第186話 夜よ、もう一度だけ ‐3



 女はこの瞬間、大陸で一番哀れだった。

 あまりにも哀れだった。

 輝かしい人生のたった一つの汚点が、時と距離を隔てたこんなところにまで追って来て新たな船出を妨害したばかりか、大嵐を吹かせて新品同様の船を大破せしめたのだから。

 マリエラは全身から力が抜けた虚脱状態でテーブルに突っ伏していた。


「マジで勘弁してよ。なんであんたたちがこんなところにいるのよ……」

「話せば長いんですが、バーナネンたちに捕まってて。しかもその上、冒険者ギルドまで敵に回した直後なんです……」


 マテルは地べたに正座した状態で掻い摘んで状況を説明する。

 マリエラは半笑して「あんたたち、終わったわね」と端的に告げた。

 冒険者ギルドを敵に回して、この稼業を続けられる冒険者はいない。

 ましてや、みずから冒険者証を捨てるということと、ギルドに冒険者証を取り上げられるということの間には雲泥の差と呼んで差し支えない距離がある。それは回状持ちになるということ、犯罪者になるということと大差ないからだ。

 冒険者は太古の法律によって、武器を所持したまま大陸すべての砦と国境を越える権利を持つ。

 しかし一度冒険者証を取り上げられたなら、これらの伝統的な特権は失われ、国境に潜む山賊たちと同じ扱いへと変わる。

 その後はオリヴィニスの周辺からいかなる国家へも脱出が不可能になり、冒険者としては活動できず、魔物に食い荒らされるのを待つのみとなるのだ。

 そのことを考えれば、わざわざギルドを敵に回そうというのは馬鹿の考えだ。メルが言った「全ての冒険者が敵」という言葉はまさにそのままの意味だった。

 八方ふさがり、打つ手なし。

 ………しかしマリエラとのこの不幸な邂逅は救いの手を必要としているマテルたちにとって千載一隅のチャンスでもあった。


「マリエラさん、何も訊かずに僕たちと、ここから脱出する手伝いをしてくださいませんか」

「一応訊いとくわね。どの面下げて言ってるの。この私に!」


 マテルはマリエラの汚点そのものであり、マテルにとっても、あの事件はその良心を苛む出来事の最たるものである。こと冒険者稼業が、そしてフギンのことさえ絡まなければマテルは常識を重んじる善人なのだ。

 だからこそマテルは発言をする前に唇を噛んで逡巡した。

 それでもフギンを助けるためには何がなんでも実力者であるマリエラを自分たちの味方につけなければならないことも確かだ。


「協力していただけないのなら、アーカンシエルでの一夜のことを全部包み隠さず、オリヴィニスの人たちにバラします」

「んなっ………………!!」


 マリエラは絶句した。

 そして苦し紛れを口にする。


「そんなことしたらあんたにとっても恥でしょ……!?」

「…………最低最悪の発言だとわかっていても言うよ。僕は一時的に冒険者になってるだけで、本業は別。多少胸は痛むけど、ザフィリに戻って工房の後継ぎに納まれば、そういうのも若気の至りのちょっとした酒の失敗談として、まあまあウケが狙える笑い話にできるんです」

「他人のことを勝手に知らん街の知らん職場の定番の笑い話にするのはやめろ!」


 マリエラは悲愴な顔つきであった。

 あいかわらず一匹狼を気取ってはいたが、まだまだ他人の目は気になるらしい。

 自分自身が打ち立ててた理想像に縋りつき、プライドの高さのせいで失敗と挫折を認められないマリエラを、ヴィルヘルミナは過去を懐かしむ目で見つめている。

 その生暖かなまなざしに気がつき、マリエラの表情はますます悲愴なものとなる。


「な、なんなのよ、その、私はあなたより一歩先に進みましたけどね的なムカつく瞳は……?」

「ふふ…………。いやなに、少しばかり感慨に耽っているだけだ。そういえば私にもそのような頃があったな、とな…………」

「いやっ、やめて! そんな目で私を見るな! 耐えられないっ、バカが私の醜態をみて成長を噛みしめてるぅ……っ!」


 マリエラが身もだえるたび、マテルの悩まし気な表情も深くなっていく。ただしそれは、マリエラに対する良心の呵責のせいばかりではなかった。


「確かに、僕たちは冒険者証を剥奪されても大丈夫だ。僕は商人ギルドが身元を引き受けてくれるし、ヴィルヘルミナは聖女様方が何とかしてくれるだろう……」


 メルはそのことをわかった上で《君たちは冒険者ではない》と言っていたんだろう。思い返せば、あのときのメルはまるでマテルたちにフギンを助けに行くように促しているみたいだった。


