第199話 一縷
マテルは足をもつれさせ、倒れそうになった。
深くシャグランと繋がってしまい、悲しみや怒りといった負の感情に飲まれそうになったのだ。
涙を拭い、必死にシャグランのことを遠ざけようとした。
今しなければいけないことに集中するのだ。
「おかしい、シャグランがこのときに死んだのだとしたら、フギンはいったいどこで生まれたんだ? それにあの鴉の名前が、フギンって……!?」
「少なくともあの鳥が女神から下されたものだということは確かだと思う。そういうものがグリシナ王家に伝わってたって、聞いたことあるよ。何しろ天秤ってぼくのことだし~」
マテルを先導して走っていたアラリドは、もはや人の姿を失い小さな光になっていた。アマレナの妨害を受け、そしてすべての力をマテルのために使っているせいで人間の姿を保てなくなり、魂本来の姿に戻りつつあるのだ。
「見て、マテル。続きがあるよ!」
マテルは星の光に手を伸ばす。
森の光景が再び見えてくる。
そこにあるのはもう二度と見たくないと思っていた悲惨な風景だ。
血まみれの森にひとり横たわっていたシャグランは、うめき声を上げて身を起こそうともがいていた。
もしも女神が本当にいるのだとしたら……。
今すぐその傍らに現れて、もう休みなさいと言ったのではないか。
そこにあるのは、そんなふうに神の存在を疑ってしまうほどに、それほどまでに悲痛な光景だった。
彼は獣のように唸り、下腹部に大きく開いた傷口から内臓を零しながら、地面を這いずって行く。何もかもを失った男の瞳は憎しみに歪んでいた。もはや怒りと憎悪だけが、シャグランに残された唯一のもの。残り少ない命を支える最後の気力なのだ。
シャグランは地面を這っていき、踏みつぶされた鳥かごに覆いかぶさった。
「滅びよ…………!!」
そして、自分と同じく、今にも息絶えようとしている鴉を抱え上げる。
「滅びよ、生きとし生けるすべての者どもよ諸共に、ベテル帝と共に墜ちるがいい……!!」
呪いの言葉を吐きながら取り出されたのは、一握りの青い石だった。
賢者の石だ。いつか、エスカが彼に渡したものだ。
シャグランは最後の力を使って鴉の腹を切り裂き、その体内に賢者の石を押し込んだ。それが彼の本当の最後だった。シャグランの自我は意識とともに消えていく。命が流れ出し、もう二度と肉体に戻ることはない。
それですべてが終わるはずだった。
命が途切れ、悲しいことや苦しいことは地上から永遠に取り払われる。
だが、そうはならなかった。
シャグランが鴉に飲み込ませた賢者の石は、シャグランの死に感応し、一時、その働きを失う。
けれども賢者の石は永遠の石だ。見かけは活動することなく沈黙しても、わずかな時間でその力を取り戻す。
そしてその過程で思わぬことが起きたのだ。
もとより女神がグリシナ王家に授けた鴉には、魔物と同じく《命》と呼べるものはない。人の感知し得ない未知の力によって生かされているだけだ。肉体が損なわれれば死者の檻としての機能が壊れて失われるのみだ。
しかし賢者の石がそこにあることで、その運命がわずかに書き換えられた。
鴉に埋め込まれた賢者の石はその体に根を張って、取り戻した力を鴉に与えはじめたのだ。
そうして引き起こされた現象は、まさしく《進化》だった。
そのようすを見守っていたマテルは驚きに目を見開いた。
鴉の体が瞬く間に変容していく。
鳥としての輪郭を失い、粘土のように溶け、そして再び形が練られていく。
翼やクチバシは抜け落ち、つるりとした肌が全身を覆った。脚のかわりに長い手足が伸び、黒々としていた瞳に白目が生まれる。そして羽毛のかわりに鈍い緑色の体毛が生えた。
女神が与えた一羽の鴉は生まれ変わった。
そこにいたのはひとりの人間だ。
それもシャグランに瓜二つの人間だった。
「まさか……、シャグランは変異体のことを知っていたの?」
マテルは驚愕に目を見開いている。
それは、しばらく視線をさ迷わせていたが、そばに落ちていた自分そっくりの、シャグランの死体を見つけ、無造作にそれに触れた。
「今、あれはシャグランの魂を吸い取ったよ!」
アラリドが言う。
「あれは《魔鳥》なんだ。女神が与えた魂を運ぶ能力は残されたまま、シャグランとしての形を得、その魂を回収したんだ……!」
その瞬間、どこか意志の見当たらなかった瞳に力が宿る。
