を抉り出し、処刑台の上で燃やされるのが自分自身の末路だと信じて疑わなかった。

 人間とは、結局は暴力的で野蛮なのだから、虐げられている者たちもそうするだろうというのがアマレナの信仰だ。

 いまは泣き声を上げて弱者を気取っている人間たちも、権力を得た瞬間に立場を取り換えて、人を殺す側に回るに違いない。


 だからこそアマレナは人を痛めつけることに躊躇がなかった。

 この世界をすべて滅ぼしたとしても、それでベテルが心安らかになれる真の世界が到来するなら、それで良いのだと思っていた。


 だが、そうではなかった。


 今、地面に跪き、アマレナは息をしている。

 確かに呼吸をして、それは止まることがなかった。

 誰もアマレナを痛めつけない。口汚く罵ることもない。

 復讐されない。

 高台は静謐そのものだ。


「そんなことがあるはずがない…………」


 彼は掠れた声で呟いた。

 

「そんなこと、あるはずが…………」


 それでは、これまで自分がしてきたことはなんだったのだろう?


 自分が許されることは永遠にないのだと思っていたからこそ、どれほどの罪を重ねても恐ろしくはなかった。


 だが、この先に報復はない。

 どれだけ待っても《終わり》はない。


 錬金術の結晶と呪われた肉体による無明の生と、ただひたすらに積み上げられた罪行だけがある。

 贖いきれない罪だけが横たわっているのだ。

 アマレナは自分の体が知らず知らずのうちに震えるのを感じた。

 そして、その震えを止めることができないでいた。本来の形とはかけ離れた人の体が寒くて堪らない。それはおよそ初めて感じる《恐れ》だった。


「そんなことを、ベテル帝がお許しになるはずがない」


 アマレナは抱き合って再会を喜ぶ三人をにらみつけた。

 ローブの内側で隠し持った武器に手を伸ばす。

 ここで三人を殺せば、今度こそ誰かが自分を殺してくれる……そう思ったのだろう。

 アマレナの肩に冷たい剣の切っ先が差し出される。


「もうやめるがいい、ここで足掻いても、おまえの気持ちが晴れることはあるまいよ」


 剣の切っ先によってアマレナの動きを封じているのは、うっすらと銀色に輝く美貌のエルフだった。黒いマントと装束、腰のベルトにはエルフの遺産をおさめた本が吊るされている。ハイエルフの回収人、ミシスがそこにいた。


「光女神の使者よ。聞いてくれ」とミシスは呼びかける。「良ければこの者の身柄を引き渡し、我が故郷で預からせてもらえないだろうか」


 フギンは胡散臭そうな顔つきで振り返る。


「そいつはアマレナじゃないぞ。姿は似ているが、偽物だ」


 その言い方は、シャグランのものでも、グリシナ王国の神烏のものでもない。

 いつの間にか完全に、ぞんざいでぶしつけなフギンのものに戻っていた。


「もちろんそれは理解した上でのことだ。しかしここまで精巧な似姿であるからこそ、ここで見捨てるには忍びない。それに人界にこのような者を置いておいても良いことは何もない。いかに女神の恩寵があったとはいえ、約束を誰かが不履行にするのも見ておれぬ」

「いいだろう。だが、暴力は振るわないと約束してくれ」

「もちろんだとも。女神の名と、我らがエルフ族の王の名において誓おう」


 いいのかい、とマテルは訊ねた。アマレナが何者で、女神がどう判断したとしても、アマレナがしたことは変わらない。


「君自身には、彼にうらみはないのかい?」

「無いと言ったらうそになる。グリシナの鴉として存在していたあの頃、誰もが俺を愛しているのを感じていた。なのに心優しい人たちが死んでいくとき、何もできなかった……だからこそ、俺が生まれたんだ。人間になりたかった……人間になれば、何かが変えられると思った」


 人には運命を変える力がある、とフギンは言う。


「己の選択と力で、苦しみに立ち向かうことができる。だからこそ、女神の鴉であることをやめたんだ」


 シャグランが絶命し、鴉に賢者の石を与えたとき、鴉もまた願っていたのだ。

 人間になりたい。

 人間になってフェイリュアを救いたいと。

 その願いは半分だけが叶えられ、もう半分は無残な結末になった。


「黒鴇亭で儀式をして、過去を思い出したとき、シャグランのことを止められなかったのは、他ならない俺自身にも憎しみの気持ちがあったからだ。アマレナをひどい目に遭わせたいという気持ちを押さえきれなかった。それが魔鳥を暴走させたんだ」

