第203話 滅びを望む獣



 すべてが夢からさめた。

 夢で見たものは急に精彩を欠いていく。

 あれほど悲しかった出来事たちも、肌を炙っていた痛みも、懐かしい人物の微笑みも、急速に遠ざかっていってしまう。

 その代わりに浮かび上がって来るのはオリヴィニスの惨憺たる現状だ。

 魔鳥はいま、何事もなかったかのように静かに羽を畳んでいる。

 しかし高台の周辺やあちこちの破壊された路地には、魂を抜き取られたもの言わぬ体が崩れ落ちていて、ここで起きたことが何ひとつ幻ではなかったのだと思い知らされるのだった。

 いったいどれくらいの人間がこの惨事を抜け出すことができたのだろう。

 もしかしたら、全滅もあり得るだろう。

 それどころか、世界中の命が消えてしまっていたとしてもおかしくない。

 耳が痛くなるような静寂ばかりが広がっている。そこにあるのは果ての無い恐ろしさだ。

 悲惨そのものの世界を前にして、フギンは曇天の空をじっと見上げていた。


「君は、フギン……なんだよね……?」


 マテルはおそるおそる訊ねた。

 目の前にいるのは、別れた時と変わらない姿のフギンだ。

 革鎧の傷の位置ひとつ取っても違わない。

 それでも近寄りがたく感じるのは、フギンが何者なのかを知ってしまったからだろう……。マテルの目の前にいるのは光女神がグリシナに託した《鴉》であり、その姿形はシャグランそのものなのだ。


「記憶が戻ったんだよね……?」


 フギンはただひたすら厳しい目つきをしていた。

 そして突然、腰の剣を抜き、マテルを背後に押しやった。

 マテルの背中で刃がせめぎ合う甲高い音がした。


「死ね! グリシナの魔鳥よ! 死ねっ!」


 視界の端に、紺碧のローブに金の房飾りが躍る。

 フギンの剣は突き出された蝶の短剣を防いでいた。


「アマレナ……生きてたのか…………!?」


 つばぜり合いのせめぎ合いを押し返し、アマレナは一旦引く。

 そして地面に落ちていた石くれに短剣の刃を擦りつけた。黒い照りのある刃が一層あやしく輝きを増す。


「こいつには魂がない。もともと魂がないものは、魔鳥の影響を受けない」


 フギンは妙に抑揚のない口調で答える。その声音は、夢の中で出会ったシャグランのもののように強張ったものだった。

 アマレナは憎悪の瞳をフギンへと向けていた。


「いまいましい、死にぞこないの鴉め。一度は地獄へと送り届けたと思ったものを――――いや、お前がよみがえったのは幸運だった。今度こそ殺せる。徹底的に、完膚なきまでに、女神の恩寵とともに地獄へと送ってやる」

「ベテル帝はもうとっくの昔に死んでしまったのに……?」


 マテルが呟く。

 シャグランとフェイリュアの魂は、確かにフギンの中にある。

 しかしどちらも死者であることに違いはなく、仮にシャグランの王位継承が認められたとて、グリシナという国はもはやこの大陸には存在せず、帝国を脅かすことはない。

 それなのに、アマレナはフギンを憎しみのこもった瞳で睨みつけた。


「あの方はずっと、みずからが滅びることを恐れていらした。ベテル帝亡き後、蛮族どもが帝国を蹂躙し、安寧と平和を打ち砕くのではないかと。だからこそ私が、あのかわいそうなベテルの……ベテル帝の憂いを晴らして差し上げなければならない」


 いよいよアマレナの言葉は支離滅裂だった。

 ベテル帝が命を狙われたのは彼自身の非道な行いのせいだ。

 武力によって国土を拡げ、そして罪なき者たちを葬ったからこそだ。

 ベテル帝の首を絞めたのは彼自身の行いなのだ。

 でも、そのことをアマレナは何一つ理解していない。


「あの方の恐れを、この地上からすべて取り払わなければ。!」


 アマレナは叫んだ。

 この世の憎悪を全て煮詰めた瞳で。そして声音で。


「ベテルこそが孤独で醜い私を救ってくれた、ただひとりの友なのだから……!」


 幾千幾万の民をあの川縁で鎖に繋ぎ、薪を組んで油を撒き、火を放った処刑人が、そうせよと命じた皇帝を《友》と呼ぶ。かわいそうだと憐れむ。

 それはあまりにも歪んでいて、気が遠くなるほどに理解の及ばない、まるで異次元の世界の話のようだ。そしてそれは優しさや思いやり、慈悲や愛情といった、人が善と呼ぶすべてが失われた世界なのだろう。


