第172話 夜の乗り物《中》
オリヴィニスの北側に広がる白金渓谷の大自然は、これまで見たどんな場所とも違っていた。
濃い緑の針葉樹と、白く乾いた大地のコントラストの遠景に《竜の角》の威容が灰色に聳えている。ひんやりと空気は冷たく、人の侵入を拒む何ものかの気配が確かにあった。木々の幹には時折、冒険者がつけたと思われる目印の傷がある。それらに誘われるがごとく奥へ奥へと進んでいくと、やがてまばらに積雪がみられるようになった。
木々も峰々も銀の王冠をしずやかにかぶる。
これは気候や季節、緯度の問題ではなく、竜の魔力が滞留しているために起きた積雪だ。彼らは人が容易に入って来れない環境を魔力によってわざと作り出しているのである。
こうした竜の偉大さ、強大さを考えれば、白金渓谷が天然ものの難攻不落の要塞として名を馳せているのも納得がいくだろう。
もちろん、フギンとマテル、それからヴィルヘルミナの三人にそのようなことに感じ入る暇があるかどうかは疑問が残る。
「走れっ! 後ろは振り返るなよ!」
フギンの号令で三人は可能な限り全速力で走り続けた。
メルの案内で渓谷に立ち行ったフギンたちには、景観を楽しんでいる余裕はひとつもなかった。
その後ろを砂埃を巻き上げて追いかけてくる三体の魔物がいる。
発達した後ろ脚で地面を蹴り上げ、長い両腕で地面を抉りながら近づいてくる毛むくじゃらの魔物たちは、いつか見た《雪男》である。
「だ、駄目だ! 追いつかれる!」
地響きを間近に感じ、マテルは悲鳴のような声を上げた。
旅の荷物を抱え、足元も覚束ないような場所では、どうしても速度が落ちる。
必死に走るその隣をメルがまるで小鹿のように駆けている。
「ほらほら、ペース上げて。こんなのいちいち相手にしてたらいつまで経ってもイストワルに着かないよ?」
「イストワルまで無事に送り届けるって話は、どうなったんだ!」
「こうして道案内しているし、荷物だって持ってあげてるじゃないか。君が貧弱なんだよ」
一歩が大きいのか何なのか、必死で足を動かしているフギンの隣で、メルは汗もかかずに悠然としている。
マテルもフギンも怪我をしないように注意するのに必死で、まともについて行けているのはヴィルヘルミナだけだった。
ヴィルヘルミナが怒鳴る。
「思うのだが、白金渓谷を抜けるより迂回路を取ったほうが安全なのではないか!?」
「普通の旅だったらね。まあ見ててごらん」
メルのマントの下から火がついた丸いものが三つ、地面にばら巻かれる。
白い煙があっという間に広がり雪男たちの進路を遮った。
道はちょうど下りの斜面に差し掛かったところだった。
雪男の一体が群れから抜け出て両腕で後肢を抱え込み体を丸めた。下り坂で勢いがついた毛むくじゃらの弾丸が、勢いよく煙幕を破り駆け下りていく。
その先ではフギンたちが驚愕の表情を浮かべていた。
転がり落ちて行く魔物と一行が接触する。
なすすべもなくなぎ倒されようとしたその瞬間、フギンの姿が半透明になってかき消えた。
「か…………間一髪だったね…………」
マテルは少し離れた崖の上で呟いた。
煙幕に隠れて脇道に逸れ、逃げた一行は、幻の自分たちが轢き潰されていく様をぞっとしながら見つめていた。
圧倒的な質量と、運動能力はこれまで見かけた魔物とは一線を画している。
以前、遭遇したときはルビノが一掃してしまったので、どれだけ恐ろしい相手かよくわかっていなかったせいもあるだろう。
「ここから先、白金渓谷の奥深くに棲む魔物はアレ以上に厄介だよ。イストワルの最北端も似たようなもの。君たち、自分たちがどれくらい無茶を言っていたかわかった?」
望遠鏡を手にしたメルが木の上からするする降りてくる。
「で、この先はどうするのだ?」
「もちろん、あんなのと真正面からやってられない。近道をする」
「近道?」
「《夜の乗り物》――――さ」
メルに誘われ、三人の目の前に現れたのは《絹の河》だった。