急速に世界を認識したかのように、立ち上がり、遺体から衣服をはぎ取り、歩きはじめた。
アラリドはそれから、この鴉から生まれ、シャグランそっくりに変化した《魔鳥》の記憶を足早に辿っていく。
魔鳥は、あたかも帝国に怨嗟の言葉を吐いて死んだシャグランそのものかのように行動した。いや、それはシャグランそのものだった。
シャグランは砦のあった山岳地帯を脱出し、逃げ伸びた先で仲間を集めた。アーカンシエルのそばを根城にし、虐げられていた獣人たちを引き入れたのだ。
彼らは帝国のあちこちに潜伏し、同胞や帝国に連れ去られた人々を救うために攻撃を繰り返した。これが後の《グリシナ解放戦線》である。
「どうして、あれは人の姿をしていても魔鳥なのに」
マテルの問いに、アラリドが答える。
「シャグランの体を真似し、そのものに成り代わって、おまけに魂まで取り込んだのだからね。シャグランの自我があまりにも強すぎるんだ」
そして新しい体を得て、新しい能力を身に着けたシャグランは帝都に舞い戻り、アマレナと連れ去られたフェイリュアの行方を探し始めた。
けれどサン・グレでの戦いを制し、異分子を排除することに成功したベテル帝の勢いは強まることはあっても、弱まることはなかった。
連日のように仲間が殺されていった。ベテル帝が説く女神の教えに従わなかったとして、老若男女がさらわれていく。
彼らが辿る運命はみな同じだ。
離宮の地下深くに捕らえられ、凄惨な拷問を受けて、最後は焼け爛れた遺体になって地下水道に流された。
いつしか遺体が流れ着く橋の下は、連れ去られた身内を探す家族で溢れ返っていた。そしてその中にはシャグランの姿がいつも紛れていた。
フェイリュアをアマレナの手から取り戻す計画はいっこうに上手くいくことはなかった。ヴェレ卿の反抗が失敗に終わり、人々が怖気づいたせいだ。砦で起きたことは歴史の表側からはすっかり取り去られてしまい、騎士の血を引く者すらシャグランの言葉に耳を貸すことはなくなった。シャグランは彼らから距離を置いた。
もはや帝都に味方はなく時間ばかりが過ぎていく。
彼は水辺に流れ着く遺体のすべてに触れて歩いた。
各地の処刑場を歩き回り、同じようにした。
何故なのか、マテルにはわかる。
彼は魂を回収しているのだ。
鴉の力を使って、魂をひとつずつ取り込んで、その記憶を読み取って、正体を確かめているのだ。
そしてとうとう《その日》がやって来る。
筵に包まれ、黒く焼かれて小さく丸まった遺体が水辺に流れ着き、シャグランはそれに触れた。
その瞬間、鈍色をした瞳に涙が……。
とっくに枯れ果てたと思っていたそれが浮かんだ。
命を失って、美しいものすべてを奪われた遺体がシャグランに語りかけてくる。
誓ってください、シャグラン。
約束して……。
過去の幻が、その切なる声に答えた。
君のためなら……。
君のためなら、何だってできる。
すべての女神の秘密を解き明かせるだろう。
海を割ってみせよう。
夜空の星を盗んで、金剛石の指輪に変えてしまおう。
すべて望みどおりに。
何もかも、君の思い通りに。
ありがとう、シャグラン。
ありがとう……。
私はあなたの妻です。
あなたは私の……。
君は私の……。
シャグランの瞳から涙がこぼれて止まらない。
そして涙が枯れ果てたとき、彼はからっぽだった。
感情や、全ての力が抜け落ちて、心の中はすっかり錆びついてしまっている。
これまで手にしてきた全ての魂が、彼ら彼女らが辿った死の運命が、シャグランを責め、苛んでいた。その魂に加えられた数々の暴力や、そして焼け死ぬ最後の瞬間の叫びのひとつひとつの記憶が、回収した魂と一緒に彼の中に降り積もって、その負荷は人の心には耐えられないものになっていた。
それでもかろうじて堪えていられたのは、ただフェイリュアへの愛しさからだった。
フェイリュアの死を目の当たりにしたシャグランはこれまでの何もかもを手放し、忘れることを選んだ。
憎しみも、恨みも。かすかに抱いていた再会の望みも。
死してなお、グリシナの魔鳥の体を借りてフェイリュアを求めた魔術師は全てに背を向けて眠りについた。
こうして生まれたのが《フギン》だった。
シャグランが去り、残されたフギンはそれまでの記憶を失っていた。
思い出そうとしても、そこにあるのは連綿と続く惨い死の記憶だけだっただろう。
