第194話 箱庭の夢 ‐1
アルゴル帝は帝政をはじめるに当たって、すべての領主たちとその妻、そしてその相続人たちを帝都デゼルトに呼び寄せた。宮殿に彼らを住まわせ、生活の隅々まで監視し、支配するためだ。宮殿では華やかな催しが繰り返し繰り返し毎夜のごとく執り行われる。流行が瞬く間に移り変わる。貴族たちは際限なく金を使う。皇帝に反抗することができないように。
この習わしは、その息子、ベテル帝の時代になっても続いた。
ベテル帝は先ごろ、寵臣のひとりがその邸宅を作り替え、見事な中庭を設えたのにいたく感激し、爵位のある者の住まいは皆そのようにすべしと仰った。
こういうわけで、帝都デゼルトには大工と庭師があふれかえって、建材の値段が高騰していた。珍しい動植物を持ち込む冒険者も数えきれないほどだ。
アルゴル帝の統治があくまでも理性によって行われたとするなら、ベテル帝のそれは狂気の沙汰だ。それなのに誰も玉座に指を突きつけて、あれは狂った王であるとは言わないのは、いま街で流行っているほかのものといえば、密告、誘拐、裁判のない処刑だからだ。緋色のマントを着こんだ闇の世界の住人たちに見つかりたくなければ、静かに口を閉ざしておくほうが利口である。
しかしベテル帝がもたらした狂乱の世は、シャグランにとって少しばかり有利に働く可能性があった。
彼は暗幕で仕切られた小部屋で、びろうどを敷いた盆の上に並んだ蛋白石を端から順番に拾い上げ、拡大鏡の向こうでゆっくりと傾けながら、炎のきらめきを数えていた。それと同時に隣に腰かけたエメラルドグリーンのドレスを着た老婦人は、絶え間なく夫への不満を嘆き続ける。
夫がいかに不実な人間か、自分がどれだけ夫に尽くしてきたか、それなのに夫は若い女に現を抜かし、女の屋敷へと足しげく通い詰めていること……こんなことは妻である自分の恥にあたるので、誰にでもは軽々しく話せないこと。とくに夫の親戚筋には知られたくないと言っては嗚咽し、はげしく泣き崩れた。
シャグランは不満や愚痴にほどほどに相槌を打つと、黙って小部屋を出た。
暗幕を左右に振り払うと、金や銀のきらめき、居並ぶ宝石たち、香木のにおいが立ち込める店の裏側に出た。店の表側、カウンターでは頭に小さな帽子を乗せた店主が、居丈高な冒険者と睨みあっている。
壁に立てかけられた杖の列の中から一番粗末な杖を手に取ると、シャグランは店主のそばに行って耳打ちする。
「みごとなオパールだ。硝子を貼りつけてある。魔術には使えないよ」
宝石を持ちこんだと思しき冒険者が何か文句を言いだす前に、シャグランは狭苦しい店を抜け出した。白昼の通りは人々の喧騒で満ちている。扉の前にえんじ色のローブを着た魔術師が待っていた。同じく宮廷魔術師のエスカである。
「やあ、相棒、調子はどんなだ」
「エスカ、何故ここにリンドル夫人を連れてきたんだ?」
シャグランは青灰色のローブを脱いで裏返す。
たちまち、染みの滲んだローブが鮮やかな臙脂に染め上がる。
「夫人は旦那のことを大層心配なさっていて……こうしている間にも若い女が全財産を吸い上げてしまうんじゃないかと……夜も眠れないそうだ。おかわいそうに。それにお前、あと三月もしないうちに王国行きだっていうのに、けちな魔道具商の下働きじゃあ旅賃も稼げやしないだろう」
いつお呼びがかかるかわからない宮廷魔術師の仕事では、雀の涙ほどの給金しかもらえない。副業は若い魔術師たちの声を大にしては言えない大切な役目だった。
それは背が高く、若くて爽やかな顔立ちのエスカも例外ではなく、貴族の夫人が集うサロンに出入りして家庭や美容に関する悩みを聞いてやり、あやしげな魔法の媚薬を調合したり、恋占いをすることで懐を温めていた。
