第198話 ペダルダの丘にて ‐2



 砦には誰もしらない地下室があった。

 フェイリュアは小部屋に入っていく。


「明かりを取ってくるよ」


 踵を返そうとしたシャグランの袖を引いて止める。


「私たちには必要ないものです」


 そこには二つの鳥かごが置かれている。

 止まり木には、それぞれ、美しい鴉が羽を休めていた。

 フェイリュアが言う通りだった。たしかに明かりは必要ない。暗闇の中であっても二羽のからすたちは、それぞれが輝いて見える。

 その輝きは特別に選ばれた者の目にしかうつらないものだ。

 シャグランは子供のころから、その輝きを目にしてきた。それは光の粒であり、波であり、数式であり、歌のようでもあった。それを言葉にすることはできない。確かに存在しているが、言葉にはならないものだからだ。

 光女神がシャグランに与えた祝福であり、そのせいで疑われ、恐れられ、苦しみもした。

 しかし今目の前にあるものが、彼が日頃から親しんでいる精霊たちと根本から何かが異なる存在だというのは明白だ。

 シャグランは二羽のからすに近づき、触れようとして立ち尽くす。

 そうさせたのは《恐れ》だった。畏怖の感情が、彼をその場に縫い留めて離さない。慣れ親しんできた精霊たちにこのような感情を抱いたことはない。


「王家に伝わる神与のものです」


 昔々、と彼女は物語を語りはじめる。

 遠い昔に、女神はイストワルに天秤を与えた。天秤の役目は人の魂を正しく秤にかけ、死者の国へと導くこと。遠く離れたグリシナの王は、自らの治める王国にも同じものが与えられるよう女神に祈ったが、祈りはとうとう叶わなかった。

 民の魂がさ迷うことを嘆き悲しんだ王を見かねて、女神は二羽の鴉を遣わした。鴉のうち一羽は死者の魂をくちばしに啄み、もう一羽が死者の国へと連れていく。


「精霊術師であるあなたなら、この意味がわかるはずです」

「《魂の証明》か…………!」


 魂を完璧に肉体と切り離すことができるとしたら、この鴉は《魂の定義》を知っているということになる。

 この大陸の魔術師すべてが、何世代に渡って挑み続け、常に不可能を突きつけられてきた難題だった。

 それと同時に、何故、魔術師ではないフェイリュアが転移術を完璧に成功させたのか、その謎があまりにも簡単に解けていく。


「転移術が成功したのは、私の魂だけをこの鴉に運ばせたからです」


 人に叶えられない願いであったとしても、光女神の力ならば……。

 そしてそれは、この絶望的な状況に置かれた砦に秘められた一縷の望みでもあった。


「この鴉をあなたに与えます。ですから、約束してください。私をあなたの妻にすると、私と運命を共にすると言ってください」

「もちろんだ、答えは決まっている。フェイリュア……。私は君の夫だ」


 この鴉の力さえあれば、どんなことだってできるだろうと思えた。

 シャグランはフェイリュアを抱きしめる。奇跡の光に照らされて、フェイリュアはどんな夜よりも、王都の宴のときよりも輝いてみえた。

 今や、シャグランは無敵だった。

 このか細い体をどこへでも運んでいける方法を手に入れたのだ。帝国の手の届かないところへ、どこへでも。


「私の望みを叶えると言ってください」

「叶えるとも。どんな願いでも叶えてみせる」

「シャグラン……グリシナの法典に従えば、私がもしも死んだとしたら、次のグリシナの王はあなたです」

「君が死ぬことはない」

「もしもの話です。私との結婚はそれくらい重たいものなのです。グリシナの王としてあなたには民を守る責任があるということです。誓ってください」

「もちろん、誓う。私は君の夫だ。ほかに何を誓えばいい? すべての女神の秘密を解き明かすと? 海を割ってみせようか、それともこの夜空から星を奪って、金剛石の指輪に変えて君にあげようか」

 

 フェイリュアははにかむように笑っていた。

 彼女の笑顔を見るのは久しぶりだ。


「何もいりません。ただ……この砦から、子どもたちを助け出してくれさえすれば……」


 その瞬間、胃の腑の底に、黒い塊が落ちていくのを感じた。シャグランは、これまで感じていた万能感が急速に衰えて、女神の奇跡が遠ざかっていくのを感じた。あれほど感動した伝説の鴉の存在も、陳腐なまがいもののように思える。


