第197話 ペダルダの丘にて ‐1
それからの数年。
サン・グレに移ってからの日々は、はからずもシャグランとフェイリュアにとってはこの上なく穏やかなものになった。
帝国の様々な土地から集まって来る人々は増えるばかりで減ることはない。ヴェレ卿とその息子アビムは彼らを受け入れ、手厚く匿った。
人々はサン・グレで新しい共同体を作り、暮らしを立てるために田畑を耕し、働いた。全てが信仰に支えられていた。
夏に入ってからアーカンシエルで暮らしていた《先祖がえり》や《獣人》たちもサン・グレに集まってきた。帝都から逃げ出した司祭や修道女たちが彼らに信仰を与え、共に戦う戦士となった。
帝国との戦いは三度に及んだ。その三度目が起きる前に、シャグランとフェイリュアは子供たちと少ない手勢を連れてサン・グレのうちで一番、堅牢で荒涼とした山岳地帯にある《ペダルダの丘》の砦に入った。
サン・グレはアーカンシエルよりもさらに北、帝国の端にあり、背後には白金渓谷を望む果ての土地だ。逃げる場所はどこにもない。
冬を越して春を迎えるころ、ヴェレ卿の息子アビムが戦士したという報せが入った。サン・グレの居城は陥落し、残すはペダルダの砦のみだ。
フェイリュアはヴェレ卿を救出すべく兵士を送り込んだが、その戦いで騎士のひとりを失い、重い傷を負ったヴェレ卿も余命いくばくもない。
砦に立てこもったのは槍のサリル、剣のバリエール、戦斧のマランの三人の若騎士と、あともうひとり老齢ながら騎士たちのまとめ役であるミットライトだけである。それからアーカンシエルから来たリスペットとタスモン兄弟、狩人のスイエラ。戦える者はわずかで、あとは女子供がほとんどだった。
砦は木々のない荒れた丘に建っていた。
周囲を川で囲まれた天然の要塞だが、帝国は対岸に陣地を築き、着々と攻め入る準備を整えている。それを邪魔することもペダルダの丘に残された者たちにはできないで、ただ見ているだけだ。
しかし砦には不思議と穏やかな時間が流れていた。
残り少ない食料を奪い合うこともなく、ただ寄り集まって持ち込んだ教典を開き、光女神に祈りを捧げている。
焦っているのはシャグランだけだった。
砦の運命が見えているのは彼だけではないだろう。それなのに何故、人々がこんなにも穏やかなのか……。
「シャグランさま! いっしょにあそびましょう!」
シャグランを思索から引き戻したのは幼い女の子の呼び声だった。
こんなときにも子供たちは明るく、まるで壁のむこうの帝国兵が見えないように走り回って、砦のあちこちに咲いた小さな花を摘んでいた。
シャグランを見上げているのは双子の娘だ。サン・グレで、難民の親から生まれた。両親は幼い娘をシャグランとフェイリュアに預けて戦いに赴き、どうなったかはわからない。
「ロイヴィ、フリエ、私は仕事があるから……」
「おひるねをしてらっしゃいました。それにフェイリュアさまがおよびです」
「フェイリュアが? ほんとに? うまく使われていないか、それ……」
シャグランは眉間に皺を寄せる。これまで知らなかったが、子どもたちというのは大人が思う以上に大人の顔色を読むのがうまい。だれの言うことなら聞いてくれるか、どうしたら自分の思い通りになるのかをちゃんと知っているのだ。
そうこうしていると騎士のミットライトが現れた。ミットライトは赤ん坊を抱えていた。
思わず笑いたくなるようなおかしな光景だ。好々爺に見えるが、剣を持つと恐ろしい男だということは、とっくの昔にわかっていたからだ。
「シャグラン様、フェイリュア様がお呼びです」
「本当に? 飲み水が足りなくなったとか?」
「私のことまでお疑いとは、ずいぶん気を張っておられるご様子ですな」
「そうだな、正直にいうと、あんた方が呑気の楽天家に思えるよ。騎士たちもずいぶん数が減った。そもそも呼びかけに応じず帝国領に残った者もいると聞く……」
「恨み節は口にするほうが辛うございます」
ミットライトは怒るでもなく、優しい表情で赤ん坊をあやしている。
「どのような状況でも人は楽しみや喜びを見つけることができるものです。それが光女神の慈悲というもの。ほら、魔術師殿。私はこの子を養子にすることにしましたぞ。このような老いぼれにも子が持てるとは、感慨もひとしおですなあ」
「親は……」
問いかけて、シャグランは愚かだったと口を噤んだ。
ミットライトも何も言わないでいる。シャツか、シーツの切れ端に包まれた赤ん坊は安らかな寝息を立てている。同じ状況にいるのに、なぜこのように和やかでいられるのか。
シャグランはロイヴィに手を引かれるままに木陰を抜け出し、ミットライトに背中を押されて食堂へと向かう。
何日もまともな煮炊きはおろか、食事もしていない。
薄暗い冷たさに満ちた食堂の一番奥にフェイリュアが腰かけていた。
