第200話 魂の証明 -1



 旅がある程度進んで、自分の持つ力を知ってからずっと、フギンはあることを恐れていたように思う。

 すなわち、自分の持つ記憶や能力が他人のもので、何一つ自分のものと呼べるものはないんじゃないかということだ。

 これは旅の最後までついて回った。

 彼は自分自身を探していたけれど、自分自身の存在にも懐疑的だった。

 あきらめていたと言ってもいい。

 マテルは……。

 シャグランの記憶を追いかけて、その考えが正しいものだったということを知ってしまった。

 フギンが持つ錬金術と精霊魔術の力は、今思うとフェイリュアとシャグランが持っていた力だったのだ。彼が錬金術や新しい道具にわくわくしていたのも、フギンではなく彼の内にある魂がそう働きかけていたからに過ぎないのだ。


 フギンには固有の魂と呼べるものはないのではないか?


 それはぞっとするような考えだった。

 これが絶望でなくて何なのだろう。

 それでもマテルにはフギンを諦めることはできなかったし、そんな考えはかけらも浮かばなかった。

 シャグランの人生を一通り見終わった後でも、あの日、二人で旅に出たのは間違いないと、大声で叫んでも恥ずかしくはないと言い切ることができた。


 なぜなら……。


 マテルには、はじめからフギンの魂がどこにあるのかわかっていたからだ。


 マテルはある魂の、記憶の海へと飛び込んだ。



 それは、自分自身の記憶だ。





 目覚めると、そこはどこか黄色くぼやけた色彩の部屋だった。

 天井は高く、絨毯は足の裏を優しく包み込む。太い柱や梁の装飾は重厚で、控えている使用人がまるで置物のようだ。どこもかしこも時間が止まったかのようだ。

 マテルは溜息を吐息に隠し、詩の最後の一節を諳んじた。

 広々とした豪華な客間には絹織物に身を包んだ貴族の夫人たちが若い写本師を品定めしている。手にした羽扇は、かなり遠慮のない下世話な言葉をくすくす笑いとひそひそ声に変えてくれる。

 団扇にしろ手袋にしろ、彼女たちが帝都から取り寄せた高級品を揃って持ち寄ってくれるのはマテルにとっては慰めになった。金細工師のかなり腕のいい仕事に集中していれば、立ち込める香水のきつい臭いによる吐き気を堪えられるからだ。

 朗読が終わると、ひとりの夫人がマテルをそばに呼び寄せた。


「素晴らしい朗読でしたわ」

「ありがとう存じます。マダム。新進気鋭の詩人の作ですよ」


 読書会の主催者であり、この屋敷の女主人である。

 彼の夫はいま、工房の主であるマテルの父親と商談中だろう。

 父親の後について客先を回るようになってすぐ、マテルはこうした読書会に呼ばれるようになった。最初は父親と二人だったが、やがてマテル一人になった。


「そうね……。あなたの工房に注文してもいいわ」

「良いお考えだと思います」


 染みの目立つ太い指が膝の上に乗せた手の甲を思わせぶりになぞっていくのを、咄嗟に跳ねのけないでいるのに苦労した。


「表紙を紅玉ルビーで飾るのはどうかしら。でもそうする前に、もう一度、さっきの詩をもう一度読んでほしいの。ほんとうに価値がある詩人かどうか……静かなところで確かめなくちゃ、そうでしょ。二人きりで……」


 マテルは拒むことなく、微笑み続ける。ほかの夫人方は次の朗読に耳を澄ますふりをしながらくすくす笑いを続けている。


 これはフギンに出会う前の記憶だ。


 正直に言うと、工房の経営はずいぶん前からかなり厳しかった。活版印刷ができたからといってすぐに仕事が奪われるとはマテルも思ってはいなかったが、しかし、思わぬ形で影響が出た。

 これまで人の力でやっていたことが機械でもできると知った客たちが、本の値を値切りはじめたのだ。写本そのものには大した価値がない、と判断されたのだろう。

 単価を上げるために金箔や宝石を貼り付けた豪華な装丁にしたり、それなりの対策はしたのだが、そもそもザフィリには高価な写本を求める層が薄い。

 かといって他の街には他のギルドや工房があり、縄張りを荒らすのはルール違反だ。ルールを破れば、それ相応の負債を負う。

 狭い街で、それもすでに斜陽になってしまった職で、たくさんの職人を食わせていくというのは、並大抵のことではない。

 昼間は休憩を取る間もなく仕事を詰め込み、合間に貴族の機嫌を取りに行き、ただの職人としてなら舐めなくてもよかった辛酸を舐め……気がつけば、職人としての腕を磨くだとかそういうことよりも、余計な雑事を捌くことが日々の仕事になっていた。しかも、それが毎日のように続くのだ。