「あなたが、文字や言葉を教えた子供たちですよ」


 サン・グレで、シャグランは田畑を耕すかわりに子供たちの教育係をしていた。才能のある者には魔術の基礎を学ばせもした。

 虚しい仕事だった。ほとんどの子どもたちはサン・グレで死んだ。魔術を覚えた年長の子どもらは戦場に駆り出されて、生き残ったとしても、見せしめとして灰になってしまっただろう……。シャグランにとって確かなものは腕の中にいるひとりの女性しかないのだ。

 それでも絞りだすような声音で「誓う」と言った。

 フェイリュアは泣いていた。サン・グレにいたときも、砦に来てからも、一度もこぼさなかった涙だ。その涙をどうしていいかわからず、シャグランは息を殺し、ずっとフェイリュアの体を抱きすくめていた。


「ありがとう……。シャグラン、貴方を連れてきたことをずっと後悔していました。あなたには別の未来があったはずなのに」

「そんなものは、どこにもない」


 あのまま宮廷魔術師として帝都に残っていたとしても、シャグランに未来はなかっただろう。先祖返りだとして処刑されていたかもしれない。それとも、戦争に駆り出されていただろうか。

 砦の前の岸辺で焼かれていたか、それとも、焼くほうに回っていたか。


「何の希望もなかった私に、君は未来をくれたんだ」


 滅んだ王国のことも、砦の子どもたちのことも、馬鹿馬鹿しいとしか思えない。しかしそのことを口にすることはできなかった。

 どうしても鴉の力が必要だった。フェイリュアを助けるために。


「君の大事にしているものを、すべて守ると誓う」

「これより先、私はあなたの妻です。貴方は私の夫。未来のグリシナの主です」


 シャグランは時計を受け取った。

 そして差し出された菫の指輪を、子どもたちが編んだそれを、彼女の指にはめる。ただそれだけのことが、指が震えてうまくいかない。

 そのうちに、なんだかおかしくなって笑いはじめた。

 それと同時に、涙がこぼれて止まらない。

 二人は埃にまみれた地下の小さな部屋で、二人にしか見えない輝きを見つめ、寄り添っていた。





 戦いが迫っていた。

 おそらく最後の戦いだ。

 転移術を用い、子どもたちとフェイリュアを助け出すと提案したとき、ミットライトは無言であった。彼は砦の運命がどのようになるか、一切の楽天的思考を持ちあわせていなかったに違いない。

 老兵はシャグランをまっすぐに見据えたあと、しかし、にこやかに微笑んでみせた。


「それが女王陛下のご命令であれば、我らに異論を差しはさむ余地などありますまい。王配殿下の望むようになさいませ」


 計画は単純なものだ。まずは砦の正面から騎士たちが打って出る。敵を引きつけて攪乱している間に、砦から外に出られる秘密の道を通って、シャグランが脱出する。リスペットとタスモン、そして周辺の地理に慣れているスイエラが同行し、安全な場所に辿り着いたら、フェイリュアと子供たちを転移させるのだ。

 まるで絵物語のような計画だが、備蓄はなく、戦える者もほとんど残っていないシャグランたちが取れる手段は限られていた。

 もちろん、騎士たちが生き延びられる可能性は、一切ない。

 死を覚悟した突撃になる。


「このような命令をせねばならない愚かな私をどうか責めてください」

「いいえ、フェイリュア姫。我ら皆、覚悟の上で集まったのです。どうか、王配殿下とお幸せに。市井にはまだ、我らの仲間が……。砦に参上することはできませんでしたが、ヴィールテスが必ずやお二人の助けになってくれるでしょう」

「グリシナをお守りください、陛下」


 跪き、フェイリュアの掌に口づけする騎士たちの姿に涙しているのは、見守っている者たちばかりで、騎士たちの表情に曇りはなかった。ミットライトと同じく、砦に集まったときから死を覚悟していたのだろう。

 決行は三日後と決まっていた。その間も岸辺には炎と煙が上がった。フェイリュアは信心深い者たちがこの世を去っていく間、ずっと祈りを捧げていた。

 シャグランが思うに、光女神が祈りに応えることは無いように思えた。

 彼は女神によって精霊を見る力を授けられたが、女神の存在には懐疑的だった。

 砦には祈りが満ちていた。わずかな食糧を分け合うとき、眠る時、子どもたちが何かおもしろいことを言ったとき、ささやかな日々の合間に、人々は祈りを捧げていた。しかし光女神が恩寵をもたらすことはただの一度もなかった。