「……だけど、君には冒険者としての夢がある。ギルドから追い出されたら、それは叶わなくなってしまうんだよ」


 ヴィルヘルミナは少し真顔になった後で、しかし、すぐに満面の笑みを浮かべた。輝かしく、屈託もなく、悩みも迷いもない笑顔だ。


「マテルはどうしたい?」

「僕……?」


 考えてみれば、マテルはこの旅の間中ずっと受け身でいた。

 あれがしたいこれがしたいと時には主張し、冒険者の真似事をしてはいたけれど、旅の目的は、あくまでもフギンのためだ。その道筋を自分自身で決めていたとは言えない。


「そうだ。私はな、マテル。ずっとお前たちのことがうらやましいと思ってたんだ」

「お前たち……って、僕とフギンのこと?」

「ああ。フギンが旅に出るかどうか迷っていたとき、マテル、お前がフギンの背中を押したんだろう? だからフギンは旅に出れた。そして、知らない土地で迷子になっていた私にも出会った! そして……そして、フギンは私の背中を押してくれた。フギンとマテルの絆が、つらくて恥ずかしくて消え入りたいと思っていたこの私を救ってくれたんだ」


 語るヴィルヘルミナの瞳には、まるで昨日のことのようにオリヴィニスに辿り着いた日の景色が映っていた。

 無茶な戦いを挑み、そして傷ついたフギンの背中をマテルも見つめていた。


「冒険者として成功する夢は、ただ私ひとりのことだ。でもいつからか、それだけではつまらないように感じていた。マテルやフギンのように、私も誰かの背中を押したいと思っていた。そして、それは、たぶんマテルのことなんだ。だから聞く。マテルはどうしたい?」


 マテルは呆気に取られていた。冒険者となり、名声や名誉を得ることがヴィルヘルミナの望みだとずっと思っていたからだ。

 だけどヴィルヘルミナは今、その力や才能を惜しみなく他者へと分け与えようとしている。


「私も二人の本当の仲間になりたいのだ。二人の間にある絆に負けないくらい、二人にも私のことを頼りにしてもらいたい!」

「ヴィルヘルミナ……僕は……」


 マテルは少しだけ迷った。

 そうすることが良いことなのか、正解なのかがわからないからだ。

 旅立つ前、フギンもこんな気持ちだったのだろうか。

 思い返せば旅の間中ずっとフギンは悩んでいた。自分が何者なのかを知ることが、終わってしまったことを明らかにすることが、果たしていいことなのか、正しいことなのか確信がもてずに迷い、何度も足踏みしていた。

 もしかしたら前に進むことでむしろ事態がもっと悪くなるかもしれない。失敗して打ちのめされ、それだけならまだしも、ほかの誰かを傷つけたりするかもしれない……。そんな想像に怯えていた。今のマテルと同じだ。

 迷っていたフギンを連れて旅に出たのは、ただの好奇心だった。

 思えば、無邪気に過ぎ、残酷な好奇心だった。

 だけどマテルは心の底からフギンのことを《友達》だと感じている。

 そのことだけは嘘いつわりがない。フギンが本当はひどい人間でも、世紀の大悪党でも構わないとさえ思う。


 なぜなら……。


 なぜなら、その問いの答えの根幹にあるのは、いつも同じ景色だからだ。


「僕はフギンにまつわる謎を解きたい。冒険者としてじゃなく、騎士でもない。おじいちゃんが言っていたことも、ミダイヤのことも、アマレナやアリッシュのことも、関係ない。ただの写本師として、フギンに……伝えたいことがあるんだ」