 工房の次の主として、責任を果たしていると思う。


 しかし、ありていに言えば、それは《退屈》だった。

 

 退屈が、ありとあらゆる形になって、それが毎日続いていく。

 祖父から聞かされていた冒険とはまるで正反対の日々だった。

 マテルは退屈を噛みしめるとき、オリヴェ・ヴィールテスが語る知らない街の風景、果てのない砂漠、ほんとうに果てが見当たらない海の広大さ、竜の強大さ……。そんなものを思い出していた。冒険の鮮やかさに比して、ザフィリの日常はあまりにも彩度を欠いていて、いつしか、マテルは故郷の街を嫌うようになっていた。誰にも話しはしなかったが、そうだった。

 やがて、虚しい仕事をごまかすために酒の力に頼るようになるまで大した時間はかからなかった。

 フギンに出会ったのはそんな時だった。

 正体をなくすまで飲んだ夜は、人気のない路地で吐いていると、不埒な者が近づいてくる。財布や金目のものをすられるのはしょっちゅうだったが、それすらどうでもいいと思えた。

 そんなふうに、フギンと出会ったのは、マテルがいちばん荒れていたときだった。フギンはどんなときでもマテルのことを聖人のように扱ったが、自分がそれほど正しくもなく、善人でもないことを誰より知っていたのは自分自身だった。

 その日も悪酔いに苦しむマテルを助けるふりをして、懐に誰かが手を入れた。


「おい、あんた。今盗んだものを返してやれ。冒険者だろ、ギルドで見かけたぞ。おまえが落ちぶれるのは勝手だが、しろうとの町民に手を出すな」


 声をかけたのは、路地裏で寝ていた浮浪者だ。ほんとうは違うのだが、石畳に筵を引いて寝ていて、服装も汚らしく、どうもみても浮浪者にしか見えなかった。

 それに勇ましく声をかけたにしては、逆上して剣を抜いた相手に驚いているようだった。マテルが咄嗟に懐に飛び込んで男を引き倒していなかったら、たぶん、斬られていただろう。

 もみ合いになって、決着がどうついたのかもわからぬまま、這う這うの体で逃げ出して、気がついたら下水のにおいが漂う川べりで空を見上げていた。


「ん」


 浮浪者はそれだけ言って、器に、妙なドロドロとしたものを注いで、地面に腰を下ろしたマテルに差し出す。

 それが、フギンだった。


「何だいこれ……そこのドブ川の水?」

「酔い覚ましだ。帰るところがあるんだろう」

「ないよ、そんなもの……」


 投げやりに言うマテルに、フギンは少し怒ったような顔つきになる。

 それから、手を伸ばして、グローブをはめた指先でマテルのシャツの襟に触れた。


「あんた、しばらく前から安酒を飲み歩いてるだろ? でも、シャツの襟に皺が寄ってたことはない。ザフィリの若い男が洗濯してるところなんて一度たりともお目にかかったことがないぜ。誰かが帰りを待ってる証拠だ」


 何も知らないくせに。マテルは湧き上がった怒りのままに、器を奪ってフギンの顔面にその中身をぶちまけた。

 それから、なんだか今思えば仕様のない、くだらないことを喚いた気がする。どれだけこの街がくだらないか、貴族たちの偉ぶった眼差しが屈辱的か、それから……思い出すだに恥ずかしいようなことを全部吐き出して、フギンは怒るでもなく、顔にかかった液体を払い落とし、酔っ払いのたわごとをただ聞いていた。


「言いたいことはそれで全部か?」


 言葉が続かなくなると、フギンは静かに訊ねた。

 それから最低に惨めな気分に浸っているマテルの腕を掴んで、非力なりに引き起こした。

 殴られてもおかしくなかった。世間はフギンに同情しただろう。でも、フギンはそうしなかった。マテルを引きずって歩き始めた。


「どこへ行くの?」


 フギンは答えなかった。

 薄暗い街の、長年住んでいても知らないような区画へと入っていく。

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