 暮らしに必要な水をもたらすのはシャグランの役目で、火を起こすのにはフェイリュアの錬金術が必要だった。神が必要だと思ったことのないシャグランが祈ったことは一度もない。

 決行を翌日に控えたその日、先に動いたのは帝国の軍だった。

 渡河のために橋をかけるのをやめ、浅瀬を渡って砦に向かってきたのだ。

 最早、一刻の猶予もない。

 ミットライトは帝国兵の足を止めるため、若騎士たちを率いて砦を出て行った。


「陛下。お然らばです」


 寄り添うフェイリュアとシャグランのことを、何か眩しいものを見る目で見つめていた。別れの挨拶はただそれきりだった。

 それから大急ぎで子供たちを集め、砦を脱出することになった。もちろん、全員は連れて行けない。健康で走れる体力のある者、ある程度の年齢の者を選別する。幼い者は大人たちと砦に残るしかない。

 結婚式ごっこで冠を持ってきてくれたロイヴィとフリエ、年長のトールカとキトラ。どちらも男の子で、キトラにはシャグランが魔術を教えていた。準備を整えていると、ウィカという、ロイヴィよりひとつ年上の女の子が泣きながらやってきて、フェイリュアに金の指輪を差し出した。大きなエメラルドがはまった豪華なものだ。


「ヴェレ卿が亡くなりました」


 ウィカはそう言って涙をこぼした。負傷し、高熱のせいで視力を失ったヴェレ卿の身の回りの世話をしていたのがウィカだった。卿は彼女の献身的な世話で少し落ち着きを取り戻していたが、戦いを悟り、運命を決めたのだろう。

 フェイリュアは金の指輪に鎖を通し、ウィカの首にかけてやった。

 彼女も連れて行くことになった。

 めいめい、大人たちや、砦の者との別れを悲しんでいた。ロイヴィは腕に赤子を抱えていた。ミットライトが養子にすると言っていたあの子だった。


「ロイヴィ、赤ん坊は連れていけないのよ」


 フェイリュアが申し訳なさそうにそう言うと、娘は涙ぐんで、赤ん坊を離そうとしない。


「いいえ、この子はわたしが連れて行きます。フェイリュアさま、お許しください。連れていけないのなら、わたしもここに残ります」


 説得している時間はなかった。眠りの魔術をかけて連れて行くことにした。

 食糧庫の地下から持ち出した鳥かごのひとつをフェイリュアが、そしてシャグランが抱えた。鳥かごの中の鴉たちは、昼間の明かりに魔力を失ったかのように、ごくあたりまえの生き物のように思える。


「フギンとムニンです」


 籠を渡しながら、フェイリュアが微笑んだ。


「私がつけたの。この子たちの名前ですよ。あなたが持っているほうがフギンです」


 先頭をスイエラが、そして子供たちとシャグラン、フェイリュア、一番最後をリスペットとタスモン兄弟が守りながら、狭い道を進む。

 道は砦の裏手に出た。見晴らしのいい砦を抜けて、一刻でもはやく森の中に逃げ込まなければならない。

 しかし山岳地帯で、子どもの足には厳しい。リスペットとタスモンがロイヴィとフリエ、そして赤ん坊を背負って走る。

 白金渓谷に続く暗い森が間近になった。崖を駆け降りれば、姿を隠せる。

 そのとき、異変が起きた。

 一番うしろを走っていたリスペットがうめき声を上げて地面にもんどり打ったのだ。その背中には鈍色の金属が深く刺さり、胸から突き出ている。

 その向こうには、緋色のマントの男たちがいた。ローブで顔を隠しているが、魔術師だ。空中に細長い刃を風の魔術で浮かせている。


「なぜ、ここに帝国の魔術師が……!?」

「お逃げ下さい、フェイリュア姫! 子供たちを連れて!!」


 タスモンが斧を構え、男たちに向かっていく。フェイリュアはロイヴィを助け起こすと、シャグランの方へ押しやった。


「シャグラン……子供たちと先に行って。私はここで足止めします。私がグリシナの姫だと知ったら、彼らは命までは取りません」

「フェイリュア……!」

「心配しないで。フギンと貴方がいれば転移術が使えます」

「君を置いてなど行けない。行けるものか!」

「シャグラン、私の夫。誓いを守ってくださいますね」


 そのときシャグランはフェイリュアではなく、ロイヴィの手を握った。

 何故なのか彼自身にも理解できなかった。彼にとって価値があるのはフェイリュアだけだったはずなのに。彼女を救うためにサン・グレや砦に同行し、彼女の幸せだけを願っていたはずなのに。