それに対して孤児で後ろ盾がなく、おまけに先祖がえりで見栄えのしない精霊術師のシャグランは、魔道具商のところで宝石の鑑定をして糊口をしのぐしか収入を得る術がなかった。
生活は厳しい。もしも上手く皇帝に取り入ることができたとしても、それはそれで別の苦しさが待っている。シャグランは自分の未来というものに、何の希望も持てずにいるごく一般的な宮廷魔術師と言えた。
「リンドル夫人に親切にしてやるといい。あの人には金がある」
「《錬金術》か……」
浮気をしているという夫は齢七十になろうかという老人だが、宮廷に《賢者の石》を持ち込んだ野心的な人物でもあった。
エスカは懐をまさぐって青く輝く一握りの宝石を取り出し、惜しげもなくシャグランに手渡した。
「それが《賢者の石》だ。知り合いに声をかけて譲ってもらったんだ。眉唾ものの奇術だと言う者もいるが、俺は見込みがあると思う」
「ふむ……」
エスカは、正直にいうと魔術師としては並みだ。だが時勢を読むことにかけては右に出る者がない。
シャグランは石を掌に握りこみ、難しい顔をした。
「不思議な石だ。宝石質なのに精霊が寄りつこうとしない。どうやって使うものなんだ?」
「そんなこと知ってるはずないだろう。だが、ベテル帝は大層お気に召したようだぞ。その石はお前が持っていろ。何かの役に立つこともあるだろう」
「精霊が嫌っているのに?」
「精霊だけが魔術じゃない」
シャグランはうなずいた。
青い宝石は太陽の光を取り込み、きらきらと反射させ、通りを行く無関心で怯えた人々の背中を照らしている。
人々はうつむいていて、こうしている間もベテル帝が自分たちを見ているんじゃないかと考えているようだった。
「これを駄賃がわりに、リンドル夫人の夫の浮気相手を探せというわけだな」
「そうは言うが、これはものすごい親切だと思うぜ。おもしろい玩具はお前のもの、夫人からもらえる報酬だってお前のものだ」
「エスカは賢いから、きっと紹介料をもらっているはずだ。声をかけているのは、俺だけじゃない」
「シャグラン、この真心を疑ってくれるな。とくべつなのはお前ひとりさ」
舞台役者のようなエスカの大仰な身振りにシャグランは無表情で頷くと、賢者の石をしまった。
そしてローブをもう一振りする。
臙脂色は黒に変わる。
黒いローブを背に羽織ると、そこに《宮廷魔術師シャグラン》はいなかった。
革のブーツといっそう粗末な身なり、そしてフードつきのマントで顔を隠した庭師の徒弟が現れる。
変装して人混みに紛れるシャグランに、エスカは大きな声を張り上げる。
「シャグラン、大人になれ! 利口になるんだ!」
誰もが奇妙な顔をして、そして迷惑そうな顔つきでエスカを睨んでいる。
ベテル帝の支配するデゼルトで、目立つことは禁忌そのもの。大声で叫ぶ者は稀少なのだ。
だが、誰もが伏し目がちに歩く大通りを、「俺は何ひとつ悪くない」と胸をはって歩いていけるエスカのことが、シャグランは嫌いにはなれなかった。
*
リンドル夫人の夫、錬金術師ディアモンテの浮気話には裏があった。
シャグランとてエスカの頼みをないがしろにしていたわけではない。
それとなく調べを進めていて、これは一筋縄ではいかないと気がついたのが先週のはじめ頃のこと。姿を消して尾行していたディアモンテが、浮気相手の館に入っていくのを見届けてからである。
老齢の男性の浮気というのは、さほどめずらしい部類の話ではない。
だが彼が念入りに変装し、庭師の姿に身をやつして入って行ったのは、ルナール伯爵の邸宅であった。伯爵家はアルゴル帝のまた従姉妹が嫁いだことで知られる、由緒正しい家柄のひとつだ。
ただ、いまのルナール家の当主夫妻は子に恵まれなかった。
