第173話 夜の乗り物《下》



 マテルの腹のあたりは鮮やかな桃色に染まり、首のまわりをぐるりと緑のフサフサが取り巻いている。

 フギンは手袋の左手が青色で右手が赤色、胴体は色あいの微妙に違う茶色が重なりあい、素敵なドブ色模様を構成していた。

 ヴィルヘルミナにいたっては首の後ろから孔雀の羽が五本ほどぴょんぴょんと元気よく飛び出している。

 桃色や黄色や緑や青。様々な色や模様が三人の体の上で、死にかけの蛇のごとくのたうっている。

 メルが紹介してくれた仕立て屋の、苦渋の表情が思い出される。

 毛皮は高級品だ。必需品とはいえ高級な貂やら狐やらを揃えられる財力はフギンたちにはない。そこで仕立て屋の少女は、あまり物の毛皮の切れ端を繋いで上着やマントを作ることを提案してくれたのだった。

 そうして出来上がったのが、この、街中ではとても身につけられない継ぎはぎだらけの格好だった。


「繋ぎ目にいちいち裏から布を当ててしっかり縫い込んでいる。急ごしらえの依頼だったのに、いい仕事だ」

「それは同意するけど、この体の内側から冷たくなるような感覚は全くなくならないよ」


 毛皮の装備だけでなく着られるものは少しでも身に着け、懐炉を懐にしこみ、ブーツのつま先には唐辛子まで突っ込んでいて、ヴィルヘルミナとマテルは青い顔をしている。

 平気なのはフギンだけだ。


「こうなったら体を動かすしかない。鍛錬だ。マテル! 行くぞ!」

「ええ~……。ヴィルヘルミナは手荒だからなあ……」


 相当に寒さが堪えているらしくマテルもヴィルヘルミナについて甲板に上がっていく。

 手合わせをしている二人を見ながらフギンは頭を捻っていた。

 じきに日暮れになり、船室にこもらなくてはならない時刻になる。眠れば体温はさらに下がり病を引き起こすだろう。

 そうなる前に対策を立てなければならなかった。


「若者は元気だねえ」


 剣や戦槌を振り回す二人を眺めながら思案しているとメルが現れた。船べりに腰かけて、にやにやしながら二人の手合わせを眺めている。

 メルはフギンと同じく《寒さ》を感じていない様子だ。


「この奇妙な船はいったい何なんだ?」

「何って?」

「いくら陸路よりも魔物の襲撃がなく安全とはいえ、こう寒いんじゃ死んでしまう」

「――――あぁ。でも、君は寒さを感じないはずだ。君がなんとかしてあげればいい」

「それは俺が不死者だからか?」


 フギンが不機嫌そうに言うと、メルはおかしそうだ。


「不死者だからって、それほど人とちがうわけではないよ。君はちょっと気負いすぎだ」

「そうなのか」

「言わなかったかな。僕だって自分にできる以上のことができるわけじゃないし、この世のすべてのことを知っているわけでもない」


 夕焼けの光がメルの頬を照らしている。


「それじゃ、人生の先輩として少しだけヒントをあげよう。ここで日が暮れるのを待ってるといいよ」

「夜は船室に戻るルールだ」

「そのルールが何のためにあるのかわからないのに?」


 フギンはむっとする。


「俺のことが気に入らなくても、約束は約束だ」

「べつに意地悪してるわけじゃないよ。簡単に教えても面白くないし、それにミランは君たちに正体を知らせるのが嫌みたいだ。まあ、約束は約束だからね。手伝いはするよ」


 メルは物陰に行き、懐から白墨を取り出して、甲板に恐ろしく精緻な魔法陣を書きつけていく。


「ただし僕には高等魔術を扱う魔力がほとんどない。だから起動だけ君がしてくれ。できるよね、錬金術師なんだから」

「これは何の魔法陣なんだ?」

「まあまあ、いいから。起動したらこの中から動かないで」


 フギンは言われた通り魔法陣の中に入る。


「《理外の法にて行使する》」


 フギンが魔術を発動させる。魔法陣に魔力が通い、何らかの作用が働くのを感じたが、それが何なのかは自分ではわからなかった。

 じきに日が落ちた。空に月が昇る頃、それは起きた。

 はじめは甲板の上を仄かな光が漂いはじめた。明るく輝く太陽のようなそれではなく、夜空に輝く星明りのような優しい光だ。

 それから、人の話し声が聞こえてくる。

 あわただしい足音や誰かの歌う舟歌も。

 甲板にミランが現れた。

 ミランは樽の上にぼんやり腰かけているメルのほうに視線を投げただけでフギンには全く気がつかない。メルが描いた魔法陣は、目くらましの類の魔術なのだろう。


「船長、航海は順調だろうか」


 ミランが声をかけると、そこで足音が立ち止まり、どこからともなく甲板に年かさの男が現れた。

 手に海図とコンパスを持ち、ミランを柔らかな表情で見つめている。


「もちろんですとも坊ちゃん。この調子なら三日後の朝には目的地に到着します」

「急ぎの仕事を任せてしまってすまないね」

「なんの! 坊ちゃんのお役に立てて、船も喜んでいますとも。全く、私らは、先代の大変だったときに何にもできなくて。シュティレ家の大事だというのに。後のこともミラン様おひとりに背負わせてしまった」


