第195話 箱庭の夢 ‐2


 デゼルトの街に庭師たちが溢れかえっているのを利用したのはシャグランだけではないようだった。正確に言えばシャグランは《状況を利用した》と思わされていただけなのだ。彼らはあえて隙を見せることで変装した魔術師をルナール邸へと引き入れた。エスカを間に挟み、愚か者を装うことで、すっかり油断させられてしまっていたのだ。

 わからないのは何故そこまでしてシャグランを招き入れたのかだ。


「君は何者だ? ルナール夫妻に娘はいないはず」

「ええ、その通り。彼らと私の間に血のつながりはありません。養女なのです」

「君は何者だ」

 

 ただならない気配を感じ、精霊たちを呼びよせた。強い風が巻き起こり、水路の水が乱れ、木々たちがばたばたと揺れて音を立てて繁った葉を揺らす。急に呼び寄せられた精霊たちではろくな魔術を使うことはできないが、ほんとうの魔術師というものをろくに見たことがない帝都の人々は、精霊たちが硝子窓を揺らしただけで怯えるものだった。


「それをお話ししたら、あなたはもう宮廷には戻れなくなるでしょう」


 けれども娘は強い風に髪を乱されながら、しっかりとシャグランを見つめていた。なんだか拍子抜けした心持ちがして、シャグランは脅すのをやめ、集めた精霊たちを解放してやった。


「あなたにわたしの研究室を見せたい。みんな、ありがとう。ここからは二人で話し合います」


 長い髪の娘は、そう言って人々に声をかけるとシャグランを連れ、屋敷の奥にある自室らしいところへと案内する。

 彼女の部屋は、おおよそ貴族令嬢のそれとは思えない様相を呈していた。

 天井近くまでうず高く積まれた本や、何やら難しい数式や天体図を書き込んだ黒板が壁に立てかけられている。何に使うのかまったくわからない歯車や工具、食べかけのパン、実験器具が散らばって足の踏み場もない。


「まさか君は錬金術の研究をしているのか?」

「その通り。週に一度、ディアモンテ先生に来てもらい、指導を受けています」


 それが浮気騒動の真相だったようだ。シャグランは無造作に置かれた青い石の塊を取り上げた。

 せいぜい十七、八の年若い娘が錬金術のような真新しい学問に興味がある、というのは新鮮な驚きだった。

 ベテル帝のこの時代、学問は家督を継がねばならない男性のもので、女性には無用のものとされていた。魔術も同じだ。女性にも強い魔力の持ち主はいるが、宮廷魔術師になる者はいない。


「これがこの数年の研究の集大成です」


 手渡された四角い金属の板には魔法陣が描かれていた。銀色の金属の表面に、小粒な賢者の石が埋め込まれている。金属のこの小さなカードが魔術師によって祝福された特別なものだということはわかるが、どのように使うものなのかは想像もできない。


「何故、俺をこんなところに呼びつけたんだ」

「それはもちろん、あなたの力を借りたいからです。魔術の力が必要なのです」

 

 フェイリュアは忙しそうに部屋の中を駆けまわる。長い棒を使って天窓に暗幕をかけて、明かりに布をかぶせていく。シャグランはいったい何をしているのかと呆れて見ていたが、彼女がランプを片手に部屋の真ん中に置かれた脚立をのぼっていくのを見て青くなった。脚立の高さは背丈をゆうに超えていたのだ。


「危ない!」

「まあ、あなた木登りをしたことはないの? 木の幹にこんな親切な階段はついてないものよ」


 言ったそばから長い絹の裾が引っかかり、派手に引き裂かれて破れてしまう。

 絹は柔らかく肌触りがよくて、とてつもなく高級だが丈夫さからはかけ離れた素材だ。麻か木綿にしか肌を通したことのないシャグランには、その無遠慮さが少々腹立たしいもののように思えた。


