第171話 夜の乗り物《上》
真夜中と言っていい時間になった。
客の最後のひとりを送り出し、みみずく亭の主であるルビノは看板をしまった。
扉を閉めると、誰もいないはずのカウンターに少年の背中がある。
「師匠、もう閉めたところなんですけどね」
「僕が入ったときには、まだ看板は外に出ていたよ。それに、かまどの火を落としたわけじゃないんだろう?」
メルはカウンターに頬杖を突き、不機嫌そうな表情と声だ。
ルビノは気にせず、厨房に入って、残り火を使い自分のために取っておいた食事を温めなおす。それから、話を切り出した。
「どうしてフギンさんたちに《死者の秘宝》について話さなかったんですか?」
弟子から穏やかに訊ねられ、メルはますます不機嫌そうな顔つきになった。
「誰から聞いたの?」
「アトゥさんと、それからマテルさん。律儀な人たちですよ。依頼達成の挨拶に来てくれたんです」
メルは溜息を吐く。
「イストワルを旅することの厳しさは、君も知らないわけじゃないだろ」
「そうっすね。旅するだけならともかく、襲って来る魔物を倒しながらとなると、装備も何もそろっていない初心者の即席のパーティじゃ無理でしょうね。師匠の言うことはごもっともっす」
ルビノはカウンター越しに、にこやかな笑顔だった。
「……何か言いたげな顔だね」
「師匠なら、秘密の抜け道をご存知でしょう? 即席のパーティでも、イストワルを踏破して目的の物を手に入れる方法」
ルビノは笑顔で、子供のようにすねているメルと見つめあう。
そして、一言だけ口にした。
「羊」
長い、長い沈黙が降りた。
メルは出来得る限り怖い顔で弟子を睨みつけていたが、弟子は変わらずに微笑んでいるだけだ。
勝利を確信している顔だ。
メルは、背の高い椅子から降りた。
「…………ちょっと、出て来る」
「はい、行ってらっしゃいっす」
ちらりと後ろを振り返りながら、みみずく亭の扉を出て丁寧に閉める。
「だから! あいつは嫌いなんだ!」
次の瞬間、メルは駆けだした。
*
粗末な木枠に干し草が敷き詰められている。その上に申し訳程度にすり切れた毛布が乗っていた。
マテルとフギンは並んで寝台を見つめて感想を述べる。
「これが、今日の寝床かあ……」
「屋根がついててよかったな」
「ほんとほんと」
これまでの旅の最低最悪を野宿だとすると、宿に泊まれただけありがたい。三時間交代で見張りをしなくてもすむし、雨の冷たさや空腹に凍えることもないのだ。
とはいえオリヴィニスが混乱の最中にさえなければ、もう少し寝心地の良いベットにありつけただろうことは確かだ。
装備を外し、ランプの明かりを消して横になった。
マテルはフギンに問いかける。
「昼間の話、どう思った? 何か思い出したこととか、ある?」
フギンは横に首を振る。
「まるでよく知らない他人のことみたいだ。マテルは?」
話を振られて、マテルも同じように首を振った。
「でも、おじいちゃんがなんで僕や父さんにメイスを受け継がせようとしたかがちょっとわかったし、《例の鎧》の出所も、これで納得がいく」
「歴史の古い王家の品なら確かに納得だな」
「おじいちゃんは本当に何も言わずに亡くなったんだ。それならそうと言っておいてほしかったよ」
「ギルド長が言った通り古グリシナ王国はすでに滅んだ。王家の血筋も絶えたのだから、伝える必要はないとでも思ったんじゃないか?」
「ルナール家のフェイリュア……グリシナ王国の最後のお姫様か。ベテル帝の時代の人となると、普通にしていても亡くなっていたと思うけれど」
シャグランは帝国に人質という形で捕らわれていたフェイリュアを転移魔術を使って王国へと導いた。叡知の真珠の記述からは気がつかなかったが、あれは亡命ということになるのだろう。常識的に考えればフェイリュアはそこで亡くなったはずだ。彼女の立場からすると逃げ出した帝国に戻るという選択肢はなく、王国の庇護下でなければ生きてはいけないだろう。
