第189話 夜よ、もう一度だけ ‐6
窮地に陥っているのはマテルたちだけではなかった。
時を同じくして、聖都アンテノーラにも異変が起きていた。
規定に反し、夜遅くに聖なる宮は門を開いた。荷馬車と人足たちを迎え入れるためである。
馬車は三台あり、それぞれに解体した部品が乗っている。
付き添って歩く者の列に顔を隠したエミリアの姿が紛れていた。
「オリヴィニスは大丈夫でしょうか……」
エミリアは心配そうにつぶやいた。三日夜平原を越えたあたりで、東の空に光の柱が立ち昇るのを目にした。明らかに異常な出来事で、エミリアはその方角に向かったひとりの錬金術師のことを心配しているのだった。
もちろん、その在野の錬金術師が異常事態を引き起こしているのだとは知らないままに、である。
「あの街は剣も魔術も手練れ揃いですよ。滅多なことにはなりますまい。何かあれば、王国も救援を出すでしょう。さ、お早く」
人足姿に身をやつしたアリュウは胸にフギンから託されたヨカテルの論文を抱いたエミリアを門の内側へと押し込む。
実際は帝国も王国も、オリヴィニスに何が起きたとしても不干渉を貫くだろうが、エミリアの旅路も立ち止まることが許されるほど安全なものとは言えなかった。
アンテノーラ宮の庭先には迎えの者が待ち構えていた。あざやかな銀髪をなびかせた娘の隣に、粗末な赤毛の少女が佇んでいる。
アンナマルテ・ミセリアは数人のお付きと共に馬車を迎え入れた。
「陛下からの書簡、確かに受け取ったぞ。これより先は男子禁制。エミリアとやら、そなたの身柄はこのアンテノーラ宮が迎え入れる。荷台に積まれた活版印刷機と一緒にな……。アリュウよ、ご苦労であった」
「ははっ。聖女様御自らのお出迎えとは、身に余る光栄にございます」
「うむ。しかし、印刷機をこの聖都に運び入れるとはなかなか大した悪知恵だ。ここなら騎士団もいて警護も厚い。我々にしても女神の教えを広めるのに活用できそうな印刷機とやらを見ておくのもまた一興……と考えると踏んだのだろう。必要なものがあればなんなりと揃えてやろう」
「あ、ありがとうございます、聖女様」
王国の騎士相手にも尊大な態度を崩さない少女がてっきり聖女だと思ったのだろう。ミセリアに対し、エミリアは深く頭を垂れる。
本当の聖女は粗末なワンピースにエプロン姿で、しかし手には黄金と水晶でできた《聖女の杖》を抱えているリジアのほうだ。
リジアは先ほどからエミリアの後ろをじっと見つめている。
視線の先には、真っ白な大理石に落ちた赤黒いシミがあった。
「どうかしたのですか、聖女様」
普通なら見逃してしまいそうなシミの前にリジアは少し悲しそうな目つきで進み出て、杖を振り上げた。
「《ご慈悲に縋ります、女神ルスタよ》」
杖の先端が振り下ろされると、ランプを模した水晶飾りが微かに輝きはじめる。清浄な光を浴びた染みは大理石の上でのたうち、いったんは収縮したかのように見えた。
しかし次の瞬間には、いきおいよく膨らんだ。床を離れて空中に躍り上がった泥のようなそれは、膨らみすぎた風船のように破裂した。そして大理石の広場全体に飛び散った。
そのひとつひとつが意志を持ったかのように揺れ、そして再び膨らんで形をとり、赤黒い泥人形のようなものがあちこちに伸びあがる。
アリュウたちは慌てて荷車から各々の武器を取り、アンナマルテや聖女リジアを下がらせようとした。
しかし二人は岩のようにその場を動かず、これらの泥人形が苦しんで身を捩り、口とも呼べない暗い穴から「痛い」「苦しい」と怨嗟の声を上げるのを聞いていた。
「……古い魔術による呪いだな。しかも、人の命と血肉を使ったものだ。剣はきかぬ。ひとつひとつ解呪していくしかないが、それにしても数が多すぎる」
赤黒い泥人形のひとつが両脇から生えた手のようなものを胸の前で組み祈りの形に合わせるのに目をとめ、リジアは悲痛な面持ちとなり同じように両手を合わせた。
「エミリアを追い回していた呪術師とやらが放ったもので間違いなかろう」
「なんということでしょう……。こんなものを聖なる場所に持ち込んでしまうなんて」
泥人形は一定の大きさになると弾けて増え、倍の数になって、ジリジリと迫ってくる。アリュウたちはなすすべなく後退するしかない。
優しくまじめな性格のエミリアは、この事態を引き起こしたのが他ならない自分自身であることに胸を痛めていた。家族の元に帰りたい、ひと目会いたいという一心で言われるがままに活版印刷機を運び、ヨカテルの論文を公表するという手段を選んだが、レヴ王子の配下や大勢の信仰の対象である聖女を犠牲にするくらいであれば、ひとりで野に果てたほうがましだったかもしれないとすら考えた。
「そうだわ……!」
そのとき、エミリアはひらめいた。背負い袋を地面に下ろし、中身をひっくり返しはじめた。
「フギンさんたちから、こんなときのために預かっていたものがあるんです!」
エミリアは荷物の底から二つの革袋を取り出して見せた。
それは、フギンから《もしも追手に追いつかれて、窮地に陥ったときにだけ使うように》と渡されていたものだ。そして《それ以外のときは決して、万が一にでも、絶対に使ってはいけない》と念を入れられており、なかば忘れていたものでもあった。
