第193話 星座を書き換えて
重たい、まっくろな、ぶあつい布団を体の上に押しつけられているような感覚がした。手足の動かし方を忘れてしまったように体が動かず、頭の上に無遠慮な夢の帳が降りているのを感じた。
なんとか抜け出そうともがいているうちに体の上にのしかかっていたものから這い出て、どこか別の空間に落ちるのを感じる。
頬骨がぐっと毛足の長い絨毯に押し付けられ、ぱちぱち……と火が爆ぜる音がする。
肌に感じるのは熱い、というよりも、暖かい、という感触だ。
魔鳥の暴力的なそれとはちがう。
重たい瞼をこじ開けると、セピア色の天井が見えた。
そこは赤褐色に滲んだ部屋の中だった。宮殿のように太い柱が四方にあり、壁の一面は大きな暖炉になっている。向かいの一面が窓で、そのとなりに大きな扉があった。死者の宮殿のように固く閉ざされた扉だ。色は抜けるような紺碧。めぐる太陽と月が金色に描かれている。
いずれにしろ、この扉には鍵がかかっていて開かないのだと、それは本能のはたらきとしか言いようのない直観がする。
マテルは絨毯の上に横たわっていた。
部屋の隅には揺り椅子が置かれており、誰かがそこに腰かけて、膝に置いた重たい本の頁を繰っている。マテルからはその黒々とした頭がみえた。
小さな頭だ。まだほんの子供のように見える。
「これもちがう……あれも……。複雑にからまっていて……ああ、これもちがう……どこにもいない……やっぱりぼくには無理っぽいな……」
そんな声が聞こえてくる。
「やあ、起きたみたいだね」
マテルは何とか体を動かそうとした。
オリヴィニスはどうなったのだろう。魔鳥は、そしてフギンは?
「何が起きたかふしぎかい? それとも、君がしでかしたことの罪の重さを感じている? 安心して。地上はいずれ死者の国となるけれど、ここでの時の進み方はゆっくり……とてもゆっくりとしたもの。ただ、だからこそ死者は成長しないんだけれどね。生きていたときの
本の表紙をぱたんと閉じる音がする。それから衣擦れの音が。
なぜ考えていることがわかるのだろう。
マテルは地面に両手を突いて、なんとか上半身を持ち上げる。
すると、マテルの顔を覗き込んでいる少年の顔と目が合った。いや、少年か、少女か、どちらかははっきりしない。
闇色の瞳がにんまりとして、おもしろそうにマテルをみつめている。
カタバミ色のローブに、先が四角く曲がった変わった形の杖を手にしている。
ローブにも杖にも見覚えがある。
「私の名前を知っているよね」
「アラリド……」
「そうそう。いまは死者の国の門番をやってる。一度だけ会ったでしょう? ヨカテルのところで」
黒鴇亭で儀式をしたとき、呼び出したメルたちのかつての仲間だった。
あのときに見かけた姿よりも生き生きとして、そして何より存在感がある。
とても死者とは思えないほど、その表情はくるくると変わった。
「どうしてここに?」
「順を追って話そうか。あのとき、魔鳥にメルが飲み込まれて、君たちは死んだ」
アラリドは溜息を吐いた。
「あの魔鳥は君たちの肉体と魂を引きはがして、魂だけを食べてしまう。ぱくぱくっとね。結果として肉体は死ぬ」
「つまり、ここはあの魔鳥の腹の中?」
「大正解。魔鳥がもたらす死は普通の死とはちょっとちがうんだ」
「死んだらどうなるかなんて、僕らにはわかりませんけど」
「そうだろうね。だけど、ここは正しい死者の国ではないんだよ。一度取り込まれたら永遠に捕らわれ続ける檻でしかない。ここに魂の安寧はないんだ。君はべつにいいけれど」
よくはないだろう、と言いたいのを、マテルはぐっと我慢する。
ややこしくなりそうな気がしたからだ。
「メルはよくない。メルは本当の《死者の国》、歩き回る《門》なんだ。メルが魔鳥に取り込まれてしまうと、その内側にある魂すべてが檻に閉じ込められて、死者の国が機能しなくなってしまう」
「だから、あなたがここにいるんですね」
「いいや、それはちがう……。だから、きみがここにいる」
アラリドはどこか遠くを見つめる瞳だ。マテルの知らない、見たこともない世界の影を見つめる瞳だった。
その冴え冴えとしたまなざしを浴びると、肌がぞくりと震える。
彼はフギンやヴィルヘルミナと一緒に立ち行ったイストワルの洞窟の奥から訪れた存在なのだということを、この短時間の振舞いや仕種によって、まざまざとマテルは感じていた。
そんなアラリドの幼い手のひらが伸びてきて、マテルの顔の輪郭に触り、ひどく冷たい感触を残して離れていく。彼は死者なのだ。生きてはいない。
「その体はぼくが仮に与えたものだ」
マテルは自分の体を見下ろした。両手を動かし、そっと肉体に触れてみる。
はっきりとした感触があり、重さを感じた。アラリドと違って、体温もある。
「マテル、君にチャンスをあげる。旅を続けるチャンスだよ。フギンにもう一度会いたくはない?」