「人として当然だよ。恥ずかしいことではない。だけど、どうしてそれをコントロールすることができたの?」

「それは、やはり、仲間との絆だろう……?」


 ヴィルヘルミナがにやりと笑う。

 フギンは苦笑する。


「それもある。マテルが俺のことを見つけてくれたからな。それがいちばん大きいのかもしれない」

「それも、ということは、他にも何かあるの?」


 フギンは頷いた。


「《アラリド》だ」


 思わぬ名前に、マテルは目を丸くする。


「アラリドが俺を助けてくれた……。イストワルの天秤が、同じ役目を背負っている俺に力を貸してくれた」

「それは知ってるよ。アラリドが僕を助けてくれて、君を見つけることができたんだからね」

「ああ。あのとき、マテルはアラリドと一緒にアマレナを引きつけていただろう?」

「引きつけてって……妙な言い方をするね。まさか……」


 フギンは力強く頷いた。


「そうだ。お前はだったんだ」


 マテルは大口を開けて驚いていた。


「あのとき、アラリドは同時並行的に別のことをやってたんだよ」

「それって、どういうこと?」


 あの訳の分からない精神世界でマテルはかなり恐ろしい目にも遭った。

 それがすべてアマレナを引きつけるための囮で、アラリドの目的が別にあったとは、あまり考えたくない。


「それは……」


 フギンはかすかに微笑んでいるふうでもあった。

 無表情さはいつもと変わらない。けれど、まとう雰囲気は穏やかだ。

 自分が何者なのかわからず、何故、苦しんでいたのかもわからずに、生活に追われていた頃とは違う。


「それは、また今度話す。そのまえに行かなければいけないところがあるから」

「どこに行くというのだ?」


 ヴィルヘルミナは驚いた様子だったが、マテルはこうなることをどこかで予見していた。

 過去を思い出せば、フギンはただの孤独な冒険者ではなくなる。

 マテルたちには想像もできないほどの長い時間のどこかには、きっとほかにも彼を待つ者がいるだろう。


「ミダイヤが言っていた旅の果て……。果ての場所だよ」


 マテルはそう言った。


「その場所には、僕たちはいっしょに行けないんだね」


 フギンは頷いた。


「いまは別れよう。そのほうがいい」

「また会えるよね」

「ああ、また会おう。ザフィリで……」


 マテルはこれまで、フギンについていろいろなことを心配してきた。

 運動音痴のことだとか、戦闘のこと、記憶を取り戻そうとすること……。

 でももう、心配することはないのだ。

 フギンはあのころとはちがう、確信に満ちた顔つきをしていた。


「ザフィリで会おう。ちゃんと帰って来るんだよ」


 マテルは答えた。

 一瞬だけ、フギンの背中に翼が見えた。

 そう思った次の瞬間には、フギンの姿は消えていた。

 空からひらひらと何かが舞い落ちてくる。

 ヴィルヘルミナがつかまえたそれは、一枚の白い羽だった。





 あのとき。



 オリヴィニスが魔鳥に飲み込まれたとき、アラリドは誰にも知られないよう、一計を案じていた。

 死者の魂で満ちた空間は彼の庭だ。

 アラリドはこの世にただひとりの《夜魔術師》として、この空間に満ちた魂の全てを観測し、好き勝手にする権利があった。もちろんその権利は、アラリドが勝手に権利だと思っているだけで、権利を行使される側にとっては権利の侵害に他ならなかったが、それは知ったことではない。

 アラリドは、まずはキーパーソンになるだろうマテルの魂を探し当てた。

 だけど、それだけに構っていることはできない。自分の魂を複製して、あたかもマテルが本命のように見せかけた。


 魂の証明などというものは、最後の夜魔術師であるアラリドにとっては児戯に等しい。どうなっても後で何とかなる。


 それよりも、何もわかっていないマテルを真っ黒で得体の知れない渦になって追いかけているアマレナという怪物のほうが問題だった。

 奴に気がつかれないうちに事を済ませなければならない。


 そこで、アラリドは今の状況を最大限に利用することにした。

 今、魔鳥の内側には、フギンに取り込まれた魂と、オリヴィニスにいた人たちのほとんどの魂が混ざり合った状態である。


「精霊よ、地の国に住み死者の国にもっとも近き者たちよ。わが誓願を天に届けたまえ。その光輝によって、このぼくが大陸最強の魔術師であり、非常に親切であることを証明しちゃいましょうかねえ」


