第179話 死者の秘宝 ‐5


 ひやりと凍える北風が頬を撫でていく。

 落下は想像よりも短い時間で終わった。予想と違って冷たい海水に投げ出されることも、流氷で体をすり潰されることもなかった。

 フギンはひっくり返った蜘蛛の腹の上に乗っていた。

 しばらくして、マテルとヴィルヘルミナも同じ足場に落ちて来る。


「あだっ!」

「ぐへえ!」


 それぞれにうめき声を上げる。


「こ…………ここは?」


 ヴィルヘルミナが素早く起き上がり、あたりを見回す。

 海は足元のはるか下にある。自分が現在、どこにいるのかわかっていない仲間に、フギンは背後を指で示した。

 フギンたちが乗っているのは灰色の地面の上だ。

 地面というと語弊がある。それは巨大な手のひらの上だった。両手を重ね合わせた掌は、手首と腕に続き、その向こうにやはり巨大な女神の顔がみえる。

 それは、岩壁に掘られた超巨大な女神ルスタの像だった。空に向けて差し出された両手が神殿から落ちて来たフギンたちを受け止めたのだ。

 人の想像力を越えるものを見せつけられたとき、陳腐な言葉は失われる。あまりにも壮大なスケールの彫像を、三人は並んでぼんやりと眺めていた。


「これは……」

「死者の神殿にまつわる最後の大仕掛け、というところだろうな。つまり、あの一層目に、石はないんだ。神殿の出口は、タイルに乗って飛び出した海の方角にしかない」


 フギンは言った。故意に伏せられた事実はあれど、地図には何一つウソは書かれていなかった。タイルの向きに四苦八苦し、鍵を手に入れて最初の入口を開けることだけに執心していたら、この出口にはたどりつけない。

 最初から知っていたら面白くないでしょ? というメルの無責任きわまりない台詞が今にも聞こえてきそうだ。


「フギン、マテル!」


 ヴィルヘルミナが空に向かって指をさす。

 エヴィニエス号が、強風に耐えながら、三人を迎えに現れたのだった。





「攻略おめでとう。楽しかったでしょ?」



 ミランといっしょに甲板まで出迎えにやって来たメルを見た三人は、声を合わせた。


「全然!」

「楽しく!!」

「ないっ!」

「ええ~~~~……せっかく案内してあげたのに? このへんの迷宮の中では一日で行き返りできるし、仕掛けもそこそこ凝ってるし、見どころも多くて手頃なやつだと思ったんだけどなあ」


 メルは不思議そうな顔つきだ。

 もしかしたら、迷宮のことを観光地か何かと勘違いしているのかもしれない。

 その表情に悪びれたところはひとつもない。地図に曖昧な記述をしたり、あぶり出しや水で浮かび上がるインクを使ったりしたのはあくまでも《ネタバレを防ぐため》であり、むしろ気を使ったのだという言い分を聞いて流石のヴィルヘルミナも真顔で「気が狂ってるのか?」というコメントを残した。

 苦情を言うまいとしていたフギンも冒険の引き金を引いた者として思うところがないわけではない。


「崖のこっち側に回りこめるなら、文字通り助け船を出してくれてもよかったんじゃないのか」

「風が強すぎて操船がむずかしいんだよ。帆が引っかかって折れでもしたら帰りの足がなくなるし。だいいち、そんなに強い奴じゃなかっただろ? ヴィルヘルミナの弓をもっと早く使わないから、そんなに怪我だらけになるんだよ」