「ほら見たことか……。君のせいでだれかの繕い仕事が増えたぞ。貴族にとったら、駄目になったら捨ててしまえばいいものなのかもしれないが……」


 千切れた布切れを拾い上げ、頭上を見上げ、言葉を失った。

 見上げた先に真昼の星空が広がっていたからだ。脚立の上から身を乗り出し、ランプの光を捧げている少女はさながら太陽だった。

 先ほどまで何もなかったはずの天井に輝く文字と魔術記号の列が瞬いている。

 シャグランはその光景に言葉を吸い取られ、魔物に誘われる乙女のように、脚立を反対の方向から登っていく。


「ドレスでなくてよかったわ。私もあなたみたいなズボンが履きたいと言っているのだけど、お父様とお母様がその度に泣くの。シャツもね……」

「ドレスなんか全部破いてしまえばいい。年頃の娘が裸で舞踏会に行ってろくでもない男を連れて帰るぞと言えば、どんな布地でも買ってもらえるものだ」


 ランプをそっと受け取ると、丸天井を端から照らしていく。

 ランプの光は蝋燭のそれとは違っていた。

 錬金術によるものだ。どれだけ近づいてもあまり熱を感じない。


「太陽の光や、炎とはちがう波長の光です。この光でのみ浮かび上がる塗料インクで書きました。どう思いますか? シャグラン……。私もディアモンテ先生も魔術はからっきし。理論は正しいと思うけれど、正しく働くかどうかの確証はなかったの。だから貴方を呼びました」


 そんな特殊な塗料で記述せねばならなかったとすると、これは秘密の研究のはずだ。シャグランはじっと娘の顔を見つめた。


「転移魔術……」

「そう! そうです」

「転移魔術には致命的な欠陥がある」

「それも知っています。でもそれを越える手段があると言ったら、興味を持っていただけるでしょうか」


 娘は瞳をきらきらと輝かせた。最上のアクアマリンの輝きだった。


「いいや。俺は精霊術師であって、真魔術師ではない。ここに描いてある魔法陣や魔術記号の意味はひとつもわからない」


 シャグランが言うと、娘は口を半開きにして呆気に取られている様子だった。


「…………精霊魔術と、真魔術というのは別ものなのですか?」

「ああ、全くの別物だ」

「でも、それならどうして私と先生が転移魔術を研究しているとわかったの?」

「ひとつは俺をここに連れてくるまでの計画の入念さだ。わざわざ庭師の格好をさせて、誰にも気がつかないように連れてきた。貴族が宮廷魔術師を連れてくることはさほど珍しいこと、人目を憚らなければならないことでもないのに。おそらく、宮廷魔術師を屋敷に入れることじたいに賛否が分かれていたのだと思う」


 中庭にいた人々は、少女のことを心配しているように見えた。

 シャグランは屋敷に招き入れられたが、味方ではないと思っているということだ。


「お前たちが恐れているのは皇帝の手先、密告者たちだ。そしてこの帝都でベテル帝の存在を恐れているのは、光女神の信徒たち、先祖がえりや魔物まじり、それから、ベテル帝に支配された属国の民……」


 手元の明かりを娘に近づけた。白い肌や美しく長いまつげ、物憂げな唇を照らしだす。娘の目つきは、いつの間にか試すような色合いになっていた。

 かすかな明かりのもと、シャグランが何者なのかを見定めようとしている。

 シャグランもまた同じだった。


「彼らが欲しがっているものはいつだって同じ、一瞬で安全にこの帝都を脱出できる方法だ。転移魔術が完成すれば大勢の同胞を救えるだろう。君は何者だ? 皇帝に仇なす反乱分子なのか」

「だとしたら?」


 問いかける娘の瞳に、卑しい自分の姿がうつりこんでいる。

 シャグランとて、風変わりな貴族の娘のつたない悪巧みに腹を立てるほど、ベテル帝に忠誠を尽くしているわけではない。賢いようでいて、どこか間の抜けたこの娘の反応を見て楽しんでいるだけだ。

 それは美しいけれど手に入れることのできない宝石を、踏みつけて泥だらけにしてしまい「こんなのは大したものではないのだ」と言いたいだけの、子供じみたやりかただった。

 しかし娘はシャグランのことを否定することも、その惨めさをあげつらうこともなく、ただ大きな瞳を前に向け続けるだけだった。


「あなたは子供のころから精霊が見えたそうですね。私もなの」


 まっしろな両手を伸ばして、痩せた魔術師の頬を両側から包みこむ。

 芦の穂の色をしたカーテンが視界を隠す。そして細かに揺れては、天井に描かれた星の明かりを覗かせる。でも一番強い光を発しているのは、二つ並んだ薄水色の星だった。

 そして小さな声で囁いた。


「あなたを宮廷に戻すのが惜しくなりました。私はフェイリュア。母は滅ぼされたグリシナ王国の、最後の王妃の娘です。あなたに私の夢を見届けてほしい……」


 それがどんなことを意味するのか、シャグランには十分理解することができた。

 フェイリュアの掌はか細くて、そうしようと思えばいつでも逃げることができたのに、雷を受けたように動けないでいた。

 そして愚かにもフェイリュアの言う《夢》が、お伽噺の終わりのように穏やかなものなのではないかと、やりようによってはそんな風になるのではないかと、ほんの一瞬だけ夢想してしまった。