「報復が怖いのなら、あのような非道を為すべきではなかった。彼を友達だと思うならなおさら、君は止めるべきだった……」


 正論を述べるマテルを、アマレナは見てもいない。

 アマレナが見つめているのはフギンだけだ。

 そしてフギンはそんなアマレナを、物も言わずにじっと見つめ返している。

 アマレナが吐き出す怨嗟の声は、かつてのシャグランのものに似ていた。

 ここで見つめ合っているのは、互いを憎み続ける二人の魂なのだ。


「今度こそ滅び果ててくれ。ベテルのために……!」


 ほんの少し前まで、フギンが元にもどり、マテルはすべてが終わったような気がしていた。

 物語の最後の頁のように、みんなが幸せな結末に辿り着いたかのように。


 だがそうではなかった。

 現実は夢とも物語とも違う。


 アマレナは短剣を握り、じりじりと距離を詰め、野獣のように飛び掛かった。

 研ぎ澄まされたアマレナの短剣はフギンが掲げた剣を真っ二つに切り落とした。

 まるでやすやすと、紙を切るように鋼が裂けていく。

 フギンを守らなければいけないと、マテルはメイスを探した。

 しかしフギン自身がそれを制する。

 逆手に握り直した短剣の切っ先が、フギンの体に向けて突き立てられた。


「フギン!!」


 しかし、マテルが想像したようなことは何ひとつ起こらなかった。


「マテル、恐れることはない。いま、この場所のことを女神が見ている。呪詛の力は届かない」


 蝶の短剣はフギンの肩口に触れた切っ先から脆く崩れた。

 まるで土くれのようにボロボロと……。

 慌てて飛び退いたアマレナの手に残ったそれは、刃渡りが半分ほどになっている。

 フギンの体はうっすらと輝いていた。


「フギン、君は光女神と話せるの……?」

「女神は人と言葉を交わさない。ただ約束があるだけだ」

「約束って?」

「この世に存在するすべて。生と死が人とかわした最初の約束だ」


 フギンは空の一点に手を伸ばす。

 曇天の真ん中から金色に輝く小さな星が落ちてくる。

 それは差し出したフギンの掌の上で輝く八芒星となる。

 輝きは神聖なものだ。夜魔術の儀式で感じた気配の、そのもっと大きく巨大なものが天上にあり、フギンに力を分け与えていた。

 それは畏怖となって伝わり、マテルを無意識のうちに後ずさりさせる。


「マテル、ありがとう。君のおかげで、俺は自分が何者なのかを思い出せた」

「君は何者なの?」

「私はグリシナの神烏……。光女神の眷属にして、グリシナに下された恩寵である」


 フギンが宣言する。


「光女神の名のもとに、魔鳥が奪った魂をすべてもとに戻そう」


 フギンは右手を広げる。鳥が翼を振るように。

 それと同調して、黒鴇亭の頭上で休んでいた魔鳥が大きな翼を広げる。

 空にいくつもの星が流れていく。

 そして翼の先がくすぶっていた炎を消し、高台やその坂道、街のあちこちで力無く横たわっている者たちの体を撫でていった。

 沈黙していた体は息を吹き返し、ただ安らかに眠っているように呼吸をはじめた。

 オリヴィニスに渦巻いていた戦いと死の気配が消えていく。

 倒れていたヴィルヘルミナも息を吹き返し、何とか体を起こそうとしていた。

 女神の奇跡としか言いようがない現象、そして光景が目の前にあり、それを引き起こしているのは紛れもなくフギンなのだった。


「…………ふざけるな。お前と私と、何がちがうと言うんだ」


 アマレナが震える声で問う。

 両目は見開かれ、口元は屈辱にわなないている。


「答えろ、何がちがう?」


 そう問いかけて、魔剣を自分自身の左胸に浅く突き立てる。

 短剣は簡単にローブや服、皮膚やその下の黄色い脂肪の膜を引き裂いていく。

 そして反対の手がそこにねじ込まれる。指先が左胸を覆う全ての組織を引きずり下ろして、その内側を曝け出した。

 マテルは幻の痛みを感じて目をそらす。

 恐る恐る視線を戻すと、そこには夜気に湯気を上げる体液と、そして肋骨が露になった胸がある。骨の内側には内臓があるはずが、それは存在しない。アマレナの内側にあるのは青く輝く宝石、それも恐ろしく巨大な賢者の石だった。