*
白金渓谷をほぼ南北に横断する《絹の河》はイストワルを越えて北海までつながっている。魔物たちをやり過ごして北の大地を横断する、と聞いて、この大河を利用する案は考えないこともなかった。
ただ、水棲の魔物も脅威であることは間違いなく、白金渓谷に踏み入ること自体が《無茶》であるのは疑いようがない。
しかし、川べりで三人の目の前に現れたものは、貧弱な想像を超える何かだった。
そこには一隻の帆船が停泊していた。
それも大きなマストを三本備えた立派な帆船だ。
船体も船のマストも雪景色に照らされて純白に輝いている。
「船だ!」
三人の誰ともなく、その奇妙な光景に大きな声を上げる。
「い、いやいやいや! 大きな川だけど、さすがにこんな大きな船は航行できないはずだよ!?」
「淡水だしな……」
比較的、理性に準じて生きている自負のあるマテルとフギンは、目の前のものが信じられない様子だ。
不思議に船員らしい姿は一切見えないが、メルたちが近づくと甲板から梯子が下ろされた。
「はやく上がらないと、また魔物が来るよ」
背後の木立の合間に、不気味な影がある。
メルにうながされ、フギンを先頭に、がむしゃらに梯子を登る。
次にマテル、ヴィルヘルミナ、最後にメルが梯子に取りついた。
乗り込んでみると何ということはない普通の船のようにみえた。
船べりから下を見下ろすと、こちらを完全に射程圏内に入れた雪男たちが、地面を四足で蹴りながら全速力で疾駆してくるのが見えた。
「さすがに、あれに突撃されたら船体に穴があくよ」
マテルが不安そうに言ったとき、見知らぬ柔らかな声音が聞こえた。
「錨を上げよ、出港だ」
そのとき、船はふわりと浮き上がった。
目標を見失った魔物は、氷の薄く張った川面に突撃していった。
その間にも、地上の景色がどんどん遠ざかる。
「船が空を飛んでる! 飛んでるぞ!」
「空飛ぶ船…………?」
はしゃぐヴィルヘルミナを横目に、フギンとマテルは周囲を警戒していた。
「わがエヴィエニス号へようこそ、お客人」
誰もいないと思っていた甲板に若い男がひとり立っていた。
高価そうな毛皮のコートに身を包み、どこか品のある顔立ちをした青年だ。白金渓谷の真白な景色にあうような、かえって浮き立っているような、不思議な佇まいである。
ただし、精悍な顔つきの半分は仮面に覆われている。
「お初にお目にかかります。私めはトゥルマリナのしがない商人、シュティレ家のミランと申します」
「商人……? 商船なのか、これは」
高価そうな衣服や立ち居振る舞いは、確かにそれらしくみえる。
だが、フギンは何かミランから言葉に尽くせない《違和感》を感じ取っていた。
「フギン、あいつ、どこからともなく現れたように見えたぞ」
ヴィルヘルミナがこっそりフギンに耳うちする。
メルはミランに対して警戒せずくつろいだ様子だ。
「彼は僕がここに呼んだんだ。この船が君たちが五体満足でイストワルに辿り着くための唯一の手段だからね」
メルが言うと、ミランは笑った。
「これは魔術で動いているのか? こんな大きなものが」
「それは商会きっての秘密ですが……。御覧の通り当家の船は人界にあるいかなる船とも異なる特別な乗り物なのです。海とつながっている水のあるところならどこへでも、文字通り飛んで行くことができるのです」
「どこへでも? それなら、川や水路でつながっていれば、大陸の端から端まで行けるってことか?」
「理論上はそういうことになるでしょう。ですが、流石に王国や帝国の領地をこれで抜けることは、おすすめいたしません」
確かに、川伝いにしか移動できないとはいえこんな大きな船が空を飛んでいるところを人に見られたら、大変な騒ぎになるだろう。
「この世にこんな船があると知ったら、野心的な王侯貴族がみんな欲しがるだろうな」
フギンの頭には、もちろんレヴ王の姿があった。彼が船のことを知ったら、きっと何としても手に入れたいと考えるに違いない。もちろん、軍船としてだ。