 シャグランはロイヴィの手を引いて走った。

 フェイリュアの背中がどんどん遠くなっていく。

 潜んでいた兵が姿を現し、矢や魔法が射かけられ、森に辿り着いたときには、子どもたちはロイヴィとキトラだけになっていた。スイエラの姿はなく、トールカやウィカがどうなったかもわからない。

 何故、こんなことになったのか。

 砦の抜け道は、ヴェレ卿から教わったものだ。もしかしたら敵に捕まった奥方が漏らしたのかもしれないが、粛々と死を受け入れ、嘆くこともなく焼かれて行った最期からは、とてもそんな様子はうかがえなかった。


「シャグランさま、シャグランさまは僕が守ります」


 キトラは砦の人たちから持たされた槍を手にして震えていた。

 見え透いた強がりでも、そう思っていなければ恐怖で立っていられないのだろう。ロイヴィは双子の片割れ、フリエの名を呼び、泣いている。


「スイエラを探そう。走れるな、二人とも」


 シャグランは言った。何故、フェイリュアの手を離してしまったかはわからない。けれども、こうなった以上、光女神の加護とグリシナの鴉に頼るほかない。

 森のいろいろな気配に紛れて、魔術師たちが精霊を送り込んできている。

 追跡の手が止まったわけではないのだ。

 シャグランもまた精霊に命じて、姿を失ったスイエラを探しながら森を抜けていく。

 不意にキトラが倒れた。

 その胸には矢が突き立っている。矢じりには見覚えがあった。


「スイエラ……?」


 呆然とするシャグランの視界の端に、動く者がいる。それが、彼女だった。

 ロイヴィが悲鳴を上げた。

 スイエラの足元には血まみれのフリエが倒れていたからだ。

 それで、何が起きたのかが全て理解できた。スイエラは裏切り者だ。はじめから、砦の動向は帝国に筒抜けだったのだ。


「《灰の申し子たちよ、寄りて来たれ》!」


 シャグランは深く怒っていた。

 ただ一言で精霊たちが導かれ、スイエラが構えた弓が燃え上がった。

 炎は燃え広がり、スイエラ自身をも燃やしていく。ロイヴィが恐怖に泣き叫んでいるのも、シャグランには聞こえなかった。この世のすべてがシャグランからフェイリュアを奪った。フェイリュアが愛した人々も、人のようには思えない。皆が理性なき獣で、幸福や良心をおかす怪物のように思える。