 それがアマレナがいくつもの顔を自由自在に使い分けていたカラクリだった。


 賢者の石は魔物の進化を促す。それまでとは全く異なる姿になることも可能なのだ。その性質を利用して、フギンは鴉の姿を捨てて人間になった。

 同じことを幾度となくアマレナも繰り返しているのだ。


「答えるがいい。私とお前、いったい何が違う? こうして肉の体を開いてみれば、中身は同じ。罪なき者を死の運命に導いたのも同じだ。私といったい何がちがう?」


 シャグランが何をしたのかをつぶさに見て来たマテルには答える言葉がなかった。

 対峙する二人をただ見守るしかできない。

 やがて、その眼差しは増えていく。

 ヴィルヘルミナと同じく、魂を戻されたヴィルヘルミナやメル、セルタスやトゥジャンが、この状況を見つめていた。

 暗がりから、そっとこちらを見守っている視線もある。


「私とお前は同じだ。なのに何故、光女神はお前にばかり恩寵を与える? なぜ私やベテルを救わない? 答えろ、フギン」


 血を吐くような叫びをフギンはただ黙って聞いていた。

 そしてフギンが平静であればあるほど、アマレナは憎しみを募らせていく。


「お前にだって憎しみに震える心があるはずだ。怒りに我を忘れ、苦しみと痛みに目を背ける汚い本性があるはずだ……」


 アマレナは懐から掌の大きさの赤い人形を取り出した。

 頭と手足があるだけのそれは、何故か生々しい存在感がある。

 それを地面に落とすと、アマレナの靴の底が踏みつぶす。蹂躙された人形は、まるで本物の人間のように潰れて、赤黒い血しぶきを上げる。

 その次の瞬間、そこにいたのはアマレナではなかった。

 朱色の毛皮に覆われた娘、アリッシュだ。


「なぜ、戻ってきてくださらなかったのですか? シャグランさま……」


 アマレナが変化したアリッシュは幼い娘の声音で、哀れに縋るような視線を向けてくる。


「我々はあなたが助けに来てくださると最後まで信じて帝国と戦っていたのに……。あなたは我々を裏切り、仲間たちはみんな死んだのです……」


 アリッシュが語る悲劇は現実に起きたことだった。

 フギンの姿を借りたシャグランはアリッシュたちの元には戻らなかった。

 彼はフェイリュアを失った痛みに耐えきれず、フギンを残してこの世界を去ったのだから。

 その後、アリッシュたちは殺され、冒険者の助けを借りて救い出そうとしていた人々も、その道行きで次々に息絶えていった。数えきれないほどの悲劇が積み重ねられていったのだ。

 フギンは静かに答えた。


「君はアリッシュではない。彼女の魂は俺と共にある」


 アマレナが変化したアリッシュは一瞬、少女の顔を捨てて暗い表情に戻る。

 そして双剣を抜き、恐るべき身体能力でフギンに飛び掛かる。


「そうじゃないだろう、フギン!」


 アリッシュは叫んだ。アマレナの声で。

 獣の牙のように何度も襲い来る刃を、フギンはナイフ一本で防いでいる。


「これはすべて、お前のせいなんだよ! お前さえ大人しくしていれば、コイツらは死なずに済んだ!」


 渾身の一撃がナイフを弾き飛ばす。

 身を守る者が何もなくなったフギンを引き裂こうと迫る刃は、しかし、届かなかった。

 反対にアマレナが吹き飛ばされ、地面に倒れる。


「何故……お前だけが澄ました顔でいられる…………!?」


 泥に汚れた手で、もう一つ人形を掴む。

 次に変化したのは、若い男性の姿だった。毛皮の衣は臙脂色をした魔術師のローブへと変化する。その容貌や声、姿を知っているのは、この場ではフギンのほかにはマテルだけだっただろう。


