第204話 滅びを望む獣 ‐2
許す、とフギンが言ったとき、アマレナの体は小さく震えた。
「許す? 許すと言ったのか。おまえが、この私を」
フギンは頷いた。
「私が何をしたか知らないのか? 私は男たちを殺した。女たちも殺した。数えきれないほどだ」
「そうだ。そのすべての罪を許すと言った」
「ただ殺しただけではない、子供の前で母親を焼き、母親の目の前で子供たちに火をかけたのだ。それを許すだと? 確かにそう言ったのか?」
「そのとおりだ」
「女を犯し、男たちを生きながら豚のように捌いた。恋人たちを戦わせ、生き残った者に死んだほうの肉を料理して食わせた。それでもか? それでも許すと言うのか!」
フギンを見つめているのは人の形をした暗黒だ。
心を知らず、心の意味を知らずに悪をなす真正の怪物だった。
しかしどれほどの悲劇を告げられても、フギンの答えは変わらない。
「それでも許す…………」
何故、とアマレナは喘ぐように問い続ける。
「なんの権利があって? 気でも狂ったんじゃないだろうな」
その表情は恐怖に歪んでいる。いままで、他者を獲物かそうでないかでしか判断していなかった処刑人が、はじめて脅えという感情を露にしている。
「お前が死者の檻だというのなら、その内側には私が捕らえ、殺した魂が怨嗟の声を上げ、渦巻いているはずだ」
フギンはアマレナの傍らに跪いた。
膝を泥で汚しながら、何も持たない両手を差し向ける。
「記憶が戻ったとき、たしかに私の内にある魂たちからお前がした行いのすべてを聞いた。数えきれないほどの罪、許されざる罪を。それでも許す。だからこそ許すのだ。記憶が戻ったからこそ。いったい何が違うのかと問いかけたな、アマレナよ。それが私とお前の違いだ」
そのとき、フギンの姿に別の人影が重なって見えた。
夜魔術の儀式のときと同じだ。
長い亜麻色の髪をひるがえし、青い瞳をしたその女性がフギンとともにアマレナに両手を差し出しているのだ。
マテルにはそれがフェイリュアだとわかった。
彼女はかつてシャグランにそうしたように、アマレナを見つめている。
その表情に憎しみはない。死の苦しみもない。
ただ穏やかに柔らかく微笑んでいる。
「許す」
脅え、地面を這って逃げようとするアマレナの体を抱き寄せ、フギンはもう一度そう言った。
誰もが息を止めて、固唾を飲んでその様子を見守っていた。
「ずっと、あの砦でみんなが何を祈っているのかがわからなかった。追い込まれ、退路はなく、ただ滅びていく身でいったい何を女神に望むのか。いつまでたっても救いの手を差し伸べぬ者にいったい何を訴えているのかと……」
フェイリュアも祈っていたに違いない。
牢獄に連れ去られたあともずっと。
「いまフェイリュアの魂は私と共にある。君は彼女が命乞いをしたと言ったが、それはうそだ……。彼女は最後まで命乞いをしなかった。なぜなら、彼女は自分の境遇を恨んではいなかったからだ。最後まで女神に祈りを捧げて生きた。そして、いまは私と共に旅をしている」
マテルはなんだか堪らない気持ちになって、彼の名前を呼んだ。
「フギン……」
そこにいるのは確かにフギンだった。
マテルといっしょに旅に出た人だ。
そうしようと思えば、いつでも思い出せる。ザフィリでのこと、そしてデゼルトでのこと。エミリアやヴィルヘルミナと出会ったこと。
ニスミスではおかしな小さなコインに翻弄されて、アーカンシエルでは大騒動になった。ミダイヤとぶつかって、悩んだ夜もある。
迷い、困ったときは誰かの親切に救われた。
聖都で聖女様と会い、王都で戴冠式に巻き込まれたのはまるで冒険の物語だった。
幽霊船に乗ったことも、雪原を渡って神殿を探検したこともある。
思い返せば、そのすべてが、フギンと、フギンが無意識のうちに運んでいた魂たちとの旅だった。
「だから、許す」
「何を…………何を言っているんだ?」
「彼らは祈った。君の罪を許すよう、女神に祈っていたんだ」
アマレナははっと表情を強張らせる。
燃やされていく人たちが何故……。
何故、自らの身の上を嘆くこともなく、誰かへの恨み言を口にすることなく、ただ天上の神に祈りを捧げていられたのか。
誇り高くその生を全うできたのか。
あの川岸で、砦で、騎士たちやすべての人々が、何故……。
その唯一無二の答えに思い至ったのだろう。
アマレナはベテルを救えずにもがき、身もだえて、暴力に訴え、悪事をなして正しさに背を向けた。だが、彼もひとりではなかった。
彼にもまた、彼自身を見つめる眼差しが常にあったのだ。
それは弱々しいまなざしで、儚く消えてしまうものであったかもしれないが、確かにあったのだ。
あの嵐が吹きすさぶの時代にあって、見捨てられた者はいなかった。
もしも、もっと早く、そのことに気がついていたら。
「《世界を
一筋の光が、雲を割って地上を照らした。
フギンはこの丘に集い、決着を見守っている者たちへとはっきりとした声音で告げる。
「いま百年の時を越え、請願は聞き届けられた! 慈悲深き光女神によってすべての祈りが受け入れられ、願いは叶えられる。これより先、何人もこの者を、この者がこれまでにおかした罪で裁いてはならない!」
それを見届けていた者たちが、ひそやかに闇の中を動き、オリヴィニスの街のそこかしこに散っていく。
「裁決は下された!」
満身創痍の騎士のかたわらに、青薔薇の英雄が立っている。