 しかし、彼はたった一言で我にかえった。


「シャグラン!」


 そう呼ぶ者がいたのだ。シャグランは振り返る。

 そこに緋色のマントをまとった魔術師が立っていた。

 魔術師はフードをかぶっていなかった。その精悍な顔つきを、シャグランは知っていた。


 大人になれ。利口になるんだ。


 いつか、シャグランに声をかけたその声。何一つ変わっていない。


「エスカ…………」


 エスカは苦しんでいた。そういう表情をしていた。

 お互いに宮廷魔術師だった頃には見たこともない顔だ。

 いつもエスカはどんな逆風が吹いたとしても、うまくやっていくのだと言わんばかりの自信に満ちた姿だった。

 それなのに、いまはその面影はない。

 それでも、そこに立っているのはただひとりの親友なのだった。


 あの絶望が支配する岸辺で、罪なき人々を焼いていたのも彼なのか。


 むろん、あのマントを身に着けている以上、無関係であるはずがない。

 何故なのかと問いかけたかったが、シャグランも答えを求めていたわけではない。

 シャグランが砦で苦しんでいたとき、彼にも同じ苦しみがあったのだ。


 エスカの懐かしい眼差しを前にしたとき、シャグランには全てが理解できた。


 何故この自分が、フェイリュアだけに価値があると信じていたシャグランが、最愛の人と別れてここに立ち尽くしているのか。

 何故、彼女に子供たちを助けると約束してしまったのか。


 何故…………。

 それは何故なのか……。


 ずっとひとりで生きているのだと思っていたシャグランは、ひとりではなかった。

 いつも彼を見つめている暖かな眼差しがあった。

 伸ばされていた優しい手があった。

 そのひとつひとつを振りほどき、切り捨てられるほどには、彼は冷酷ではなかった。大人にはなれず、利口にもなれなかった。


 エスカは風の魔術を放った。


 リスペットを仕留めた刃が勢いをつけて飛んでくる。

 シャグランはエスカが使役している精霊を一瞬で捕まえた。

 こちらに向けて吹く風は立ちどころに止み、刃はシャグランの手にあった。


 あとは簡単なことだった。ただひとこと精霊に呼び掛けて、魔術の向きを逆さまにすれば、刃はエスカの心臓を貫くだろう。


 エスカも死を覚悟していただろう。


 しかし。


 シャグランはこの追手をいつでも殺すことができたのに、そうしなかった。

 ほんの数秒の迷いが生死を分けた。

 シャグランの下腹のあたりを刃が抉った。

 森に潜んでいた兵士が襲い掛かったのだ。

 兵士たちはシャグランからロイヴィと鳥かごを奪い取った。鳥かごを踏みつけて鴉を殺し、泣き叫ぶ少女の細い首を刎ねた。

 シャグランを守ろうとしたキトラは、シャグランに覆いかぶさったまま剣で貫かれ、とどめを刺されて死んだ。

 スイエラは燃え、真っ黒い影のようになっていて、フリエは沈黙したまま……。

 みずからも瀕死のまま、死と暴力を見つめているシャグランの前に、緋色の男たちとも兵士とも違う者が立った。

 戦場にはふさわしくない長耳の少年である。

 血が滴り落ちる蝶の鍔の短剣を手に、血を吐いて横たわるシャグランを見下ろしている。

 少年は笑いながら、血がまとわりついた金の指輪をシャグランに見せつけ、真っ赤に染め上げられたシーツのを置いた。

 ぴくりとも動かない一抱えほどの小さな塊を……。


「小汚い娘がこんなものを隠していたぞ。お前に褒美を取らそう」


 少年はそう言って、金の指輪を呆然と立ち尽くすエスカに差し出した。


「ありがとうございます、アマレナ様………」


 エスカは震える声で言い、血まみれの指輪を受け取った。

 シャグランはただそれを見つめていた。

 少年が兵士と、エスカを引き連れて行ってしまうと、そこは急に静かになった。

 何も聞こえない。目が霞み、冷たい死の気配が忍び寄ってくる。


「ロイヴィ…………キトラ、フリエ…………トールカ…………ウィカ………」


 かすれた声で名前を呼んだ。

 死に瀕してなお、思い出は鮮やかに蘇る。

 ロイヴィ、サン・グレでシャグランからはじめて文字を習った。名前の書き方を教えると喜んで、なんにでも名前を書きたがった。フリエは自分の名前よりも、母親と父親の名前の書き方を知りたがった。トールカ、騎士たち、とくに騎士サリルによく懐いて、一生懸命に槍の使い方を習っていた。騎士たちが戦いに出たら、みんなを守るんだと言って。キトラには魔術の才能があった。マナ分けをせがんで、将来はシャグランの手伝いをするといばっていた。ウィカ、誰よりも優しかった。どんな怪我をした者も、病の者も、犬や猫ですら見捨てず、床に寄り添って看病をしていた。


 それなのに誰も返事がない。

 誰一人として呼びかけの声に答えてくれない。

 シャグランは守れなかったのだ。


 そして、守りたかったのだ。


 その気持ちはもはや、フェイリュアを連れ出すための方便とは呼べなかった。

 彼女はシャグランの心を知っていて、こうなるだろうと何もかもわかっていて、だからこそ、砦から子供たちを助け出してほしいと頼んだのだ。

 シャグラン自身も気がつかないでいた彼のを叶えるために。

 そんな彼女の心がただただ悲しい。

 己の無力さが憎い。

 ここで横たわっているのは、すべての女神の秘密を解き明かすことも、海を割ってみせることも、夜空から星を奪うこともできない、哀れで愚かな魔術師だ。何一つ思うままにならない、哀れで、愚かな……。


 でも、それももうじき終わる。

 悲しみも憎しみも、死者の世界には持って行くことはできない。


 神よ。


 はじめて、魔術師は光女神を呼んだ。

 風はそよぎ、木洩れ日が揺れる。

 呼び声に応じる者の気配はない。


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