 ミランの周囲にはひとり、またひとりと人の姿が増えていく。

 恰好からして船員たちのように見える。今まで人気のなかったエヴィエニス号が、にわかに活気づくようだ。それと同時に、潮のにおいが漂ってくる。船から見えるのは白金渓谷の雄大な姿だけだというのにだ。


「せめて私どもが港に辿り着いていれば……。積荷を無事に運べていたなら……」


 昔話はいつの間にか啜り泣きの声に変わっていた。

 甲板は水で濡れていた。船員たちの姿も、塩水で濡れそぼり、目が落ちくぼんだ幽鬼の姿に変わる。

 美しかったエヴィエニス号の姿は全く別の姿に変わっていた。

 彼らは死んでいるのだと、フギンはようやく気がついた。

 メルが言っていた通り、これは《夜の乗り物》なのだ。

 夜が示しているのは《夜魔術》。死者の魂を操る魔術のことだ。

 この船はどこかで沈没でもしたか、既に死者の領分に入っている船なのだろう。


「終わったことを後悔しても仕方がないことだ。君たちはよくシュティレ家に仕えてくれた。いずれ女神様が君たちの魂を御許に迎えられるだろう。それまで少しばかり楽しもうじゃないか」


 ミランは懐に抱えた酒瓶を見せた。

 船員たちが相好をくずし、薄暗く陰った船の景色が再び活気づく。


「ミランは、彼は生きているのか?」


 フギンが訊ねると、


「さあ。知らなくてもいいことがあると思うよ。生きていることと、死んでいることには大して違いなんかないしね」


 メルはあっけらかんとして答えた。

 幽霊はこの世界に留まってしまった魂だ。生きている人間とは相性が悪く、生気をうばう。だからマテルたちは船に乗った直後から弱りはじめていたのだ。

 フギンはこっそりと魔法陣から離れ、船室に入った。

 火をどれだけ焚いても暖かくならない部屋で、ヴィルヘルミナとマテルが身を寄せ合って眠っていた。その頬は氷のように冷たく凍えている。

 夜魔術では人の魂というものを精霊と似たものとして扱うと聞いたことがある。

 フギンは戸口に魔法陣を描いた。

 それは精霊術師が精霊から身を守るためのもの、結界を張るためのものだ。小窓のそばでも同じことをして、客室全体を死者たちから遠ざける。

 効果はすぐに現れた。

 凍えていた室内の温度が暖かく温もってきて、仲間たちにも血色が戻ったようで、心の底からほっとする。

 フギンには、二人が生きていても死んでいてもいいなどとは言えない。マテルはともかくとして、今ではヴィルヘルミナもそうだ。

 メルが生きていることと死んでいることの間に違いなんかないと言ったのは、それは永遠の生を生きる不死者の達観に過ぎないだろうと思えた。

 二人だけじゃなく、これまで出会った全ての人たちについても同じことだ。

 彼らが死後も幽霊になって地上をさまようところなど、想像もしたくない。

 たとえ今と同じように会話し、笑い合い、旅ができるのだとしても、それは何かが決定的に違っている。

 マテルは二度と工房に戻ることはなく、ヴィルヘルミナがもう一度、冒険者としてやり直すことのない未来に、いったい何の価値があるのだろう。


 だけど。


 フギンは窓の外を見た。

 ガラスの反射で、同じ顔をした自分自身がこちらを見返してくる。その向こうにあるのは闇色に染まった森だ。

 フギンを見つめているのは、かつて数多くの命をその場所に置き去りにしてしまった《知らない誰か》だった。

 忘れ去られ、置き去りにされた人々はこの船の船員たちと同じに、今もあの森を暗い目をしてさまよっているのかもしれない。

 シャグランのしたことはひどく残酷だ。


 導師シャグラン、君がそこにいるのか?

 君はいったい何ものなんだ?


 旅の始まりとは、問いそのものがずいぶんと変質してしまった。

 もしもシャグランが自分自身なのだとしたら、きっとこの旅の先にフギンを待っている人はいないだろう。

 間近に感じる旅の終わりは、いつになく寂しく感じられた。



*****ミラン・シュティレ*****


 港町トゥルマリナに住む仮面姿の商人。

 メルに魔術道具を安く融通してくれる。

 幽霊や魔物といった怪しい世界に通じている。


『第15話・16話 オークション 《上・下》』『第32話 小鬼夜市』『第40話 港街にて』『第89話 幽霊船』

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