 アラリドは適当に呪文を唱えながら、満点の星空の下をぽてぽてと歩きだした。


 ムニンを失ったことで、フギンの集めた魂は行き場もなく、魔鳥の内側に留められている。救われることのない魂は傷つき果てたときのままで、その世界は荒涼としていた。


 アラリドはその錆びついた世界を隅々まで見下ろしている。


 そこは荒れ果てた牢獄だった。

 鉄格子の向こうには帝国兵に捕らえられた司祭や修道女たちが蹲っている。

 ベテル帝が女神教典を書き換えたことを批判したり、正しい教典を隠し持っていたことを理由に捕まった人々だ。

 石畳は冷たく凍えるが、牢屋の中に置かれているのはかびの生えた敷き藁と、糞尿を入れる桶がひとつきりだ。

 司祭は拷問で受けた傷が癒えず、血を流している。傷は化膿し、肌は垢に塗れていた。食事をしたのは何日も前のことで、それも、野菜の切れ端が浮かんだ冷たいスープだけだ。

 誰にも、重く垂れこめた絶望を振り払う気力がない。

 聖句を唱える声も段々と聞こえなくなっていく。

 閉ざされた牢の扉は頑丈そのもの、錠はがっちりとはめられていて、永遠に開くことはないのではないかと思われた。

 何故このような状況に陥っていても、女神は助けて下さらないのかと信仰に疑いを持ちかけたそのとき、闇の向こうに物陰があった。

 その影は、月明かりの当たらない闇のなかを、腰をかがめ、足音をさせずに近づいてくる。

 そして、闇の中からぬっと手が伸びた。

 その手が掴んでいたものを、司祭は恐る恐る差し出した手で受け取る。

 それはパンだった。


「さっきそこの見張り部屋から盗んできたんだ。あ、もちろん、いつもそんなことをしてるってわけじゃない。誰にも言わないでくれよな」


 おどけるように言う声は思ったよりもずっと若い。


「あんたたち、捕まって長いのか? なんだい、そりゃ。ひどい傷だな」

「ああ……。どうにかして逃げたいが、鍵がかかっていて……」

「鍵? ああ、これ……」


 若者は錠前に手を伸ばし、どこからともなく細い棒のような器具を差し込んだ。

 そして二、三度軽く動かしただけで、留め金が外れた。


「こんなの鍵だなんて言わないよ。俺らの世界じゃあな」


 司祭は驚いた。

 見張りの目をかいくぐって牢屋に辿りついただけでなく、永遠に開かないと思っていた鍵をいともたやすく開けてしまったのだ。


「逃げたいなら道案内してやるよ」

「他にも捕まっている者たちがいるんです」

「じゃあ、道すがらそっちの牢屋も開けてってやるよ」

「あなたは何者なんです?」

「俺の名前のことなら、トワンだよ」


 答えた瞬間、背後にあった見張り部屋の扉が吹き飛んだ。

 帝国兵が扉ごと壁に叩きつけられ、気絶して伸びている。


「あっちょっ、リーダー! やりすぎやりすぎ!」

「すまなかったトワン!! だが、少し腹が立ってやり過ぎてしまった!!!! 扉の修理代はオリヴィニスの冒険者ギルドに請求してくれたまえ!!!!!」

「たぶん誰も請求しないって!」


 司祭たちは突然現れた甲冑姿の男を見上げ、呆然としている。


 アラリドは牢屋を彼らに任せて、次の場所へと向かう。


 人々が身を寄せ合い、帝国兵が押し寄せてくるその時を待っている。

 そこはサン・グレにあるヴェレ卿の城だった。

 城壁や門を守る兵はごくわずかで、戦えない者は城の奥で身をひそめていた。

 ある母親が、小さな器にいやな臭いがするものをよそい、子どもの口元に運んでいく。このままでは、砦は兵士に蹂躙される。殺されるならまだいいほうで、捕まって、離れ離れになって拷問を受けることになるかもしれない。