 ヴィルヘルミナは頷いた。


「ただ、フギンに、それでも友達だよって伝えたい……。僕はフギンを助けたい」


 ヴィルヘルミナは、今度は大きく頷いた。そして、手のひらを差し出した。

 マテルはその手のひらを握り返す。

 いつか、フギンが差し出し、マテルが握り返したその手を。


「不肖このヴィルヘルミナ。聖女様の騎士として、この戦いに加勢いたす。二人でフギンを助けに行こう!」


 マテルも頷いた。

 それが、自分自身のほんとうの旅なのだと感じた。

 どうみても無茶で、突き詰めれば無謀だ。

 ただ勇気だけに背中を押され、不安をかきわけて進んでいく。

 たまらなく不安なのに、ヴィルヘルミナの金色の髪や、青い瞳がきらきらと輝いて見えるのはなぜだろう。

 そして、好対照にどんよりと澱んだ気配を放っているマリエラがタイミングよく発言する。


「いい話になってるところ悪いけど、こっちは普通にギルド証を剥奪されると困るんだけど」

「……処女だということを世間に知らしめられるのとどちらがいいですか」


 マリエラは額に手を当てて、天井を仰いだ。

 しばらくそうしていた。

 永遠に近い時間が流れた。





 しばらくして、マテルたちのいた小部屋が爆発した。

 勢いよく炎が噴き出し、爆風で部屋の中はめちゃくちゃだ。

 灰と煤をかぶりながら、マリエラは縄で縛ったマテルとヴィルヘルミナを連れて小部屋を飛び出した。


「何者かに襲撃されたっ! 監視場所を変えるわ!」


 ギルド職員たちは火を消すのに必死で、抜け出したマリエラたちを見てもいない。

 もちろん、部屋を爆破させたのはマリエラの真魔術だ。屋外で使う魔術を室内で発動させたため、マリエラたちも灰をかぶり、微かに炎で焼かれている。


「お前たち、許可は取ったのかっ!?」


 バーナネンたちの仲間とみられる監視役の冒険者だけが先行きを邪魔しようとする。


「こいつらの仲間が市井に潜んでるのよ! ここにいたんじゃ狙いうちになる。そこを通しなさい」

「そんな報告は受けてない!」

「あらそう、何も知らない間抜けね」


 進路を阻もうとした男は疾風のようなマリエラの抜刀の前に、あっという間に昏倒して倒れた。

 剣は男の体にかすりもしていないが、魔物を麻痺させる真魔術の効果が乗せられており、倒れた男は助けを呼ぶこともできずにもんどりうっている。

 それをそっと物陰に押し込めて、三人は冒険者ギルドを脱出した。

 マントをかぶって姿を隠し、避難が済んで、誰もいない街路をひた走る。

 目的地はもちろん、黒鴇亭だ。


「はあ? じゃあ、何? 街外れでピカピカに光ってるやばそうな神話生物、あれがあんたの恋人の《フギン》だっていうの?」


 道すがら詳しい話を聞いたマリエラは呆れた顔で叫ぶ。


「恋人じゃないです……」

「不死者だの、錬金術だの夜魔術だの、なんだの……まったく理解できそうにないししたくもないけど、あんたたちが孤立無援だってのは理解したわ。そんなわけのわからない敵に追われながら、冒険者ギルドを敵に回すなんて、ほんっとーにまずいことしたわね」


 フギンの正体もわからないが、アマレナの存在も依然として謎なままだ。

 アマレナは己のことを《鴉の血》と呼んだが、その正体は、ミシスたち《ハイエルフの回収人》の仲間を殺して遺産を奪ったハーフエルフのはずだ。それと同時にアリッシュとして、彼女のカリスマや指導力を利用して立ち回りもしている。

 だが、それと同時にアマレナは明らかにフギンを殺すことに固執していた。


「アマレナが初めにフギンと、そしてエミリアを狙ったのは、二人が地下水道で見つけた《賢者の石》とヨカテルの残した《研究》のせいだった。だけど、途中から、アマレナは確実にフギン自身に狙いを定めていた……ような気がする。アマレナはずっと、フギンの正体に気がついていて……冒険者たちにフギンを殺させようとしてるんだ。いったい何のために……?」


 マテルは考えながら、必死に走る。

 逃げ出したことに気づかれるまで、大した時間はかからない。

 考えなければならないことは山のようにあるが、シグンが連れて行かれてしまい、今のマテルたちには思考の材料となる情報が足りなかった。



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