「あくまで推測だが、騎士の家系はもうひとつ残っていると思う」
マテルはベッドの上で身じろぎする。フギンのほうを見ると、彼はベッドの上で体を起こしたまま小窓に浮かぶ月を睨んでいた。
「ミダイヤだ」
マテルはあっと声を上げそうになった。
フギンを守るという誓いをいびつな形で、けれども忠実に守り続けたミダイヤの生き方は《秘密》を代々受け継いできたマジョアのそれと重なりあう。
「先祖代々の戦士の家系。俺を守るという約束を、戦士の誓いだと言っていたが……あれは本当は騎士の誓いなんじゃないのか」
「でも、どうして? まさかフギンの中に《フェイリュア》の魂があるから?」
「そうかもしれないが、わからない。どんな経緯であれ、既に亡んでしまった血筋のために騎士の誓いを守り通す意味があるのかどうか……。もしもフェイリュアの魂だけが問題なのだとしたら、いっそ俺を殺せばその魂は解放されるんじゃないのか」
「さすがにそれは乱暴じゃないかな」
「騎士の血筋を絶やさずに、使命とやらを継いで永遠を生きる不死者を守り続けるほうがある意味乱暴だ。それはもはや狂気だ」
「まあ、確かに」
マテルはうっかり納得してしまう。王家の血筋がいかに尊くとも、永遠という時間の前では血の高貴さなど些末な問題だ。
そもそもミダイヤはフギンのことを憎んでいる。いないほうがいいとも言っていた。ためらう理由もなさそうだ。
「それにミダイヤは《果ての場所で待つ》と言っていた。オリヴィニスがそうで、王国が旅の終着点なんだとしたら、ここにミダイヤがいるはずだ」
オリヴィニスにはミダイヤの姿かたちもない。
まだフギンには知るべきことややるべきことがあるということだろうか。
「それとも、ミシエとミシスが言っていたとおり、こうして旅をすることに意味があるのかもしれないな」
「くたくたになるまで歩いて、敷き藁のベッドで眠ることに、何か意味が?」
「旅に出たときは野宿をしたがったのに、すごい成長だ」
皮肉を言い合って、笑う。
薄暗い部屋だが、フギンも笑っていたと思う。
「旅が終わったら、亡くなった人たちの弔いをしなければいけない……」
フギンはぽつりとそうこぼした。
その声に悲愴感はない。少なくとも、動揺して氾濫する川に落ちるなんてことはなさそうで、あくまでも平静を保っていた。
内心はどうあれ彼は旅を通じて彼は強くなったんだと感じる。
「しかし、ミダイヤを探す旅なんて考えるだけで憂鬱だね」
どちらかといえばいじめられる側だったマテルにとっては――無論、いじめてる方は、マテルが本気になればメイスを振り回して悪ガキどもの頭を砕いて回れることを知らなかった――あまり積極的にかかわりたいタイプの人間ではない。
「案外、近くにいるかもしれない。ザフィリにいたときなんか泊っている宿に突撃してきた。あれは心底、怖かったな……」
「なんだいそれ、そんなこと言われたら急に戸締りが心配になってくるじゃないか」
マテルは跳ね起きて廊下の扉を確かめ、小さな留め金がかかっているだけの窓に近づく。
どちらも一応は施錠されている。
寝台に戻ろうと背を向けた、そのとき。
「…………ん?」
不意に部屋が薄暗くなる。違和感を感じて窓を見上げると、靴底の裏が乱暴に窓枠を蹴りつけ、留め金が勢いよく外れたところが見えた。
「なっ!」
なんで、という言葉が言葉に漏れずに、ブーツの靴底が部屋に飛び込んできた。
不躾な足は頭部をかばうマテルの両手ごと踏みつけ、床に押し倒す。
「なっ、なに、何事!?」
マテルは起き上がろうとしてもがくが、上手くいかない。