屋敷に年若い娘はいないのだ。養子や養女もおらず、家庭教師も雇っていない。
となるとディアモンテの浮気相手は誰なのか……。
侍女のひとりがそれだとすると、屋敷で会うのは安全といえないし、不自然だ。まさかの当主の妻という線もなくはないだろうが、考えものだ。
当主夫妻はおしどり夫婦として知られているし、貴族の夫人の不義姦通は見つかれば死罪である。宮廷を騒がせる醜聞としては、まちがいなく大きなものになる。
リンドル夫人の心の安寧のために、その舞台の矢面に立ちたくない、というのがシャグランの本音であった。
さて、どうしたものか……。
シャグランはルナール家に庭師たちが立ち入る日を調べ、前もってその徒弟に小金を掴ませ、なりかわる準備を進めていた。
そうして庭師たちに紛れて屋敷に忍び込む作戦は、かえって気が抜けるほどに上手くいった。
ディアモンテは忍び込んで早々にマントを脱ぎ捨てた。
間近でみるとますます、老人のわりに体格がよく、顔つきは厳めしく冷淡そうな男だった。尾行がばれて取っ組み合いになろうものなら、問答無用で捻り潰されてしまいそうなくらいだ。
しかし、ここで思わぬことが起きた。
ディアモンテを迎えに、わざわざルナール家の当主夫妻がやって来たのだ。
庭師たちは平伏して、その場を去っていく。シャグランもその集団に混じって行くしかない。
夫妻とディアモンテが何を話しているかはわからないが、エスカやリンドル夫人が疑うようなことが、ここで起きているようには思われなかった。おそらくはあまりたちの良くない密談のように思える。
庭に連れて行かれても仕事ができるわけでもないシャグランは、隙を見て庭師たちから離れ、ローブを脱いで裏返した。
臙脂でも黒でもない、粗末な青灰色にした。
計画がすっかり狂ってしまった。誰かに見つかる前に夫妻とディアモンテを探し出し、錬金術師がこの屋敷で何をしているのか探らねばならないだろう。それか、誰にも見つからないうちに抜け出すか、どちらかだ。
勝手のわからない屋敷の中をこっそりと移動していると、とくに明るい場所に出た。
デゼルトにある貴族の館はアルゴル帝によって急ごしらえに作られたもので、大きくはあるが複雑ではなく、ほとんどが同じ間取りである。全体は四角く、隙間なく客間や応接間が並んでいて、中央に庭やサンルームがある。
ルナール家のそれは、もはや庭師の手などひとつも入る隙がないほどに見事なものだった。中央を横断する水路、自然のそれと変わりなく枝を伸ばす木々、南国の花々が咲き乱れている。
庭のみごとさに精霊たちまでもが集まっている。
庭師たちは別のところにいるのだろうか。人の気配はない。
普通の人間には見えないだろうが、シャグランは精霊たちの囁きに導かれて、二階の回廊から螺旋階段を下り、中庭に立ち入った。
シダの葉をかき分けて進むと、そこにひとりの若い娘がいた。
絹の寝間着に薄紫のガウンを羽織っただけの姿だった。足首まである長い髪の毛、白くたおやかな指先が花びらを撫でている。
シャグランがじっと見つめていることに気がつくと、微笑んでみせた。
「シャグラン、あなたを待っていました」
ここで、ようやくシャグランは人の視線に気がついた。
振り返ると、中庭を囲む四方の入り口に人々が集まっていた。
ルナール夫妻、それから、ディアモンテ。庭師たち、迫真の演技で夫の浮気を嘆いていたはずのリンドル夫人までもが、何か言いようのない強い感情を秘めてシャグランを、そしてこの目の前の娘を見つめている。
ここで何が待ち構えているのか知らなかったのは、シャグランと、そしてここにいないエスカだけだったのだ。
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