 忘れもしない。そこにいたのはエスカだった。


 シャグランのただひとりの理解者であり、友人だ。


「お前だって罪人だ! 認めろ、お前の中にも憎しみがある。私を邪悪と言うなら、お前もまた同じなのだと……。それとも」


 アマレナは笑った。

 じつに楽しそうに。過去の記憶の中で、彼が人を殺し、虐げていたときと全く同じ表情で。


「それとも、フェイリュアが牢獄でどんなふうに暮らしたかを教えてやろうか? 鼻をそぎ落し、耳を切り取って、手足の爪を剥ぎ、夜ごと男たちに犯させたとき、どんな泣き声を上げて、どんな命乞いをしたか…………!」


 フェイリュアの名前を聞いたとき、フギンの表情が明らかに変わった。

 眉間に皺をよせ、いつかと同じシャグランの眼差しがアマレナを見据える。フェイリュアと子供たちを失い、裏切られ、世界を呪っていたときと同じ眼差しだ。

 止めなければ。

 マテルは咄嗟にそう思った。

 何故なのかはわからない。もちろんアマレナは憎むべき敵だ。

 愛情や優しさ、思いやりといった心を持たず、数えきれないほどの魂を傷つけ、尊厳を奪い、残酷な方法で葬ってきた。同情心は一切ない。

 それでも止めなければと思い、フギンに向けて一歩を踏み出した。


「マテル、来なくていい。君たちはこの戦いに手を出すべきではない」


 フギンは小さな星を握り締める。

 今一度、魔鳥が大きく羽ばたき、高く鳴いた。そして屋根の上から離れ、聖なる光になってフギンの元に戻っていく。


「私は女神の神烏であり、そうであると同時に、この体はグリシナの最後の王配、シャグランのものなのだ。光女神ルスタの名代として、グリシナ最後の王として、私はお前を裁く立場にある者だ」


 天からもたらされた星の光はフギンの手の中でまとまり、金色に輝く大きな槍の形を取った。

 マテルには目の前にいるのがかつての仲間と同じだとはどうしても思えなかった。夢の中では、フギンを連れ戻したのだと思えた。共にザフィリを旅立ち、時に楽しく、時に苦しい思いをしたフギンそのものだと。


 だが今ここにいるのが何者なのか、マテルにはわからない。


 復讐の怒りに燃えるシャグランなのかもしれない。

 あるいはもっとたくさんの、数えきれないほどの怒りと憎しみが彼を支配しているのかもしれない。

 彼の中には、グリシナの民の記憶がある。その全てが受けた傷のことを、記憶を取り戻したフギンは知っているはずだ。

 この先を見るのが怖かった。

 マテルが旅立ったのは、フギンにアマレナを殺させるためではない。

 たくさんの命を失い、失う様を見せつけられてきたフギンが、再び人を殺すところなど見たくはなかった。

 

「殺すがいい。所詮はおまえも人の身だ。人の弱い心しか持ち得ない」


 見下ろすフギンの瞳はどこまでも冷淡だった。


「そうだ。俺は弱い。借り受けた魂の助けがなければ、剣を振るうことも、魔術を使うことも、錬金術を使うこともできない。幾千幾万の命が苦しみ、消えるところをただ見つめているしかできなかった……」

「さあ、はやく復讐すればいい。ベテルはどうせ救われない。光女神が救わないのなら、あいつの魂を抱えて私も逝く!」

「お前も祈ったのだな」


 フギンは言った。

 いや、それはシャグランの言葉だった。彼の声だった。


「何?」

「お前も光女神に祈った……。救ってほしいと。どうあがいても救われぬ魂のために。人々のために。そして打ち砕かれたのだ。奇跡など起きないと、光女神に背を向けて正しい道から離れた。私はお前と同じだ……」


 フギンは槍を大きく振りかぶり、その先端を振り下ろした。

 刃はアマレナの体ではなく、背後の地面を突きさした。


「お前を…………


 フギンは言った。

 呆気にとられるアマレナに、告げる。


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