マテルの腕を押さえつけている片足一本を通して、全身をコントロールされているのがわかる。どうやっても床に繋ぎ止められたまま起き上がれないし、振り払うこともできなかった。
フギンが明かりを点けた。
そこにいたのは、昼間、森で姿をくらましたはずの不死者の少年・メルである。
メルはぶっきらぼうに言う。
「君たち、イストワルに行くの? 行かないの? どっち?」
「は…………?」
マテルが疑問を口にした瞬間、廊下のほうの扉の金具も弾けとんだ。
ネグリジェ姿で寝ぼけたヴィルヘルミナが、細長いパンを二本、両手に持って立っていた。
「なんだ!? 敵襲かっ!?」
ヴィルヘルミナは室内の混乱を眺め渡し、真夜中の闖入者ではなく、寝込みを襲われた仲間たちに焦点を合わせた。
そして頬を赤らめ、わざとらしく視線をそらす。
「な…………何故!? 何故、フギンとマテルは裸なのだっ?」
「下着は洗濯して干してるからだよ!」
「よ、よせ、言い訳などしなくても、私にはわかっているのだぞ……!」
「ねえ、質問の答えがまだなんだけど」
「お願いだから一旦、外に出てってくれないかな!?」
マテルは渾身の力で叫んだ。
*
宿の主は真夜中の騒音を注意しに来たが、メルがいるのを見ると何もかもを納得したように、とくに何も言わずに帰って行った。
「なんでメルメル師匠がここにいるんだ?」
濡れた下着にむりやり袖を通したフギンは、不快さに眉をしかめながら言う。
メルもまた、メルメル師匠、というお決まりのあだ名を耳にして、不機嫌さに拍車をかけたようだった。
「そのあだ名、誰から聞いたの」
「みみずく亭のルビノ」
他に誰がいるだろうか。当たり前の質問を投げかけておきながら、メルは思いっきり眉をしかめた。
「イストワルの凍りついた湖に頭から突き落とされたくなかったら、その呼び方は忘れるんだ。いいね」
「なあ、こいつ、けっこうミダイヤ寄りの性格してないか……?」
夜中に乱入してきた挙句、この上から目線である。
フギンが小声で呟いたのも無理もない。
マテルはコメントを差し控えた。これ以上機嫌を損なうと、ほんとうに何が起きるかわからないことを悟ったからだ。
「記憶が確かなら、俺たちにはまだイストワルを踏破する力も資格もないって言っていなかったか?」
「まーね。でも方法が無くもない」
「なんで急に」
「質問は受け付けない。少なくとも迷宮の入口までは責任もって送り届けてあげるよ。どうする?」
メルは懐から大陸の地図を取り出す。
折りたたまれたそれをフギンに差し出した。
「《死者の秘宝》は光女神がイストワルの天秤に授けた力を一時的に呼び覚ます。死者との交霊を可能にする宝だ。それでアラリドを呼び出せば、君の眠れる魂を目覚めさせることができるだろう」
「確かなのか」
「積極的に薦めはしない。決断するのは君だ。ほかの誰でもない」
フギンはメルが差し出した地図に手を伸ばした。
「アーカンシエルでシャグランがしたことが、本当に俺自身のことなんだという確信が欲しい。つぐないのためにも……」
フギンの手に、マテルとヴィルヘルミナの手が重なる。
三人の手に地図が引き渡された。
「明日の朝、迎えに来るよ。寒冷地に行くのに装備がそれじゃ確実に凍死するから、まずは準備だね」
メルは部屋を出ていく。
安宿の外に出ても、フギンとマテルの部屋には光が灯っていた。
新しい地図を広げ、これからの旅について話し合っているのだろう。
その光を、メルはまぶしそうに目を細めて見ている。かつて仲間に囲まれていた頃を思い出しているのかと思いきや、その思惑はどうやら違っているようだ。
「あいつ、自分のことを人間だと思っているんだな……」
夜闇に紛れこみながら、そう誰にともなく呟いた。
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