第196話 星芒の宴



 それからのシャグランは、表向きはいつもと変わりがないように見えた。


 魔道具商のもとで宝石の鑑定をして小遣い稼ぎをし、空いた時間で魔術を学び、三か月後には大陸の西へと旅立った。

 その間もベテル帝の狂乱は止めようがなく、より深くなっていく。

 ベテル帝はとうとう女神教会と決別し、聖典を焼き払って新しいものと置き換えた。

 それと同時に路地の暗がりに《緋色のマント》の男たちが現れ、統治の妨げになるものをさらって行くという噂がまことしやかに流れ始めた。人だけではなく女神の奇跡や正しい信仰を象徴するようなものは、すべてこの緋色の男たちが根こそぎ奪い、離宮の深くへと連れて行ってしまうのだ。

 このころにはルナール邸の抜け道も、危険すぎて埋められてしまっていた。デゼルトへの出入りはより厳格になものになり、異端の者に門が開かれることはなくなった。

 シャグランはひたすらに沈黙していたけれど、アラリドの力を借りて過去を覗き見ているマテルには彼の心がありありと手に取るようにわかった。

 死者の世界には魂を隔てるものが一切ない。シャグランは時折耳にする帝都の噂話や、フェイリュアはおろかディアモンテからも知らせがないことに一喜一憂し、焦りを抱いていた。

 彼は帝都を出る寸前までフェイリュアたちに協力し続けた。

 慣れないながら真魔術の基礎を学び、何度も転移魔術の実験を繰り返した。

 そのことが誰かにばれれば宮廷魔術師には戻れない。それどころか何もかも失うだろう。明らかに危険なことだ。

 それでも、彼はフェイリュアに惹かれていたのだ。

 恋と呼んでいいのかはわからない……。

 シャグランがフェイリュアと過ごした時間はほんの短いもので、あれは悪い夢だと何もかも忘れて、宮廷魔術師として振舞い生きていくこともできたのだ。

 でも彼はいっこうにそうしようとはせずに、星芒の宴で再会を果たした。

 転移魔術が完成し、彼女を王都へと転移させるその全ての段どりがついたのだ。

 再会の時もシャグランは恐れと不安に支配されていた。

 転移魔術には致命的な欠陥があり、命のあるものを転移させると、転移した魂の情報が欠落してしまう。それをどうやって乗り越えるのかについてシャグランは何も知らされていなかった。

 その手法はフェイリュアとディアモンテしか知らなかった。

 もしもシャグランが帝都を離れている間に、その方法が確立されていなかったとしたら。彼を責め苛んでいたのはひたすらにそのことばかりだった。

 実際に、手順通り呼び出したフェイリュアは肉体は以前のままでも瞳に生気はなく、シャグランが王都に借りた粗末な家のベッドに腰かけているだけ。以前の溌剌とした生の証は何ひとつないといった代物だった。

 フェイリュアの似姿に公爵夫人から届けられたドレスを着せかける間、シャグランは絶望を必死に隠そうとしていた。

 若い女の裸体が目の前にあるのに、何ひとつ心に思うことはない。

 それよりもあの研究室で、成果物を自慢げに見せつけてきたあの、寝間着姿でねずみのように走り回っていたあのフェイリュアが、永遠に失われてしまったこと……そうしたのが他ならない自分自身であることを考えると気が狂いそうだった。

 粗末な家のまわりには、噂の美女を一目みようと大勢の人たちが集まっている。

 下世話な好奇心や、遠慮のない視線に彼女を晒すのには抵抗があったが、命がないのなら何もかもどうでもよいことだ。せめて己の愚かさを堂々と晒してやろうと半ば復讐のような心持ちで乱暴にフェイリュアの手を引き、表に出て、夫人が用意してくれた馬車へと向かった。

 けれど、奇跡は起きた。

 シャグランに手を引かれ、衆目の面前に現れたフェイリュアはぼんやりと顔を上げて空を見つめた。その視界を一羽のからすが横切っていく。

 そのとき彼女の瞳は突然、何の前触れもなく以前の輝きを取り戻した。


「シャグラン、びっくりした?」


 フェイリュアはいたずらを成功させた幼い少女のように、五歳か六歳の女児が時折そうするように意地悪く笑っていた。

 哀れな魔術師は言葉もなく見返してくる。彼は両の瞳を濡らしていた。

 万雷の拍手と喝采の声が上がる。集まった野次馬たちは、二人が何故、迷子の子供のように途方に暮れ、めいめい抱き合って泣いているのかわからなかっただろう。噂話の真実さえ見られれば、どうでもよかったに違いない。