 控えめに文句を言うが、なしのつぶてだ。

 そんなメルに、ミランはわざとらしい小声で忠告を送る。


「メル、それ以上言うと夜にうしろから刺されますよ」


 濡れた衣服を取り換えて火に当たり、傷の手当をしながらミランが好意で出してくれた温かい飲み物や食べ物を口にすると、それでようやく生き返った心地になった。

 戦闘の際に落としたカードや置きっぱなしになっていた荷物を神殿から回収し夕刻にはエヴィニエス号は北の大地を出発した。

 遠目に見下ろす神殿の姿は間違いなく荘厳だ。どうやって岩壁に、あれだけの巨大な彫刻を掘ったのか、太古の人たちの技術や失われてしまった文明に思いを馳せる。

 船べりから、小さくなってもう見えなくなった神殿の姿をいつまでも見つめている仲間の列にフギンは加わった。


「ティタンは……、二層目にいたあの錬金術師の魂は、君といっしょには来なかったの?」


 マテルが訊ねた。遺体を置いて行かなければいけないのが心苦しいのか、ヴィルヘルミナも聖印に触れ、祈りをささげている。


「魂は去って行った。だから、俺も遺体には触れなかった……。どうも亡骸に触れることが、この力が発動するきっかけになるみたいだから」

「そうだったの? ああ、でも、そうでなかったら、この船の船員さんたちもいなくなっちゃうよね」

「よくわからない力ではあるし、言われた通りなるべく近づかないようにはしてるけどな……」


 そして、メルと先ほどかわした言葉について考える。肩口に負った傷を女神の奇跡による癒しの魔術で治してもらいながら、フギンは訊ねた。


「メルメル師匠、俺とは性格が合わないと言っていたが……それは、過去のことが原因なのか?」


 ずっと聞きたいと思っていたことだった。

 フギンはかつて、人との関係を間違った。知らないふりをして、向き合わず、見ないようにすることで、自分も他人も傷つけた。同じことはもう二度としない。そう決めたからこその問いだった。

 メルは治療を続けながら、首を横に振る。


「前にも言ったとおり、それは僕らの意志であり、あの旅路にかかわったすべての人たちの選択だった」

「だけど……」

「選択が間違うこともある」


 フギンの言葉を遮り、メルは言う。


「どうしようもなく、間違ってしまうこともある。悲劇的な結末を招くこともある。でもそれで構わない。すべてが《選択》であり、《決断》だ」

「…………」

「君は無意識のうちに、間違ったことや、どうしようもない失敗は努力すれば避けられると思ってるね。上手くやり過ごせばいいと思っている。でも人はみな、例外なく死にむかって歩いている。どんな決断をしようが、すべての選択は死に向かって駒を進めているに過ぎない。僕でさえも」


 それは寂しい想像に思えた。


「人は誰もがより良い生き方を探し、そうする術を求めているのではないのか?」

「そこが僕たちと君のちがう点だ。人間はそれほど弱くはない。たとえ間違いでも、誰かが悲しむことになるとしても、人にはそのさいごの一歩まで歩きとおす力があるんだよ」


 メルと初めて会った時、フギンは違和感を感じた。不死の少年という言葉の響きと、目の前にある存在があまりにもかけ離れていると思ったのだ。

 それもそのはずだ。メルは自分のことを、何ひとつ特別な存在だとは思っていない。自分自身を他の人と変わらないと思っている。人と寄り添って生き、そして、それに限界があることに納得して受け入れてもいる。

 メルの言う通りフギンとは別の考えの持ち主だった。

 フギンには、見知らぬ遠い迷宮でひとり寂しく息絶えるような無謀な生き方を肯定することができない。

 心のどこかで他のやり方があるのではないかと思ってしまう。


 いったい、この気持ちはどこから来るのだろう?


 裂けていた肩の傷はふさがり、うっすらと赤らんでいるだけで、明日にはそれも消えてなくなるだろう。

 フギンは懐から大事に抱えていた青い陶磁器の壺を取り出した。

 視線を上げると、ヴィルヘルミナとマテルがこちらを見つめている。

 力強く確信に満ちた眼差し。

 言葉をかわさなくとも、考えていることはひとつだ。


 雪原が、極北の地が遠ざかる。

 ヴィルヘルミナの背中に生えた五本の孔雀の羽が、いつまでも風に揺れていた。

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