第176話 死者の秘宝 ‐2
現在の精霊魔術におけるマナ分けの儀式は実に穏当なものだ。しかし古代においてその方法は多岐に渡っていて、中には見習い術師を半死半生の目に遭わせる危険なものあったというのが常識だ。
要するに、日常とは違う世界を垣間見せ、精霊の世界ようというのだ。
水温はかなり冷たく、それだけでショック死していてもおかしくない。
「《寄りて来たれ》!」
天井に貼りつけたフギンのカードが冷却魔術の効果を発揮し、海水がなだれこむ穴を氷漬けにして塞ぐ。
長時間は耐えられない。だが、これで少なくとも考える時間ができたはずだ。
「これは盗賊避けの罠なんかじゃない。夜魔術師になるための儀式の一環だ。夜魔術師は人の魂を自在に操る。術師自らが死の淵に立つことを試練の一環にしていたんだ」
「僕たちは夜魔術師になりたいわけじゃないよね?」
「なりたいわけじゃないし、なれるわけでもない」
魔術師になるための危険な儀式のほとんどは権威づけのために行われるものであり、目覚めをうながす効果があるかどうかとは別なのだ。
「望むと望まざるとにかかわらず、ここはそういう迷宮なんだ。諦めるしかない」
これがフギンが迷宮の《意志》と呼んだものの正体だ。
フギンたちはけして夜魔術に興味関心があるわけではない。そして神殿そのものも冒険者たちに害意があるわけでもない。
だがこの神殿の外は見渡す限りの雪原、極北の世界であり、何も知らずにここを訪れた者たちは遠からず死ぬ。
純然たる事実だけがある。ただそれだけだ。
「メルメル師匠はこの神殿を訪れたことがあるのだよな」とヴィルヘルミナが言う。「もしかして我々について来なかったのは冷たい水に落とされるのが嫌だったからじゃないのか?」
あり得そうな話だった。フギンもマテルも少しばかり暗い表情になったのは、冷たい水の温度のせいじゃない。
「メルメル師匠は、本当はシャグランが過去にした仕打ちを恨みに思っているのかな」
マテルの言葉にヴィルヘルミナはむっとした表情を浮かべる。
「まだそんなことを引きずっていたのか? フギンの一番の親友であるマテルともあろうものが!」
ヴィルヘルミナが勢いこんでマテルに詰め寄る。その拍子に、というわけでもないだろうが、氷で塞がれていた穴から大量の海水が流れこんでくる。
ヴィルヘルミナの姿が一瞬、水の下に沈んで見えなくなり、水かさはあっという間に胸のあたりに押し寄せて来た。
再び浮かび上がってきたヴィルヘルミナは、海水に対して激しい憎悪を燃やしていた。
「かくなる上は……この水を……ぜんぶ飲み干す!」
「ヴィルヘルミナ、海水だよ」
たとえ淡水だったとしても、小部屋を満たすほどの水を飲むことはできないし、できたとしても次から次に水が入ってくる状況じゃどうにもならない、と発言しようとしてフギンは黙る。
もしかしたらヴィルヘルミナもマテルも、寒さとパニックでおかしくなってきてるのかもしれない。フギンの過去がどうあれ、正気でいられるうちに抜け出す方法を探さなければいけないのは確かだ。
周囲を観察する。
壁面に書かれているのは夜魔術師の伝説だ。大陸に残る最古の言語で真実とも嘘ともしれない物語が記されていた。
古代の魔術師たちも、弟子を水死させるほど非道ではないだろう。
もしかしたらこの状況を打開する何かのヒントになのかもしれない。
読み解けるのは魔術の知識があるフギンだけだ。
「《夜魔術は天から与えられた女神の御業》《死した人の魂が地上にあふれ、行き先を知らなかった頃》《女神が魂を導くために遣わした救い主》《さ迷う魂に弔いを授けよ》《その者は人の形をした天秤》……天秤?」
水の勢いはいよいよ激しく、かさは背丈を越えはじめた。
フギンは天井近くに残った空気を吸い込み、水にもぐる。
壁面に無造作に置かれていた天秤は左側の皿が深く沈んだ状態で止まっていた。
確か神殿に入ったときは二つの皿が平衡な状態で止まっていたはずだ。
フギンは空気を求めて天井近くまで上がった。マテルと目線があう。こんな状況でも冷静な写本師は金属鎧が重たいヴィルヘルミナが呼吸できるよう支えてやっている。
その周囲には地図やら火の消えた松明や、荷物の中でも軽いものが浮いている。合間に何か黒い石が浮かんでいるのが見えた。
フギンはマテルに頷いてみせた。
石を掴み、再び天秤まで潜る。石を、この部屋のようすとは反対に浮かび上がっている皿の上に乗せる。
天秤を通して魔力が動いた気配がした。
そして、微かな振動と共に部屋が浮き上がる感覚がある。