 

 恋ではない……。

 ふたりの間にあったのは恋ではなかったと思う。


 公爵夫人の思惑通り、天上の輝きが地上にもたらされたかのような夜だった。

 水晶のシャンデリアが踊る二人を照らしだす。

 グリシナの王族であるフェイリュアが王国に留まるには、王の許しが必要だった。

 公爵夫人にしろ、王陛下にしろ、フェイリュアがただ美しいだけの娘ではないことを知っていたはず。彼女の振舞いはどんな女性よりも高貴で、それが一朝一夕で身に着くものではないことは明らかだ。

 何よりもシャグランは彼女が亡命することを望み、様々な手筈を整えていたのに違いないのだ。

 しかし、音楽の祝福に包まれながら、彼女は自らの物語が思わぬところに続いて行くことをシャグランに告げなければならなかった。


「シャグラン、わたしは王国には留まりません。わたしはこのまま王国を出て、東に向かいます。行かねばならないところがあるのです」

「行かねばならないところ? 帝都に戻れば、君は……」

「不思議に思ったことはありませんか、シャグラン。帝都から逃げ出した人たちはどこに行くのでしょう。私たちが逃がした人々は……」


 シャグランは答える術を持たなかった。彼にとっては、ベテル帝に虐げられ、帝都を去った者たちに価値などなかった。ベテル帝すら、どうでもよい愚かな王に過ぎなかった。フェイリュアに手を貸したのは、それを彼女が望んだからだ。彼にとって価値があるのはフェイリュアただひとりきり。ほかのものはつまらない背景でしかなかったのだ。

 手を伸ばせば確かに届くが、しかし遠すぎて夜を飾り立てるしかできない星のようなもの。確かな実感を伴い、生きて存在するのはフェイリュアだけなのだ。


「帝国の北の端、サン・グレを治めるヴェレ卿は光女神の信仰篤く、ベテル帝の改宗に最後まで抵抗し、袂を分かちました。今は帝都を逃れ、行くあてのない人々を迎え入れ、山間部の砦に匿って帝国との戦いに備えているところです」


 シャンデリアの豪奢な輝きも、豊かな音楽も、再びすべてが精彩を欠いたように思えた。


「フェイリュア、おねがいだ。もう何も言わないでくれ」


 シャグランは怒っていた。途方もない怒りだ。


「ルナールのお屋敷はもうありません。わたしが去った後、お母さまとお父様は毒を飲み、屋敷に火を放ったのです。各地に潜伏していたグリシナの騎士たちは、既に砦に向かい、守りを固めています。私も行かなければ……」

「フェイリュア!」

「あなたも来てくれますね、シャグラン」


 シャグランが見ていたのはフェイリュアだけだ。しかし、フェイリュアが見ていたのはシャグランではない。

 フェイリュアという魂に固く結びつけられて、最早、離れることができなくなってしまった哀れなひとりの男だ。


 恋ではない。

 恋ではなかったと思う。


 ジルエットが何故、その夜を夢物語のように《叡智の真珠》に綴ったのか、幸せな結末で終わらせたのか、それに気がついてしまったら、その夜にあった美しいものが途端にほどけて、ばらばらになってしまっただろう。

 フェイリュアが帝都から転移魔術を使ってまで逃げ出したのは、物語の結末にあるように、彼女が永遠に永らえるためではなかった。秘密裡に王国に渡り、追手を巻いて、大陸の反対側からサン・グレに向かうため。

 シャグランは自らの手でフェイリュアの魂を傷つけてしまうことを何よりも恐れたが、どれだけ避けようとしても彼女はそうさせたがっているように見えた。


 人は誰もがより良い生き方を探し、そうする術を求めているのではないのか?


 《死者の秘宝》を手に入れたあと、フギンはそう口にした。

 そのときのことをマテルも覚えている。そのときはただの何でもない、何気ない会話で、大事なことだと思わなかった。

 メルはどう答えただろう。


 君は……。

 君は無意識のうちに、間違ったことやどうしようもない失敗は避けられると思っているね。


 避けられないこともある。

 それよりもむしろ自ら望んで、何もかもわかっていてそれでも反対の方向に進む道を選び取ってしまう人もいる。

 そのことを受け入れることができず、納得もできないシャグランと、そしてフギンの魂が強く、お互いを呼び合っているのを感じる。 

 

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