第174話 共同研究


 オリヴィニス、魔術師ギルド。

 トゥジャン老師の研究室には大小様々な《鏡》が置かれている。

 老師がそのひとつに、湖面のように波打つ鏡面から《本棚》を引き出した。

 その姿を見て、冒険者ギルドの名物受付係、レピとエカイユは揃って「ほう」とため息を吐いた。

 老師の部屋にあるありとあらゆる物品は、このように鏡面へと収納されているに違いない。


「相変わらず人の身には惜しいほどに素晴らしい魔術ですね、トゥジャン老師」

「うん十年前に放棄された空間転移術をここまで極められたのには何か理由でもあるのですか?」


 トゥジャンはテーブルに書物を積み上げながら、興味津々といった様子の双子エルフの無邪気な質問に答える。

 双子たちもエルフ古魔法の達人である。人とエルフという種の違いはあるが、求める真理は同じだ。トゥジャンが用いている収納術が空間転移術の応用である、と瞬時に読み取ったのだろう。


「空間転移術を欲しがったのはヨカテルだった。この術があれば、迷宮の最奥でもいろいろなものを持ち込めるからな。私とヨカテルは放棄された空間転移術の《完成》を目指し、共に研究を行っていた。最終的に、ある程度、実用化のめどが立った時点で研究は打ち切った」

「何故です?」

「誰あろう、この私が彼の要求に答えられなかったからだ。だから、これは転移術ではない」


 トゥジャンは手鏡を懐から取り出し、双子に見せる。


「薄い手鏡にみえるが、真魔術によってここには《無限の空間》があると定義している。後は空間に放り込んだ物を取り出せばよい。ごく単純な魔術だ」


 手鏡の中から陶器のカップを取り出して見せる。


「老師、それを単純だと定義したならば、世界はまっ平らになってしまいますよ。老師はもっと大きな声で、それも往来のど真ん中で、ご自分を世紀の大天才だと言って回って構わないと思いますけど」

「そこまで研究が進んでいたのに、何故、研究を断念されたのでしょうか」


 トゥジャンがやってみせたのは、重さも質量をも無視して物体を《圧縮》する魔術だ。それにくらべたら、物を移動させることはごく簡単なことのように思える。


「《物体》を移動させることは、他の連中の研究と同じくある程度の成果を得た。しかし、《人》となると話は別だ。……正確に言えば《物》であっても、転移術が成功しているとは言えない事例があったのだ。エカイユ、君の力を借りて少し実験してみせよう」

「え、なんです。ちょっとちょっと、なんで僕じゃだめなんですか」


 不満げなレピを無視して、老師はテーブルの上にべつのティーカップを置いた。

 それは長閑な田園風景が描かれたものだ。エカイユは白手袋をはめカップをうやうやしく持ち上げて、持ち前の鑑定眼で観察する。


「ごらん、レピ。これはマクレガー工房製の真正品だよ。人族が生み出したもののうち、もっとも美しいもののひとつだ」


 エカイユは満足げにうなずいた。


「限定十脚作られたうちのひとつで、数々の貴人が手にしてきましたが戦乱によって失われたとされています。愛好家も多く、歴史的にも文化的にも貴重かつ、高価です。この何とも言えない明るい萌黄色は再現が不可能で、もはや芸術品とさえ言って過言でないでしょう。値段はつけられません」


 トゥジャンは魔法陣の描かれた布を二枚、テーブルの離れたところに敷き、カップを置く。

 そして深い声音で呪文を紡ぐ。


「《理外の法にて行使する》」


 真剣に見つめる二対の瞳の前で、カップは細かな粒子になって分解されていく。

 そして、もう一枚の魔法陣の上で再構成され、《転移》が完了した。

 しばらく沈黙があった。

 トゥジャンの手によって、カップが再びエカイユの前に戻される。

 エカイユは、明らかに動揺していた。


「これは…………!」

「先ほどと同じものか、どうか」


 エカイユはポケットから拡大鏡を取り出し、食い入るようにカップの表面を見つめながら、苦しげに言う。


「見た目には全く同じなのです。ですが、これは…………先ほどとは違います」


「どういうこと?」と、エカイユよりも審美眼が雑にできているレピが訊く。


「先ほどのカップならば、いついかなるときでも最上の貴婦人のように扱ったことでしょう。ですがこれは、道端に投げ捨てたとしても惜しくない。少なくとも、こちらのカップには芸術と呼べるがないのです」