命の源である川で繋がってさえいれば、国境を越え攻め込める船だ。見逃すはずがない。
メルがあえて白金渓谷を選んだのも納得がいく。
このあたりには魔物と竜と野生動物がほんの少し、それから力試しをする冒険者くらいしかいない。
「王であれなんであれ、頼まれても余人を乗せぬ船ではありますが、他ならないメルの頼みです。皆さまを目的地まで無事に運ぶとお約束いたします。ごゆるりとおくつろぎください。当家の采配をお気に召しましたなら、どうぞ今後とも御贔屓に」
ミランは商人らしくすらすらと口上を述べ、恭しく腰を折って頭を下げる。
それから「ただし」と付け加える。
「無事に航海を終えるために、絶対に守っていただきたいルールがいくつかあります」
仮面の下は絵に描いたように穏やかで、内心を感じさせない笑顔だが、有無を言わせぬ強さがあった。
ミランがフギンたちに突き付けたルールは三つだ。
ひとつ、夜間は船室から出ないこと。
ひとつ、船員の気配を感じたら、絶対に近づかないでその場を離れること。
ひとつ、フギンはミランに触れないこと。
「何故、フギンだけなのだ?」
「お答えしかねます。ですが、これらの約束を守って頂かねば乗船をお断りしなければなりません」
空を飛んでいる時点で異常ではあるが、そのルールは何か正体不明の異様さがある。
だが拒否するという選択肢はなかった。フギンたちはイストワルに行かねばならないのだし、この船の主はミランである。
フギンたちは少し不思議なルールを守ることを約束し、エヴィエニス号は発進した。
船は滑るように、白色の景色のなかを進んでいく。
飛んでいるので海の上の船旅のように揺れることもない。魔物がいても、それははるか地上の出来事だ。
確かに、これなら雪深いイストワルを楽に踏破できるに違いなかった。
はしゃぐヴィルヘルミナに付き合って、マストに登ったり、舵に触らせてもらったり甲板から遠くに見える竜の影を眺めたりとひとしきりはしゃぎ回った三人は、早々に船室に戻って来た。
白金渓谷の風景は雄大だがある意味単調で、やることがなくなってつまらなくなっただけでなく、マテルとヴィルヘルミナは身を寄せ合い、蒼白な顔で体を震わせていた。
「ものすごく、寒い……」
いかにも名のある商会の持ち船らしい、豪華な船室には清潔な寝台や暖炉まである。船旅につきものの不衛生さや危険とはかけ離れた破格の待遇だ。
だが、暖炉に火を入れて毛布にくるまっても、異常な寒さは収まらない。
「なんだこれ、甲板はふきっ晒しだからわかるが、船室までなぜこんなに冷え込むのだ」
「そんなに寒いのか?」
フギンは平然としている。確かに風を切る寒さは感じるが、それは冬に感じるものと大差ない。
「どうしてフギンは平然としているんだ? 君、寒冷地の出身とかだったっけ?」
「いいや、そういう覚えはない。大陸の北に向かうのもはじめてだ。もしかしたら、体質的に寒さに強いのかもしれないが……。宿に泊まれなくて路地に寝てたときもあったしな」
グローブの下のマテルの手は氷のかたまりのようになっていた。
このままだと、最悪の場合は凍傷になるだろう。
「装備を改めよう」
オリヴィニスを出発するとき、フギンたちはありったけの金を使って寒冷地用の装備を整えていた。相当な痛手だが、ここをけちけちすると命にかかわりかねない。特にマテルやヴィルヘルミナは金属製の鎧を着こんでいる。これが体温を奪い、凍傷を引き起こすため、毛皮の上着は必須だった。
ただ――……。
白金渓谷も相当の寒さだったが、これを着るのを躊躇ったのにはわけがあった。
「誰から着る?」
「こんなところで躊躇っていたら、ほんとうに寒さで死ぬぞ!」
「だって、これはひどいよ」
数分後、三人は色とりどりのまだら模様になっていた。
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