 どんなに絶望している人間にも、小さな夢を見せてしまう。それがフェイリュアという娘が持つ魔力だった。





 いくつもの流星が尾を引いて落ちて行く。

 暗闇の中を、いくつもの過去と、時間と、記憶とが走り抜けていく。

 マテルは死者の国の番人に手を引かれ、暗闇の中を走っていた。地面を走っている感覚はいっさいない。アラリドがいなければ、マテルはまっ逆さまに暗闇に落ちていくだけだ。

 それどころか、ときどき走っているのは自分なのだという感覚がなくなり、それは夢の登場人物のそれにすり替わってしまう。シャグランの心が、彼の感じている心の高鳴りが、まるで自分のもののように感じられるのだ。


「止まらないで! 少しでも立ち止まったらアマレナに見つかっちゃう!」


 アラリドは叫んだ。


「今のは何? あれってシャグランの記憶なの!?」

「そう! 魔鳥の中には、ここに捕らえられている全ての魂がある。ということは、彼らが通り過ぎて来た全ての時間、全ての記憶も揃っているはず。フギンを探して! 彼の魂がほんとうに存在しているなら、時の流れのどこかに彼がいるはずだ!」


 通り過ぎていく全ての星が、光が、誰かの記憶、誰かの魂だ。

 マテルは近くに飛び込んできた星に手を伸ばす。

 触れた瞬間に、ここではない情景が見えた。

 そこは薄暗い地下で……行ったことも見たこともないはずなのに、ルナール邸の地下室だということがわかった。

 中庭を改装するという建前で、ルナール夫妻は屋敷の地下をデゼルトの地下水道に繋げていたのだ。

 当時のデゼルトは、先祖返りやベテル帝に反抗的だとされた政治思想の持ち主にとっては危険な場所だった。それには女神の教えを信仰する者さえ含まれた。ただ信心深いだけの、なんの罪もない人々を、夫妻は屋敷の地下から小舟に乗せて逃がしていた。ディアモンテもベテル帝に取り入りる傍ら、夫妻の活動を手伝っていたのだ。

 ルーナル夫妻やディアモンテがそうした活動に加わっていたのは、ひとえにフェイリュアのためだった。

 フェイリュアはグリシナ王家の末裔であり、ベテル帝にとっては忌むべき存在だ。だが子供のいなかった伯爵夫妻は、皇帝から預けられたフェイリュアを実の子と同じように可愛がり、愛情を抱いてしまった。ディアモンテが協力したのは、フェイリュアに錬金術の才能があったからか。あのカード……。フギンが持っていたものと同じだった。


「あっ!」


 アラリドが甲高い声を上げた。

 真っ黒な掌が、アラリドの足首を掴んでいた。細い足首が引きちぎれ、闇の中に消えていく。

 アラリドは苦しげな表情だ。


「大丈夫かい!?」

「うーん、まあ、ぼくは死人だからね……。だけど、きみまでみつかったら厄介だ。アマレナよりも先にフギンを探さないとだよ。あまり悠長にやっていると、ぼく、あっという間に背丈が半分くらいになっちゃうかもしれない」


 マテルは考える。フェイリュアがシャグランを仲間に引き入れた理由は明らかだ。転移魔術を完成させるため……そしてシャグランには合法的に帝都を抜け出し、誰にも疑われずに王都へと行く理由がある。


「シャグランは転移魔術の欠陥をどうやって克服したんだろう? 彼は転移魔術を完成させて星芒の宴に合わせてフェイリュアを転移させたはずだ」

「じゃあ、そのあたりを探ってみようか」


 アラリドは杖の先を伸ばし、輝く星をひとつ掴まえて引き寄せた。

 幾億の祝福の声と、万雷の拍手が聞こえてくる。

 音楽が聞こえてくる。

 ワルツを踊るステップが。

 誰かの微笑みをそばに感じる。

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