「かつてヨカテルも今の君と同じことを口にした。積み重ねられた歴史と技術、そして《魂》とでも言うべき何かが、空間転移術を介した瞬間に失われる。ちなみに私の手鏡に放り込んだとしても、同じことが起きる」


 かつて、盛んに研究されていた《空間転移術》が放棄された最大の理由がこれだった。ヨカテルとトゥジャンも同じ問題に当たり、解決策を考案できないまま、研究を中断することとなった。


「つまり、現在時点までの魔術では《魂》を正確に観測できないのだ。魂が何もので、いかに定義されるべきものなのか……それは未だ女神の手の内にある。まさに奇跡の御業なのであろう」


 魂が何なのかわからないからこそ、それを魔術によって遠く離れた土地に運ぶことができず、転移術は失敗してしまう。肉体だけならば、精度は上がっている。だが、空間転移術に《人》を取り込んだ時点で《魂》は脱落してしまう。

 これが転移術の致命的な欠陥だ。


「二人には、エルフ古魔法の見地から、この研究を再検討してもらえないかと思ってな。それでわざわざ魔術師ギルドまで呼び出したのだ」

 

 トゥジャンの頭にはメルの元を訪れた旅人たち、フギンのことがあった。

 彼らがどこからやってきてどこに行くべきなのかについては、魔術師ギルド長としての領分を越えたところの話である。解放戦線のことも、遠い記憶だ。しかし、彼らが話していた《叡智の真珠》の記述は妙に気になるところがあった。

 転移術の欠陥のことは、宮廷魔術師ほどの実力があればすぐに気がつくことだ。

 従来の転移術であれば人間を、魂を欠けさせることなく遠隔地に運ぶことはできない。しかしシャグランはやった。騎士たちの悲願とはいえ、欠陥のある魔術で《フェイリュア》を呼び出したのである。

 もしも元来の方法でやったのならば、呼び出された《フェイリュア》は元の彼女ではなかったはずだ。


「何かもうひとつ仕掛けがあるはずなのだ。女神の奇跡に匹敵する何かが」


 トゥジャンは呟いた。

 シャグランその人が不死者であったならば、不可能ではないだろう。メルもまた、人の魂をその身の内に回収する術を知っている。彼らは死者に触れ、肉体と魂を分かつことができる。魂だけを抜き取り、体のみを転移させれば、それは可能となる。

 けれど、何かが違うと訴える。

 その《何か》に到達するために用いることのできる手段は、いかに歴戦の冒険者とはいえ、彼には《魔術》しかないのである。


「だけど…………こんな簡単な実験のために、あの素晴らしいティーカップをごみくずにする必要はなかったですよね……………」


 レピが言った。レピは目の前で失われてしまった芸術品を惜しんで、さめざめと涙を流す弟エカイユの肩に手を置き、慰めている。


「いいんだ、レピ。わかってた……。セルタスさんを代表として、魔術師ギルドには狂人しかいないってことは……」

「エルフのくせにつまらないことを言うのだな。これでもパーティの中では一番、常識的だったのだぞ」

「メルメル師匠たちと比べないでくださいっ!」


 値段はつけられないと言ったが、手に入れるためにはその一脚だけでも金貨を何百枚と積まなければいけない逸品が、未来永劫、魔術の摩訶不思議な作用で失われてしまったのである。その心痛はいかばかりか。

 エカイユは恨みのこもった眼差しをいつまでもこの老師に向けていた。


 

 

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