ほとんど廃人と化していた当時のフギンをみつけ、匿ったのがミットライトの血筋である。
騎士たちの物語は微かではあるが続いていた。
フェイリュアは亡くなったが、最後の王配であるシャグランの魂と肉体は《フギン》として残ったのだから。
「そのせいで、ミダイヤはフギンから離れられなかったんだ……」
シャグランがフギンになった正確な経緯を知っていたかはわからない。
しかし砦で結婚式が行われたために、騎士の鎧を加護する精霊はシャグランを正当なグリシナの王として認めてしまった。だからフギンを守ろうとするとき、マテルの鎧は軽くなったのだ。
おまけにフギンの中にはシャグランが集めて回った、帝国に虐げられて殺されたグリシナの民の魂までもがある。
ミダイヤの一族は記憶を失って、死者の国への行き方もわからなくなり、さ迷うフギンに煮え切らない思いを抱えながらも、彼を守り続けるしかなかった。
「夜魔術の儀式をしたときに、ぼくは彼の記憶を取り戻す手伝いをした。してしまった。そのせいでシャグランの意識がもどり、鴉を支配して暴走させているのがいまの状況だと思う。でも、困ったね。フギンの正体がグリシナに伝わる《鴉》なら、フギンの魂は存在しない」
「そんな、じゃあ、フギンは取り戻せないっていうんですか?」
「そう……。そういうことになる」
「シャグランをもう一度眠らせることはできないんですか!?」
「そうしたいところだけど、アマレナが許さない。あいつが儀式のときに蝶の短剣を投げ込んだだろう? あれが妙な感じに働いて、シャグランの怒りを増幅させて縫い留めてしまってるんだ」
「けど、アマレナはフギンを狙っているはずで……。魔鳥を殺すのが目的だったはずだ。いったい何がしたいんだ」
「アマレナははからずもグリシナの王位継承者となってしまったシャグランの魂も、フギンとセットで消し去りたいんだと思うけど。あるいは、どちらでもいいのかも」
アラリドは言った。
「帝国を憎み、そのために魔鳥を暴走させて全てを巻き込んだシャグランと同じ。フギンがこの地上から消えるか、この地上すべての魂が消え去るか、そのどちらでもいい、どちらであっても彼の目的は達成されるのかもしれない」
そう言ってからごめんね、と付け足す。
「フギンに会わせてあげられなくて……。ぼくは違う方法でメルを救うことにするよ」
「待って!」
それでも……。
すべてを知ったあとでも、マテルには、マテルがフギンと呼んでいたのが、シャグランが去ったあとの人とは呼べない何かの意識だったのだとは思えない。
ヴィルヘルミナが、フギンはシャグランではない、と言ったのは正しかった。
フギンはシャグランではない。
「フギンの魂は存在してる……! 僕はそれを証明できる!! 絶対に彼を見つけられる!」
アラリドは瞬きながら、その叫びを聞いていた。
「信じたい気持ちはわかるよ。でも……」
言葉の続きが不意に途切れる。
「アマレナが来る……」
そういった瞬間、夜魔術師の気配は完全に失われた。
マテルを導いていた星のあかりがなくなり、視界が闇に塗り替えられる。
アラリドと共にいたときは強く輝いていた星々の姿も見えなくなる。
アマレナが何をしたのかもわからず、マテルは何もできずにただ闇に飲まれるだけだ。
闇に押しつぶされて、もう、どこに行けばいいのかもわからない。
こんなところでは終われない。
こんなところでは……。
無我夢中で伸ばした手を、誰かが掴んだ。
それはしっかりとした、少し荒れた掌だった。
若い男性だと思う。
「こっちだ、マテル」
全く知らない声だった。
穏やかで優しい。
彼は暗闇に沈みかけていたマテルのことを引き出してくれた。
「君の声が聞こえたんだ。君に賛成だよ。フギンの魂が存在しないなんて、そんなバカみたいな話はないさ」
「あなたはいったい……?」
「ひどいな、最初から君たちと一緒にいたのに……俺は、ヴィルヘルミナよりも先に君たちの仲間になったんだぞ」
男は笑っているようだった。
「さあ、フギンを探しに帰ろう。あそこなら、夜魔術師のお嬢ちゃんよりも俺のほうが詳しい。何しろ、俺たちの街なんだから……」
マテルは手を引かれるまま、歩いて行く。
かすかではあるが、星の煌めきが戻ってくる。
そして前を行く剣士の姿をうつし出した。
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