再び部屋は浮上していく。
*
落下よりもはるかに短い時間で上昇は止まった。
出口のない小部屋だと思っていたから落下の最中は気がつかなかったが壁の一面に扉が現れて、そこでピッタリと上昇が止まった。
扉を開けると、溜まっていた海水がすべて流れ出た。
小部屋の天秤には、フギンが置いた黒い石があり、傾きは少しだけ小さくなっていた。
フギンたちは火を起こし、濡れた体を温める。
その表情は一様に暗い。
「状況を整理しよう」とフギンが切り出した。
焚き火の明かりに照らされながら、マテルは疲れた声で言う。
「古代の魔術師たちは、魔術師を目指す若者たちを閉じ込めて氷の海に突き落として楽しむサディストだったってこと?」
「ちがう。これは試練なんだ。天秤が昇降機を動かす鍵になっていたんだ」
天秤には黒くつややかな石が置かれている。
「あの石はなんなの?」
「葬送の際、貴婦人が身に着ける装飾品に使われる。宝石ではなく樹木の化石だ。マテル、地図はどうなってる?」
マテルはびしょぬれになった地図を広げ、「あれ」と何かに気がつく。
「水にぬれて、文字が浮かんできてるよ」
覗き込むと、地図のあちこちに先ほどまでは無かった青い文字が浮かび上がってきていた。先ほど三人を殺しかけた小部屋には、
《自動昇降機。天秤を操作すると行ける階数が変わるよ。おもしろかったでしょ?》
そう書かれていた。フギンは眉間に深い皺を寄せる。
「おもしろくなんかない。悪意を感じる」
「まあまあ、あれで案外、無邪気な人なのかもしれないじゃないか」
青いインクの文字列を参照すると、ここは地下神殿の三層目、最下層に当たる。
最下層だ。それぞれの層のどこかに先ほどの黒い石と同じものが隠してある、と書いてある。おそらく、隠された石をすべて集めて天秤に載せることで地上に戻れる仕掛けなのだろう。
すっかり濡れてしまった荷物には、いつの間にか入れた覚えのない防水マッチが仕込まれていた。おそらくそれもメルの仕業だ。ささやかな餞別、といったところだろう。
「それよりも私はこの状況に道義的、倫理的、宗教的抵抗を感じざるを得ないのだが……」
ヴィルヘルミナは沈痛な面持ちである。
というのも、ほとんど海水で満たされた昇降機から命からがら逃げだした三人はずぶ濡れで、すぐに体を温める必要があった。だが何しろ荷物の全てが濡れて水を含んでいる。火は錬金術で起こせるが、燃やせるものが何もない状態だった。
そこでフギンたちは開いた扉の向こうで探索を行った。昇降機の外には部屋がひとつしかなかった。奥には祭壇があり、夜魔術の秘儀が行われたのだろう、祭器がいくつか残っているだけの部屋だ。
燃やせそうなものは何もなく、そこでフギンたちは…………。
「こうするよりほかに仕方がなかったんだ、ヴィルヘルミナ。お前は俺たちを一応、止めたのだし、命がかかっている状況だ。おそらく女神も許してくれるはずだ」
フギンの薄っぺらな慰めを聞きながら、マテルは渋い顔で背後を振り返った。
視線の先には夜魔術の祭壇があり、その下に白骨化した遺体が横たわっていた。
フギンたちよりももっとずっと前に神殿を訪れた何者かの遺体だ。
ひどく凍えていて、ほかに燃料になるものを何も持たなかった彼らは、物言わぬ遺体の荷物や衣服をかき集めて火にくべたのである。
声を大にして言える行いではなかったが、この状況での低体温は避けたい。
「それにしても、こんなところに《錬金術師》が来ていたとはな……」
唯一、遺品として残しておいた革の小物入れには、錬金術師協会のエンブレムが燦然と輝いていた。銀色の箔押しで、翼を広げる対の鳥が描かれている。
「いったいなぜ、こんなところに錬金術師が? それに賢者の石を持っていないのが気になるな」
「また盗む気かい? 死者が化けて出てきても知らないからね」
マテルがぶるりと身震いする。この神殿の寒さはミランの幽霊船の寒さを彷彿とさせるものがあった。
「目的のものは手に入れたんだ。さっさと退散しよう」
マテルは言った。
ここは神殿の《最下層》である。
実は死者の秘宝は、もう既にフギンたちの手元にあるのだ。
それは小さな青い陶器である。
両手で抱えられるほどの器に黒い丸薬が納められている。
この迷宮は最下層に向けて降りて行き、宝を手に入れるためのものではない。
はじめに手に入れた宝を、無事に地上まで運びあげるために作られた神殿なのだ。
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