第201話 魂の証明 -2
フギンはマテルを引きずったまま街の端まで連れて行った。
文字通りの街の端だ。外敵からザフィリを守る石壁が聳えているだけで、他には何もない。
フギンが連れて行ったそこは、外壁の一部が崩れて中の空洞が覗いてた。老朽化でそうなっているという噂は訊いていたが、ここだとは知らなかった。
衛兵に賄賂を渡して、崩れた場所から中空になっている外壁の内側に忍び込んだ。
カンテラに光を入れると、がらんとした空間が現れる。
「空洞になっていたなんて、知らなかった」
「この街は錬金術師が作った。地下水道も、外壁も。敵を撃退する装置とか、あるかもしれないな」
上に登っていく階段をみつけ、マテルを手招きする。
申し訳ばかりに取り付けられた木の階段は古びていて、今にも抜け落ちそうだ。
酔っ払いと非力なフギンにとっては、あまり愉快な足場とは言えない。それでも苦労して、ぜいぜい肩で息をしながら辿り着いた場所で見た景色は忘れない。
ザフィリはフギンが言った通り、錬金術師が作り上げた街だ。はじめは地下水の汚染を除去する処理施設がうまく機能するかどうか試すために、実験都市として作られた。
二人の足元にあるのは都市を染め上げる黄金の光の海だった。
夜を明るく照らす街灯は、錬金術によってもたらされたものだった。先ほどまでマテルが反吐を吐いていた通りまでもが、地上の星々に飲まれて輝かしい。
それで、マテルは少しだけ、胸に疼いていた怒りを忘れることができた。
何もかもが小さなことのように思えたのだ。
マテルは隣に腰かけて、黙りこくって光の海に照らされている過去のフギンに話しかけた。
「フギン、君がずっと不思議だったよ。何故あの日、僕を見つけてくれたのか」
先ほども言った通り、マテルは善人ではない。
聖人でもない。
いつでも正しいことをしてきたわけではない。
強くあれたとも思わない。
誰に対しても優しく振舞えたわけでもない…………。
それでもフギンは、路地裏でうずくまっていたマテルを見下さなかった。
たとえマテルが今何をしているとしても、過去にどんなことをしていたとしても、ほんとうはどういう人間なのかを見極めようとしてくれたから、その眼差しがあったから、マテルは工房に戻ることができたのだ。
「だけどそれは、フギン本来の性質ではない」
過去のフギンが言う。
それは過去には起こらなかったことだ。
口元が醜く歪む。その邪悪な眼差しに、マテルは覚えがあった。
「……君はアマレナだね」
恐れることなくマテルがそう言うと、フギンの姿をした何者かはつまらなさそうに肩を竦めた。
「私は誰でもある。アマレナで、そしてフギンでもある。そうなれるんだ」
「でも、君はフギンじゃない。真似をしているだけだ」
「つまらないな、ヴィールテス。最後の騎士……。さすがは戦いに間に合わなかった間抜けな騎士だけはあるよ」
「僕は写本師だよ。ただのマテルだ」
「どうして落ち着いていられるの? 君はもう間もなく、フギンを失うのに」
「そんなことにはならない」
悪魔の誘いを振り切るようにはっきりと口にした。
アマレナはにやり、と笑ってみせる。フギンのかつての顔で。
「君がどれだけ意地を張ったとしても、フギンは見つかりっこない。君が見つけた彼の美徳でさえ、それはフェイリュアの持っていた特性なんだ。物事をまっすぐに見つめ、分析する目だ。この世に、確かにフギンだけのものと呼べるものはひとつもない。彼の人格は仮初の幻だからだ」
「あなたは哀れな人だ。何も持たないのはあなたのほうだ」
マテルはそう言った。
アマレナが何者であれ、恐怖は感じない。
自分は支えられていると思うからだ。頼りない外壁に立っていたとしても、見えない手によって支えられている。だれかが自分を見つめているだろう。
思いがけない存在が、ほんとうの自分自身を。
「僕はもう、フギンを見つけたよ」
「過去の君の記憶にあるフギンが、本当のフギン? 彼の魂だというの?」
マテルは微笑んだ。
「フギンはここにはいない」
アマレナの表情が強張る。ほんの少し。
でも大きすぎる少しだった。彼はアラリドを退けることはできても、人の魂のありかを知っているわけではないのだ。魂がどんな形をしているかなど、知るはずもない。
「君はあまりにも多くの人間を屠ってきた。それも口には出せないような卑怯な手段で。だからこそ、永遠にこの答えには辿り着けないだろう」
マテルは息を整えた。
会うのはほんとうに久しぶりだ。
時間にしてみれば、ほんの少し離れていただけなのに、もう何十年も会っていなかったように思える。ここまで通り抜けてきたシャグランたちの記憶が、そう感じさせているのだろう。
マテルは手を伸ばした。
足元に広がる光の海ではない。
隣にいるフギンの過去でもない。
ザフィリの、我らが故郷の外壁の、その外へと大きく手を伸ばす。
「フギン!!」
あのとき……。
はじめてフギンと邂逅したとき、マテルは光の海に気を取られて、フギンがどうしていたのか、その正確な姿はあいまいだった。
だけど、今ならわかる。
彼は、フギンは。
きっと街の光なんか見ていなかった。
彼が見ていたのは、錬金術の光に消されてしまった星の向こう。
闇の中に消えていく道のその先。
マテルやヴィルヘルミナが辿った旅の、その果てだ。
人が、そしてフギンが選びとり、歩むことのできる全ての可能性へと。
まだ見ぬ世界へと、マテルは必死に手を伸ばす。
「フギン、来てくれ! 僕はここにいる!!」
闇の帳を開いて、誰かが訪れる気配がした。
それは光の粒で、波であり、時には数式のよう。そして歌だった。
マテルの掌を誰かが掴む。
燃えるような熱をまとった何かが。
言葉にはならないもの。
光女神が人とかわした約束そのものが……。
喉を枯らして叫ぶマテルをアマレナは呆然として見ていたが、はっと我にかえり、蝶の短剣を掴む。
マテルの背中に突き立てようとして、アマレナは未知の力に退けられた。
はじかれ、刃が届かない。
目には見えない何かがマテルを守っている。
柔らかな羽のようなものが、彼を包みこんでいる。
差し出された手を懐かしい姿の人物が握っていた。
薄紫色の瞳の中に《彼》がいる。鈍い色をした瞳、ちょっと困ったような表情で、まっすぐにマテルを見つめ返している。
暗闇は消え、星々の瞬きも遠ざかる。
すべての幻想と、過去の記憶がゆっくりと消えていく。
そこはオリヴィニスの、激しい戦いのあとが残る黒鴇亭だった。
「おかえり」
マテルは声をかけた。
フギンは泣き笑いの表情を浮かべるマテルを、ただ黙って見返している。
この旅の間中ずっとマテルがフギンを信じていられたのは、彼の正体が悪人でも構わないと言い切れたのは、マテルが見ていたのが過去ではなく未来だったからだ。旅に出たフギンが何を見て、何を成すのか。その可能性が行き着くところを見たいと思ったからこそマテルは旅に出た。
未来のひとつが、確かにここにあった。
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