第202話 帝国の星、ひとつ



 魂と肉体が切り離された死者の世界はまさにアラリドの領分だった。

 この世界で必要とされるのはただひたすらに精神と創造の力のみである。

 ここは何もかもがまるで魔術師のために作られた庭のような場所であり、むしろ生きていた頃よりも自由であるかのような気さえする。

 そんな彼女には不思議でならないことがひとつあった。

 先ほどからずっと自分たちの後を追いかけていた《アマレナ》という存在だ。

 たとえどんな存在であれ、夜魔術の正統な継承者であるアラリドと拮抗しているなど本来はあり得ない話だ。いったい、は何者なのだろう? 興味が湧いたら、とことん進んでみる道しか見えなくなるのはメルと同じだった。

 夜闇の向こうにもっとずっと暗い闇があり、そこに二つの瞳が浮かんでいる。

 それはときに褐色の肌の異国の男であり、ときに獣人の少女のもの、そしてエルフの血を引く少年のものでもあった。でもそのどれもが偽物であるという予感があった。彼らがアマレナと呼んでいるものは、の本質ではない。

 魔術のとばりで幾重にも隠されているだけだ。


「せっかくこうして眠りからさめて起きているのだし、ちょっとした駄賃がわりにきみの正体、見せてもらっとこうかな」


 ひたひたと音を立てて這いよって来る影をアラリドは拒むことなく全身で受け入れる。澱んだ影が大波のように押し寄せて、華奢な体を頭から飲み込んでいく。


 夜魔術師は怪物の腹の底に降りて行った。

 それは隠された場所だ。

 砦の奥に女神の遺物が隠されていたように、

 暗く深い場所には大事な秘密がしまってある。

 そっと吐息を吐きかけると、金色の鍵穴が現れる。

 シャグランが鴉を手にしたように、特別な才能だけが開けられる鍵穴だ。


 閉ざされていた扉が開かれる。








 ベテル帝が生まれたのも死んだのも、あるひとつの同じ寝台であるというのはよく語られる説話である。


 つけ加えるのなら、オリキュレル離宮の奥深くに安置されたその寝台では、ベテル帝の母君とその情夫も亡くなっている。毒を飲まされ、ふたりは同時に折り重なるようにして亡くなっていたという。そしてその三日後には高熱を発した幼いベテル帝が寝かしつけられることとなったのだ。


 デゼルトの職人たちが数か月の歳月を費やして作り上げた天蓋付きの寝台は、黄金でできているともっぱらの噂であったが、実際のところはただの鍍金であった。



 オリキュレル離宮の奥深く……。



 その部屋の扉には常に外から鍵がかけられていた。

 窓には昼の明るい時間でもカーテンが閉めきられ、光ひとつ届かない。


 暗闇に閉ざされた暗渠のような部屋で、寝台に横たわり、高熱に苦しんでいるのは、子ども時代のベテル帝である。


 帝国の皇子であるというのに、その部屋に近寄ろうという者はいない。

 額から流れ落ちる大粒の汗から侍女のだれもが目を背け、拭おうともしない。幼子が身もだえ助けを求めて伸ばした手が水差しを割ったとしても、誰も駆けつけては来ない。

 ベテルは本来壮健であり、皇帝の血筋として何不自由なく育てられた。

 それなのにこの牢獄のような宮殿の一部屋でもがき苦しまなければならない理由があるとしたら、考え得る限りひとつしかなかった。

 すなわち、母親の罪の重さゆえである。

 つまり、とっくの昔に、何者かの思惑によって、哀れな皇子の運命は決まりきったものとなっていたのである。

 しかしその誰かにとっても運命とは意のままにならないものであったに違いない。


 皇子は死ななかったのである。


 苦しんではいるが、こと切れるには至らなかった。


 そうなると、もはや政治的にも生かす価値のない皇子とはいえ、誰がこの事態に始末をつけるのかによっては再び数多の屍が築かれることになる。それはもはや明白な事実だった。