埃の舞う光の下で子供たちにシーツをかぶせられ、スミレを二、三本集めたブーケを持たされ、どうしたらいいかわからず途方に暮れている。
そしてシャグランの姿を見つけると、困ったように言う。
「結婚式をするのですって……」
やつれた笑顔だった。頬に生気がない。
十分に食べれないからではない。彼女がこの砦に来るまでに、しなければいけなかったあらゆる決断がそうさせたのだ。
今すぐ、彼女をここから連れ出したい。
シャグランはその気持ちを押さえこむのに精いっぱいだ。
フェイリュアは砦に集う人々の希望だった。彼女自身もその役割をよく知っている。だから逃げ出せない。逃げ出そうとしても、その方法がない。
たったひとつの方法を除いては……。
「いまさら、こんな私と結婚してくれる人がいるのかしら」
「さあシャグランさま! でばんです!」
ロイヴィは表情を輝かせて、戸惑うシャグランに、フェイリュアの隣に立つように命じた。
「もしかして俺が新郎役なのか」
「まさか、この老いぼれがそうだとでもお思いになりましたか……?」
ミットライトはわざとらしく大げさに驚いてみせた。
「さあみんな、新郎新婦を二人きりにしてさしあげましょう」
新婦役のフェイリュアの足元にまとわりついている子供たちを集めると、まとめて外に連れていく。
後に残されたシャグランとフェイリュアは、お互いを見つめ合った。
長いあいだ砦にこもりきりで、おたがいに砂にまみれている。
フェイリュアは念願だったズボンを履き、シャツに袖を通し、そして腰には錬金術の道具を下げていた。賢者の石や、カードの力は、シャグランの魔法と同じくらい砦の生活に無くてはならないものだ。
「お互いにぼろぼろですね」
「ああ。だけど、君は美しい……」
長い髪は記憶にある一番最初と同じだ。
結婚するまで髪を切らずに伸ばし続けるのがグリシナの高貴な女性の習慣であると、シャグランはサン・グレに来て初めて知った。グリシナの民はフェイリュアの姿に彼女の母親と、そして祖母の姿を透かし見ている。
その眼差しがどれほどの重荷になっているかと考えるだに、シャグランの気持ちは沈んだ。
シャグランはそっと手を伸ばす。その両手は彼女の細い肩を強く掴んだ。
「逃げよう、フェイリュア」
シャグランは言った。彼は砦に来てからも何度も、他の者には聞かれないように、彼女を説得し続けていた。
「転移術の最後の秘密を教えてくれ。そうすれば君をこの大陸のどこへでも逃がせる。君を救いたいんだ」
「逃げてどこへ行くというのです、シャグラン……。どこに逃げても帝国は追って来ます。この砦に人々を置いていくのですか?」
「グリシナ王国はとうに滅んだ。君が何もかもを背負う必要はない」
答えに辿り着くことのない、堂々巡りの問いだった。
砦に来てから、シャグランがろくにフェイリュアと個人的な話をしなかったのは、彼女が転移術を使って砦を脱出することを拒み、そしてシャグランが自分の考えを曲げなかったからだ。
「この砦にあるものが私の全てです。私がここからいなくなったら、サン・グレで死んだ人々は無駄死にになってしまう」
だったら何故、こんなところに自分を連れてきたのだとシャグランは叫びたいのを必死に堪える。
「では、子供たちはどうなるのだ」
フェイリュアの表情が強張る。
「何の罪もない、無垢そのものの子供たちは……? 戦火の中で生まれて親の顔さえ覚えていない、哀れな子供たちも道連れにするのか?」
シャグランは自分のことが信じられなかった。フェイリュアのためなら、自分は恐ろしいほどに残酷で冷たい人間になれるのだと感じた。
そのとき、ミットライトが呼びに来た。
「姫様!」
結婚式のはじまりではなかった。
対岸の帝国軍に動きがあったのだ。
丘に一番近い岸辺の開けたところに縄で繋がれた人々がやって来た。
男も、女も、若者も老人も様々だ。縄を引いているのは緋色のローブを身に着けた男たちである。
砦の人々は矢が飛んでくるかもしれないとは考えもせずに、呆然とその様子を見つめていた。
繋がれ、連れてこられた者たちは、彼らの家族や親せき、そして友人であった。
ヴェレ卿の妻の姿をその列に見つけ、ミットライトは眉を顰めた。そして女たちに子供たちを連れて砦の奥へと行くよう促した。
シャグランはフェイリュアの肩を抱いていた。
「行こう……。見てはいけない」
「いいえ、私はここにいなければ」
緋色の男たちは打ち立てられた杭に人々を縛り付け、その周りに薪を積み上げた。桶に入れた油を撒いて、そして火を放った。
信じがたいのは、そうしている間、ただのひとつも悲鳴や泣き声が聞こえてこなかったことだ。捕らわれ、火に炙られている人々はすっかり自分の運命を知りつくし、もはや女神に祈るしかないと悟っているのだ。
誰もが黙りこくり、上がる黒い煙を見つめている。
焼かれていく人々は砦のほうを見上げて、両手を祈りの形に結んでいた。