 そのまえに毒を飲んで親子ともども女神のもとに向かおうというのだ。

 そんな母親の手を、突然現れたたおやかな女の手が止めた。

 蜂蜜色の肌に紫色のヴェールをまとった若い女性が、恐怖に身をすくませている親子に語り掛ける。


「もうそんなことしなくていいのよ。よくがんばったわね」


 シビルは優しく語りかける。


「だけど、ここにもうすぐ兵士たちがやって来るんです」

「そんなことさせない。私たちが絶対にさせないから」

「どうやって……?」

「戦うのよ!」


 シビルは魔術書を手に立ち上がる。

 城門が破壊される激しい物音が響いた。

 武器を手にした帝国軍がなだれこみ、兵士をなぎ倒していく。

 守りを固めているのは農民あがりの即席の兵か、ちょっとした魔術を覚えただけの少年兵しかいない。

 大砲や魔術の音響に総崩れになり、ひとりの少年兵が倒れる。

 麻の服しか身に着けていない痩せた体に、とどめを刺そうとした帝国兵が群がった。しかし、轟音を立ててまとめて吹き飛ばされた。

 鉄の大盾を構えた大男が突進してきたのだ。


「よくやった、ヨーン!! 魔術を撃てっ!!」


 火炎と雷撃が同時に放たれ、帝国軍を蹴散らしていく。

 魔術を放っているのは、緑の長い髪をした精霊術師セルタスと、その弟子のコナだ。その隣にはギルドの受付係、レピとエカイユ、それから魔術師ギルドのミザリの姿もある。


「なんとしても押し戻せっ! 城門を閉めるぞ!!」


 得意の二刀を振り回し、帝国兵の相手をしながら指示を出しているのは暁の星団のリーダー・アトゥだ。


 アラリドは足元の光景を眺めて、にんまりと笑顔を作った。


 みんな、急に呼び出した割に、よくやってくれている。

 オリヴィニスの冒険者たちは、なんだかんだ言ってお節介焼きなのだ。

 アラリドはスキップをするように次の場所へと向かう。

 のんびりとはしていられない。悲しいことが起きた場所、辛い記憶が降り積もった場所が、フギンの中にはいくつもあるのだ。


 その場所では、人々が立てこもった砦を背に、騎士たちが決死の戦いを挑んでいた。けれども力つき、四人の騎士たちは敵に囲まれていた。

 敵の数は一万はあるだろうか。それが雲霞の如く押し寄せてくるのである。

 ただ四人きりではどうにもならない。


「最早これまで…………か」


 ミットライトは倒れた若い騎士の体を抱いていた。

 無茶と知りながらも、フェイリュアとシャグランという若い二人を行かせてやったが、十分な足止めができたかどうか。

 死にに来たと言ったものの、心残りばかりがある。

 とくに、帝国領に残してきた家族が気がかりだった。役目に殉じるのは自分だけでよいと砦に参じたが、残ったからといって生き残れるとは限らない。だとしたら何故最後まで家族に寄り添ってやれなかったのか……。自らの役割がうらめしくないかといえば、うそになる。他にもっとなかったのかと、この世のすべてを憎みたくなる瞬間が確かにあった。


 そのとき、敵との間に立ちはだかる銀の甲冑の足があった。


 ミットライトは驚いた。

 背中越しではあるが、その鎧は確かにグリシナ王国の騎士のもの。精霊の加護を受けたそれだ。

 しかも、それはミットライトがまとっているものと全く同じ形状なのだ。


「意外とイケメンだな、うちの先祖」


 と、金髪を戦場の風になびかせながら、男が不敵に笑む。

 男の隣には黒髪もあでやかなタイトスカートの女がいる。


「ちょっとぉ、本格的な戦場のど真ん中じゃないですかぁ、やだあ! ミダイヤさんといっしょに死にたくないんですけどぉ~~~~! あっもう死んでるんでしたっけぇ? 死後の世界ってもっと楽なんじゃないんですかぁ!?」

「安心しろ、ヴィアベル。俺様もそれほどバカでも勇み足でもねえ。こういう状況にまさにピッタリ、うってつけの人材をリクエストしてあるからよ」


 帝国兵たちが矢を、そして魔術を放つ。

 本来ならその攻撃は、四人の騎士を完膚なきまでに叩きのめしただろう。

 しかし、彼らには一本の矢も、魔術も届かない。

 それらすべてが、急速に空を覆った《茨》が防いでいた。正確には矢を《茨》が巻き取り、そして魔術を《青薔薇のつぼみ》が吸収していたのだ。


「状況がよくわかりませんけど、たしかにこれは、なかなかどうして自分向けの依頼ではありますね」


 茨の下に立って思案気にしているのは、特徴のないひょろりとした少年だ。

 けれども、目隠しの魔術を外せば、その下には鮮やかな青薔薇が翻る。

 そしてその両側には彼が育てた優秀な弟子たちが並ぶ。

 《騒乱》のチェズレイ、《銀鍵》デイドラ、《双星》シリヨル・テレデレ姉妹。《星の翼団》代表のバーナネン、そしてオリヴィニスに集った数多の冒険者たちが師の元に集って敵を睨みつけている。