 皇子が離宮に移されてしばらく経ったその夜遅く、とうとう痺れを切らした《何者か》の指図によって部屋の鍵が開かれた。


 湿り気の多い夏の夜の大気が、室内に満ちた汗や体臭のえたにおいとまじりあう。

 誰かが部屋に入ってきた気配を感じ、皇子は寝台の上で病身を捩った。


 しかしそこに人影はない。


 入ってきたのは人ではなく魔物であった。


 それはオリキュレル離宮の暗闇に潜む怪物だった。

 形のない肉の塊だ。

 見た目は豚の臓器のように滑らかで、表面にはぬらりとした粘膜と細かな血管の筋が見えた。微かに上下に蠢いていて呼吸をしているようでもある。

 おそらくは、皇子を殺害せんとして、この部屋に招き入れたものだろう。


 手足がなく床を這いずるしかない《名前のない魔物》は寝台に近づいて行く。


 力無く毛布の端からこぼれた皇子の腕はさ迷い、怪物の表面に触れた。


 そのとき、彼の心に浮かんだ感情は《恐怖》ではなかった。


 これまでどれだけ助けを呼んでも答えてもらえず、手を伸ばしても握り返す者がいなかった者にとっては、それは他ならぬ僥倖だったのだ。

 乾ききってひび割れた皇子の唇が、ひとつの名前を紡ぐ。


「アマレナ……?」


 何故その名前が幼いベテル帝の口から出たのか。

 そのことについてはちょっとしたエピソードがある。

 アマレナという長耳の少年は、ごく短い間であるが宮廷に出入りしていた。《蝶の短剣》というエルフの遺産を手土産にアルゴル帝に取り入ろうとして、第一皇子であるベテルの世話役を命じられたのである。

 しかしベテルの母親が殺され、ベテルもこうなってしまった以上、彼が宮廷に戻ることはない。

 それどころか郷里からやって来た追手によってじきに討たれる運命だとは露ほどにも思わずに、彼は親しい友人だと思っていたこの者の名前を呼んだのである。


「アマレナ……戻って来てくれたんだね。どうか、美しい君の瞳をみせて。青い宝石のような瞳を」


 ベテルがねだると、不思議なことが起きた。

 ただの肉の塊のような怪物の体に、突然、二つの丸いものが浮かび上がった。

 それは抜けるように青い色をしており、じきに白目が足された。そしてその周囲にまつげらしきものが生え、瞬く間に人の瞳らしきものが浮かびあがったのである。


「ぼくの手を取って、お願いだから」


 そう乞われると、怪物の体が細長く伸びた。

 そして手のような、どちらかといえば触手のような細長い突起を伸ばし、そっと手に触れる。


 それは世にもおぞましい光景であった。


 ベテルが水がほしいといえば肉塊は自らの表皮から滴る体液を集めて飲ませてやり、腹が減ったといえば、触手の先をちぎって口元に運んだ。

 看病を得て持ち直し、視力がもどったベテルが目にしたそれは、とてもではないがアマレナとは呼べない怪物であった。

 しかしベテルはそれを恐れなかった。

 むしろ窮地を救ってくれた《恩人》として受け入れ、教育を施した。

 正しい瞳や口や鼻の位置、歯の並び、体毛が生える箇所や関節の動かし方、骨や臓器の働き、体を保護する皮膚の存在、声の出し方を教えこんだのである。


 怪物は恐ろしい速さと精度で学び、そしてその才能を開花させた。


 ひと月も経った頃、離宮にはこの見捨てられた皇子に従順に付き従う《アマレナ》の姿が見られるようになっていた。

 怪物はまるで宮廷を闊歩し、蝶の短剣を操った。ベテルを守り、そして必要とあらば、他の全てのものに

 ためしに南方からやってきた呪術者に成った時、呪術を覚えた。

 怪物には、他人の姿を写し取る力がある。そして写し取った相手の能力までもを自在に使えるのだ。

 これはベテルにとって朗報であった。


 ベテルは怪物のその不思議な力に助けられて命ながらえ、その力を大いに利用し、やがてはベテル帝と呼ばれるまでになったのである。


 しかしながら彼の人生は安穏としたものではなかった。


 むしろベテルは年を取るごとに偏執的になり、妄想に囚われるようになっていった。彼は幼い頃、自分が死にかけたのは母親と同じ毒のせいだと思い込み、不安に駆られると、暗く閉ざされた自室にアマレナを呼びつけた。