「会えるんですか」
「さあ、そこまではぼくにもわからない。君が眠っている間に、いろんな魂から君たちの旅のことを聞いたよ。それで、もしも可能性があるとしたら君だけだと思ったんだ」
「可能性って?」
「フギンを見つけだせる可能性さ。魔鳥はいま暴走状態にあるけれど、君たちの旅の間、その力は一応コントロール可能だった。それは何故か? ――――答えは簡単。《フギン》がいたからだよ。彼がそう呼ばれていた間、魔鳥の力を抑えられていた。フギンは魔鳥の暴走を制御することができるかもしれない」
アラリドはローブの裾を引きずりながら窓辺に近寄りマテルを呼び寄せた。
窓の外は満天の星空だ。ただし、上下左右すべてが星々に満ちていて、地面は存在していない。
「あれは星々であり、ここにあるすべての魂でもある。あの中から君がフギンをみつけるんだ」
「あの中から? 僕が? あなたは僕を見つけだしたのに、同じようにフギンを連れて来ることはできないんですか」
「もちろん、できるとも。本当に存在しているならね……」
アラリドはその瞳の中に星空を浮かべながら微笑している。
「フギンは何者?」とアラリドは問いかける。「なぜ彼は記憶を失っているの? 本当の正体がシャグランなのだとしたら、《フギン》は?」
マテルははっとして、言葉をうしなう。
なぜ、これまでそのことを考えなかったのか。考えようともしなかったのか、マテルは己の愚かしさに眩暈を覚えた。
「フギンが、シャグランが記憶を失った結果として生まれた仮初の人格なのだとしたら、彼の魂はこの世界のどこにも存在しないんだよ」
アラリドの言葉は、残酷だが真実だった。
マテルたちと旅をしていたフギンという存在が、急に色あせたように思える。
錬金術や新しい機械に目を輝かせていた彼が。ヴィルヘルミナと言い争っていた彼が……全てまやかしだったとでもいうのだろうか。ならば、シャグランを探せば……そう言いかけて、マテルは黙りこむ。
黒鴇亭の地下室でフギンは言った。もう、シャグランからお前たちを守ることができない、と。あれは魔鳥の暴走を予見しての言葉ではなかったのだろうか。
シャグランは帝国を憎んでいる。そして何もかもを滅ぼそうとしている。
魔鳥の暴走はシャグランが引き起こしたことだ。
「魔鳥は暴走したまま、もう間もなくこの地上の全てを飲み込んで、生命の循環は止まり、地上は死者の国へと変貌してしまう。その前に君がフギンをみつければ、これは止められる」
アラリドはマテルの腕を掴み、存外に強い力で扉の前へと引っ張っていく。
絶対に開かないと思っていた扉が、アラリドの杖に押され、簡単に外へと開いていく。
その向こうは暗闇だった。
星は数えきれないほど瞬いているが、足元は暗い。どこまで続くかわからない真正の暗闇だ。
本能的な恐怖に二の足を踏むマテルの背中を、アラリドは力任せに押す。
「いいかい、ここを出たら、絶対に立ち止まらないで。走り抜けるんだ」
「そもそも、やるなんて言ってません……!」
「いいや、君はやるね。やらないと言っても、ぼくがやらせる」
「どうして?」
「ぼくはメルが好きなんだ。君たちが死んで死者の国に来たら、地獄のほうに突き落とそうと思うくらいにはね」
「すごくよくわかりました」
「さあ、行こう。フギンの過去を探す最後の旅へ」
アラリドはマテルの腕を掴んだまま、闇夜の向こうへと飛びこんだ。
重みに引きずられて、マテルの体も落下していく。
これまでいた部屋がぐんぐん遠ざかっていく。
そのとき、アラリドが呟いた。
「アマレナが追って来ている……」
マテルが見ている前で、部屋を大きな影が包みこむのが見えた。
それは大きな目玉を爛々と光らせるバケモノのように見えた。
「フギンを探してるんだ。死者の世界で《天秤》であるぼくの隠れ家をみつけだすなんて大した奴だよ。あいつは才能の使い方を間違えたね」
巨大な影の両脇から大きな手のようなものが伸びる。両の掌が部屋を包みこみ、紙くずを丸めるみたいに押しつぶしてしまった。
壁や煉瓦、部屋に置かれていた薪が粉々に砕けて、マテルたちといっしょに闇の中に落ちて行く。
「あ、そうそう。言っていなかったけれど、これからやろうとしていることは《魂の証明》でもある。魔術師たちが何世代かけても解き明かせなかった重大問題を、一介の写本師が解き明かすことになるんだよ」
「なんですって?」
何がおかしいのか、アラリドはけらけらと笑っている。
「君がみつけるんだ。誰にも開かれなかった扉の鍵をね」
マテルは視界のずっと下のほうが明るいことに気がついた。
光が見える。
白っぽい光だ。
光に照らされて、緑も見える。
それは小さな箱庭だった。
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