「此度の戦いは名誉を守るための戦いである! 悪を憎む者たちよ、剣を捧げよ!! 弱き民を守る者、盾を掲げよ!!」

「応っ!!」


 細身の体のどこにそんな力があるのかと思うほどに力強い声が、戦場に蔓延していた悲痛な空気を晴らしていく。その眼差しと気迫だけで弱り果てた戦士たちに闘志の炎が灯る。

 その炎は、今やあちこちで灯っていた。

 火刑台に送られた者を助けだす者、拷問を加えられていまにも息絶えようとしていた者に回復魔術を施す者、それらの全てを見守りながら、アラリドはある場所に向かっていた。

 天上の星の世界を下り、《彼ら》が待つ場所へと。

 少年がそれに気がついて、両手を伸ばす。

 アラリドは笑顔でその腕に飛び込んだ。

 そこは見晴らしのよい尾根の上でたくさんの人々が景色を眺めながら、暖かい衣服に身を包み、暖かい食事をしている。お茶や食事や皿、衣服を鏡の中から無限に取り出して配っているのは、長髪の美しい魔術師である。アラリドはその者のことをよく知っている。彼は若い頃のトゥジャンである。

 ほかにも、ここにはかつての仲間がかつての姿で揃っている。

 少し開けた場所にはヨカテルが工具箱を開けて、手足を失った者のために義手や義足を拵えていた。

 アラリドを迎えたのはひとりだけ姿が変わらないメルである。

 メルはアラリドが足を踏み外さないように支えてやっている。

 のように。


「メル、あいたかった!」

「アラリド、あいかわらず無茶をしてるね」

「そんなことないよ。こうでもしないと、《フギン》も、フギンが取り込んだ人たちも、気持ちの納めどころがないままだよ」


 今、尾根でピクニックをしている人たちは、かつてメルたちが救えずに、渓谷に置き去りにしてしまった者たちだ。


「こんなことをしても過去は書き変わるわけじゃない。死んでしまった人がよみがえるわけじゃないよ。だけど、自分のことを誰も救ってくれないんだと思うのは、みんないやだと思うんだよね」

「アラリドらしいけど……。死者があまり色々やると、僕の中に戻れなくなるからね」

「わかってるって! で、マジョアはなんで落ち込んでるの?」


 メルの隣では、まだ隻眼になっていない銀髪の剣士が、魔物が来ないかどうか警戒を続けている。


「落ち込んでなどおらん。反省もしておらんわ。仕方がないではないか、なんであいつらみんな、わざわざオリヴィニスまで来て問題を起こすんじゃ。そんなもん帝国でやれ、帝国で!」

「…………さっさとフギンの正体をバラして追い返しちゃえばよかったのに」

「アホか。もしも奴の記憶が戻った時、シャグランの意識が残っていたらどうなると思っとるんじゃ。どう考えても記憶喪失のまま送り返すのが最善手、今回のは政治的にもかなりヤバいヤマだったのだぞ!」

「まあ、アンテノーラも王国の例の王子様も、野心がまったく無いとは言わないけどね。僕もフギンのことは嫌いだし」

「どうして? 同じ不死者なのに」


 相変わらずの様子のメルに、アラリドが純粋な疑問をぶつける。


「あれはあくまでも女神の眷属で、神格だ。女神がゴネたら僕ら人間は言うこと聞かなくちゃいけなくなるだろ。光女神がフギンを助けろって言い出す前に、僕はできるだけのことはしたつもりだよ」

「なるほど。命令されるの嫌いだもんね、メルは……」

「でも、この光景はきらいじゃないよ」


 尾根の上を、人々が渡っていく。

 もう寒さに凍えてはおらず、誰も苦しんでいない。

 満たされて、尾根の先で待っている空飛ぶ船へと向かっていく。



 誰かが……。



 誰かが、過去の悲しいことを見つめている。

 何かできたのではないかと手を差し伸べようとしている。

 助けを求めれば答える声があるのだと伝えてくれている。


 流れ着いた小さな遺体を見つけたとき、フギンの心は錆びついてしまった。

 悲しみや苦しみに耐えきれず、忘却を選んだ。


 でも今はひとりではない。

 過去は変わらないかもしれないが、ひとりではないと知っている。

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