 暗幕で窓という窓を塞いだ暗く重苦しい部屋に置かれた玉座に深く腰かけ、ベテルは倦んだ瞳で、昔と何一つ変わらぬ姿の怪物を見上げ、言うのだ。


「我が友、アマレナよ。余はこの世が恐ろしゅうて敵わない。ひどい頭痛がしておる。あの夜から幾夜過ぎても眠れず、朝も息ができないほどに苦しいのだ」


 肉塊であることをやめ、人としての知性を持ち始めた怪物は、ベテルはかわいそうな人間なのだと感じていた。

 大人になったとしても、誰からも見捨てられた哀れな子供だった頃と変わらない。

 だからこそ守ってやらねばならないと思えたし、それができない家臣たちはみんな愚か者にみえた。


 怪物というのは案外と純粋なものなのだ。


 それにもとを辿れば、ただの肉塊だった怪物を《アマレナ》にしてくれたのはベテルである。


「何も心配めされることはありません。このアマレナが、今にもあなた様のすべての憂いを晴らして差し上げます」


 アマレナはそのように応え、ベテルを悩ます原因を排除する仕事に取りかかった。


 しかしいざ取りかかってみると、ベテルの周囲はやっかいな敵に溢れていた。

 帝国は拡大を続け、属国は増えていたが、戦争に破れた者たちは、表向き恭順の意志を示していても心の内では野心を燃やしている。それを押さえ込むためには民を法により締め付け、注意深く監視しなくてはならないが、今度はそのこと自体に反発を示す者が出てくる。


 アマレナはベテルが出した法律に従わないもの、皇帝や帝国を批判する政治家や貴族連中を殺した。それが済むと、正しい女神教典に従うように訴える司祭や、女神の奇跡を使って民を惑わす修道女たちを葬らなければいけなくなった。


 仕事には際限がなかった。


 帝国領になだれこみ、領民から仕事をうばったり、それどころかテロを行うなど迷惑でしかない属国民や、帝国の資源を食い尽くしていく愚かで厄介な貧民たちをまとめて連れてきて殺し、拷問にかけて殺し尽くした。


 その度にベテルは嬉しそうに微笑みをみせ、アマレナを良い友だと言って褒めた。

 怪物にとってはそれが何よりも嬉しかった。

 怪物の姿を捨て、人間になっても、彼には友達がひとりしかいなかったからだ。


 もっともっとベテルを喜ばそうと、アマレナは宮廷魔術師の幾人かに暗殺術や呪術を仕込んで手駒に変え、猟犬として街に放った。


 そして長年ベテルの頭痛の種となっていたグリシナの連中を炙り出すことにした。


 奴らは強い。下手に戦力を残したまま属国となったため、その血は帝国の各地に息づいている。おまけにグリシナの王家は《鴉》を従えている。《鴉》がいるということは、女神がグリシナを祝福しているということであり、その王権が正当であり、生死すら自由にするということだ。あってはならない。

 アマレナは手勢を率いて砦を陥落させ、グリシナの姫君と鴉のうち一羽を離宮に持ち帰った。完全なる勝利だった。王家の血筋は絶え、反抗の目は摘んだ。


 ただ、ベテルが喜ぶだろうと思って……。


 これで、彼は安らかに眠れるだろう。

 その憂いは晴れ、治世には迷いなく、帝国は千年に渡って栄えるだろう。


 そう信じて疑わなかった。


 アマレナは自分がしていることを残酷だとは思わなかった。

 古来より、英雄とはそのようなものだ。数多の人間を殺し、その理由が好意的に取られたときに英雄となる。


 しかしながら、結論を言えば、ベテルが安らかに眠れる日は訪れなかった。


 彼はその治世の万事において徹底的に民を縛り上げ、恐怖によって統治することをやめなかった。


 むしろ日増しにひどくなるばかりだった。


 食事をすれば女給が気に入らないといって首を刎ねた。銀のフォークを落としたのは皇帝への敬意が足らないからだと言った。報告を読み上げる官僚の声が耳に触るとその者を地下に連れて行った。含みのある物言いは反意がある証拠だと断じた。


 このような有様を見てとり、流石のアマレナも、もしかしたら死だけがベテル帝の真に安らかな眠りなのではないかという疑いを抱き、その考えを捨てきれないでいた。


 やがて皇帝は老いた。


 一日の大半を寝台の上で過ごすようになったある日、彼はアマレナをそばに呼び寄せた。皺だらけの骨と皮ばかりのような手で、薔薇色の頬をした少年の顔を間近に引き寄せて、囁く。









 鴉が一羽、足りないではないか。




 と。




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