今にもミダイヤの頭を割ろうとしていた大剣は、絡みつく茨の蔓にせき止められている。ミダイヤが手にした剣にもだ。
茨には大輪の薔薇が咲き誇り、茨の先は英雄が羽織るマントに続いている。
ふたりは闘争の意志を失っていないが、全身に絡みついた茨が動きを完全に止めていた。
英雄くんは静かに、しかし決然として告げる。
「
その脇を、黒い獣が駆け抜けていく。ジデルのカモシカだ。
街のあちこちに散って様子をうかがっていた師匠連の者たちが、混乱する街の人々に女神の奇跡を伝えていく。
ほとんどの者は魔鳥によって一時、魂が抜かれていたことや、事態を引き起こした元凶が夜空から消え去ったことで異常を悟り、戦いを止めていた。
しかし中には引くに引けない者もいる。
高台の頂上から少し下ったところではバーナネンとルビノが戦っている。
実力の差があり過ぎることは、バーナネン自身がよくわかっていた。
どれだけ攻めても、槍の穂先は相手を掠ることさえない。
しかし、敬愛する者のためにはじめた戦いに、落としどころを見出しかねているのはお互い同じだった。
ルビノに向けて突き出された槍を掴んだのは、風のように現れた青年だった。
見知らぬ冒険者は脇腹を貫こうとしていた拳を寸止めにしたまま、語りかける。
「このまま引いてくれないかな、バーナネン。ここは戦場ではない。ただの街だよ。誰もが暮らし、眠りにつく街なんだ」
薄氷の瞳はじっとバーナネンを見据えていた。
「そして、君が刃を向けているこの子は、僕の大事な息子なんだ」
ゆっくりとかみ砕くように言う。
そのときバーナネンの瞳に理性が戻ってくるのが見てとれた。
ようやく自分が、いったい何ものに刃を向けていたのかに気がついたのだろう。
バーナネンが刃を向けている相手は腕きき冒険者で、行く手を阻もうとしている敵だ。だがそれだけではない。
誰かの親しい友人であり、仲間であり、血筋なのだ。
戦場などどこにもない。
血を血で洗ってまであがなわれる名誉などないのだ。
刃がゆっくりと下ろされ、地面に向けられる。
高台の麓では、さらに多くの冒険者たちが途方に暮れていた。
マリエラは目覚めた瞬間に《嫁き遅れ》と罵った冒険者に再戦を挑み、いまはマウントを取ってタコ殴りにしている真っ最中だ。
冒険者たちはそれを止めるべきか、それともギルドの指示に従うべきか、行動を決めあぐねていた。
アトゥは集団から少し離れて、すやすやと寝息を立てるシビルを抱いていた。
思い返せば、シビルには辛いことをさせてしまった。勇敢ではあるが、理由もなく人を魔術で傷つけるなど普段であればしようともしなかっただろう。
アトゥが号令をかけたから、意志を捻じ曲げてついて来てくれたのだ。
人を率いるというのはそういうことだ。率いた者が間違っていれば、付き従う者も道を外す。もしも少しでも何かが違っていたら、もう戻れないところまで行ってしまっていたかもしれないのだ。
罪悪感だけが重く伸し掛かる
もはや戦う意志も、意味もなかった。
「あー、お前たち。こんなことを言うのもなんだが、もうやめにしないか?」
アトゥは立ち上がり、周囲の冒険者たちに呼びかける。
ここにいるのは青薔薇の弟子たちで、拠点にしている街も別で、アトゥの金色の冒険者証は大した意味を持たない。
それでもこの場を納めるのが自分の役目だと切実に感じる。
「しかし、ギルドの命令はどうする」
そう、真面目そうな声つきで訊ねられる。
アトゥは自分を見つめる無数の目と対峙していた。
彼は己が何者かと問う目、問う声を、怯えずに真っすぐに受け止めた。
「たしかにギルドの命令には逆らえない。だが、こんな大勢で、仲間を助けようとしてる健気な連中の邪魔をしてどうなる? やつらは災厄を持ち込んだ。しかし、それは仲間を救うためだ。そして俺たちは冒険者だ。冒険者とは、挑戦者のことだと俺は思う。臆病者でも、ギルド長の腰ぎんちゃくでもない。挑戦者だ」
そうだろ? と言葉にはせずとも、力強い眼差しが訴える。
仲間とともに砂漠を越え、雪原を越え、偉大な渓谷に挑戦する。
竜と戦い、魔物と戦い、暴力には屈しない。
たとえ無茶だと罵られたとしても、勇気と知恵で進んでいく。そうあろうとする。
「慣例にしたがい、納得のいかない仕事を受けて、それを名誉として誇れるのか? かすかな望みに賭けて仲間を救おうとしてる連中のほうがよほど立派だし、冒険者らしいじゃないか」
「だが、暁の。お前にも世話しなきゃならない仲間がいるだろう」
「ああ、いるさ。だけど、これ以上不名誉で間違ったことをさせられるくらいなら、冒険者ギルドに用はない」
深く息を吐く。ここが勝負どころ、そして大一番だ。
未知への挑戦を何一つ恐れぬ冒険者に相応しいのは、はったりと強がりだけだ。
「俺は仲間を連れて街を出る。そして冒険者ギルドが無くても生きていける道を探す。お前たちも来るなら来い。まとめて面倒みてやるぜ」
不敵に笑んだ赤毛の青年を前に、青薔薇の弟子たちは顔を見合わせる。
あれほど重苦しく、天を塞いでいた雲が薄く避けていく。
地上を照らす光は一条、二条と増え、俯く人々の頭上を優しく撫でていった。
ときに孤独に打ちひしがれ、正しい道に背を向けて、
正しくもなれず、美しく潔くあることもできない、
そんな人々を誰かが見ている。
誰かが……。
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