「お願い……。フギンさん、私たちを助けてください!」
革ひもを解くと、その中から小ぶりなコインが現れる。
片方には99枚のコイン、そしてもう片方にはたった一枚の、鈍い金色に輝くコインが……。
その二つの袋の中身が、錬金術技師の手によって一つに合わされたとき、星々が瞬く空の下に輝かしい喇叭の音が高らかに誇り高く鳴り響いた。
「おめでとう、小さなコインを百枚あつめた勇士たちよ」
彼らの目の前には、比喩ではなく全身から月光の輝きを放つ美貌のハイエルフが立っていた。長身の男性で、容貌は天才画家が天啓を得て描いた名画に登場する美女のごとく端正なもの。それに加えて何故だか全く理解がし難いが、右手には喇叭、そして左手には卵をひとつ持っている。
「だ、誰…………!?」
「わたしは小さなコインを百枚集めた人間のところに出てくるエルフのオジサン、ミシスだ。本来はニスミスの街に現れるはずなのだが……まあ、よかろう。景品の卵をどうぞ」
「た、卵……? いえ、いらないです」
「そういうわけにはいかない。これは決まりなのだ」
「決まり? いったいなんの決まりなんですか? というか、それどころじゃないと思いますけど……!」
脅えるエミリアの視界の先には、大人の身長ほどに生育した泥人形が迫っていた。
ミシスは長すぎる指を顎にあててしばらく思案した後、卵を放り投げた。
白く丸く、そして脆い卵が落下する前に、ミシスはその手を剣の柄にかけ、神速の抜き打ちを放つ。
日頃、王国随一の剣士の技を間近にしているアリュウがうなるほどの速さであった。鞘に刃をおさめ、悠々と卵を受け止める。
人ならば、その速さによって真っ二つになっていただろう。
しかし泥人形は無傷のままだ。
「剣はきかないのです!」
エミリアはアンナマルテの言葉を思い出し、叫んだ。
ミシスは迷うことなく拳に握りしめ、泥人形の顔面めがけて放った。
「エルフパンチ!」
「エルフパンチ!?」
まぬけな技名のわりに腰の入った拳は、泥人形の頭を爆散させる。
「ふーむ。エルフ的感覚からしても、これはずいぶん古い魔術のようだ。事情はよくわからないが、君たちには何やら危機的状況が迫っている様子だ」
美貌のハイエルフは宮殿の前に群がる泥人形たちと、(ミシスに)怯えるエミリアたちを交互に見比べる。
「ドワーフの友人にも人間の暮らしに寄り添い、《命をだいじに》せよとアドバイスを受けたこの身だ。短命の者たちよ、恐れることはない。久しぶりにエルフ数千年の歴史をもつ、エルフ格闘術を披露することとしよう」
「エルフ格闘術とはいったい……?」
怖いもの見たさで訊ねてしまったアリュウの脇腹をリジアが肘打ちするが、もう遅い。関心を持ってもらえたミシスは嬉々として故郷の武術について語りはじめた。
「その名の通りエルフ族に伝わる伝統的な徒手格闘術のことだ。我々長命種はあまり肉体労働をしないという誤解があるが、それはちがう。何しろ短命の人族に比べて時間があるから極限まで鍛錬を重ねることができるのだ。数十年鍛え上げた肉体が鋼なら、数千年鍛えたそれは金剛石のそれだ。見ているがいい。エルフパンチ! エルフキック!」
単純な暴力が、呪いと怨嗟を振りまく泥人形を端から爆散させていく。
「つまり、アホほど筋肉を鍛えれば単純に強くなれる、と……」
利口なアンナマルテは目を細めた。理解し難いものを見つめる瞳だ。
「金剛石には劈開がありますから、鋼より弱いのではないでしょうか」
エミリアは呆然としながら呟いた。
*
冒険者たちは突然召喚された謎のハイエルフを前に二の足を踏んだ。
純粋に目の前で何が起きているかわからなかったためである。
そして数分も経たないうちに混乱と混沌が場を支配することとなった。
マテルたちを包んでいた包囲網は総崩れになった。もちろん、彼らも反撃をする。剣や戦斧がうなりを上げ、雷や炎の魔術が間断なく撃ち込まれる。
しかしその壮絶な攻撃の合間から、こんな声が聞こえてくる。
「エルフパンチ! エルフキック!! エルフ柳葉崩し! エルフ無呼吸三連打!!」
そしてその度に、完全武装の冒険者たちが宙に舞い、大地に崩れていった。
ハイエルフのミシスが扱う《小さなコイン》は長命種である《遺産》のひとつで、持ち主はニスミスの街中に散らばったコインを百枚集めるまで存在しなくなる。そのかわりに百枚集めたならば、そこがどこであれ出現する。
そして条件が満たされる限り、同時に何か所にでも存在することができるという代物であった。
もちろん、時を同じくして、アンテノーラでも同じ現象が起きているのだとは知る由もない。
地獄のような戦場から、マテルたちは命からがら脱出した。
振り返れば、喇叭を吹きながら現れた訳の分からないエルフに薙ぎ倒されていくなんの罪もない冒険者たちの姿がみえる。
「これだけは……この手だけは使いたくなかった……!」
恥ずかしそうに頬を染めるマテルを、マリエラは無言で見つめていた。
その表情には何かしら軽蔑の意志があった。
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