その夜、フェイリュアとシャグランは結婚式を挙げた。
無用となった旗を破いて道に敷き、花道にした。花や米はないので、干し草を細かく刻んで、それを撒いた。
両側を人々が祝福する。フェイリュアはシャグランと腕を組んで花道を進む。
本当の結婚式のようだった。
誰もが涙ぐんで、花嫁がまとうシーツのヴェールに触れようとした。
騎士たちが堂々と掲げる剣の下くぐると、見届け人のミットライトが聖典を手に待っている。
ミットライトは木の椅子にフェイリュアを座らせ、その肩に、食堂の床の敷物を解いて作り直したマントをかぶせた。子供たちが名もない花と草で編んだ冠を、恭しく運んでくる。
「ご結婚おめでとうございます、フェイリュア姫」
祝福を述べるロイヴィの声は震えている。そこには純粋な、結婚というものへの少女のあこがれがある。
ミットライトは冠を受け取ると、フェイリュアの頭上に掲げる。
「おめでとうございます、フェイリュア様。伴侶を得て、これより貴方様はグリシナの女王になられます。あなたは、シャグラン殿を生涯の伴侶として、夫として認めますか?」
「認めます」
花冠が、フェイリュアの頭に飾られる。わずかな花を繋いで作られた冠だが、芦色の髪を飾るそれは不思議と堂々として見える。
「女王陛下ばんざい!」
と、誰かが声を上げた。
ミットライトはもうひとつの冠をシャグランの元に運ぶ。
「シャグラン殿、これより貴殿はグリシナの血に連なり、王配殿下となられます。隣におられる女性を、生涯を共にする妻と認めますか?」
シャグランはフェイリュアの横顔を見つめた。
いつでも、前を向いて逃げ出すことを選ばなかった。
どんなときでもシャグランの思う通りではいてくれなかった。しかし、シャグランの魂だけを見つめてくれていた。その強い眼差し……。シャグランの世界には、未だに彼女だけが鮮やかに、息をしている。
「認めます。彼女は私の妻です。どれだけ時間を巻き戻せたとしても……」
どんな栄光が与えられるとしても、その全てを投げ打つだろうとシャグランには思えた。
何度でも、何があっても、ルナール邸のあの場所へ。生まれ変わり、彼女がいとおしげに撫でていた花になってでも、きっと会いに行くだろう。
あの瞬間にシャグランは生まれ変わった。生きていることに何の意味も感じられなかった生を終えて、別のものになったのだ。
何か別の、息をしているだけで苦しく、すべてのことが思うままにならずに、この地上でもがくしかない弱々しい生き物になったのだ。
「どれだけ遠く引き離されたとしても彼女の隣にいるだろう。だから、妻になってほしい、フェイリュア。君を愛している」
シャグランはそう言ってフェイリュアの手を取った。
「末永く女王陛下と共にあらんことを」
シャグランに冠が授けられる。
「女王陛下、ばんざい!」
「王配殿下、ばんざい!」
喝采が上がる。万雷の拍手に祝福されながら、二人は見つめ合っていた。
このようなときに、何故……と、問いかける心の声は小さくなっていた。
全ての希望は潰えた。
岸辺には、未だに灰色の煙が上がっている。
*
その夜、男たちの寝所に、忍び込むものがいた。
「シャグラン……」
揺り動かされ、目を覚ますと、そこにはフェイリュアがいた。
フェイリュアはシャグランを連れ出すと、人気のない食糧庫の前に連れていく。
「シャグラン、これを貴方に差し上げます」
フェイリュアは懐から懐中時計を取り出し、シャグランに渡した。
蓋にはグリシナの紋章が刻まれている。
「何故、これを……」
「貴方はもう私の夫なのですから」
「それは、《ごっこ》だろう?」
「本当に私の夫になってくれませんか、シャグラン。誓ってください。王配となり、グリシナを支え、私と永遠に共にいると。そうしたら……シャグラン、笑っているの?」
フェイリュアは冗談を言っているのだと思い、シャグランは少しだけ楽しい気持ちになっていた。
「俺と君とが、夫婦に?」
「何がおかしいの? きっと楽しいわ。私は理解がある妻ですから、あなたがどれだけ魔術研究にのめりこんでも、怒らないわ」
「俺も、君が錬金術のせいで夕飯の支度を忘れたとしても、怒らないよ」
「女王に夕飯を作らせようとは、いい度胸です」
シャグランはかすかに声を立てて笑った。
彼女とこの砦を去り、二人で暮らせたら、どんなに楽しいだろう。
シャグランは魔術師として、フェイリュアは新進気鋭の錬金術師として働き、子どもを作って……そして、その先が考えられないことが、むしょうに悲しいのだ。
「誓ってください。そうすれば、あなたに王家の秘密を話します。私が転移術を成し遂げた、その秘密です」
フェイリュアは真剣な表情だった。
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