第170話 重たい荷物
「僕は彼が気に食わない。だけどそれは依頼のこととは関係ないよ」
メルは落ち着いた声音でそう言った。
マジョアはその落ち着きぶりにむしろ腹を立てているようすで、責めるように言う。
「正気で言っとるのか、メル。あの惨状を忘れたわけではあるまい。お前も死んでいく母親とその子を腕の中で看取ったではないか」
「いいかい、マジョア。どんな依頼であれ、依頼を受けるかどうかの決断を下したのは自分自身だ。誰かにそうしろと命じられたからではないし、騙されたのでもない。誰が《戦線》の指導者だったにせよ、それを責めようとは思わない」
メルは毅然としていた。
薄青の瞳に見据えられ、老練そのもののマジョアが言葉をうしなうのを見ながら、マテルはこの少年が普通ではないことを肌で感じていた。
地獄そのものの惨状を経験しながら、それを自分自身の決断として受け止める強さを、人は持たないだろう。
人は弱い。
どうしようもない困難を前にしたとき、悲劇を目にしたとき、つい、そうではないとわかっていても……誰が悪かったのかと犯人探しをしてしまうものだ。
「あの仕事を受けると決めたのは、あくまでも僕だ。もちろん、マジョア、君がグリシナの騎士の血筋だったからでもないよ」
グリシナの騎士、という言葉を、マテルたちは知っていた。
旅の途中に何度かその言葉を耳にしていたからだ。一度目はマレヨナ丘陵地帯にあるテデレ村の宿屋、そして二度目はグリシナ解放戦線のアジト跡だ。
メルは戸惑うマテルを見上げて言う。
「マジョアはグリシナの血を引いているんだ。君もそうだよ、ヴィールテス」
いきなり話を振られ、マテルは面食らう。
「ヴィールテスは戦槌の名手だったと言われてる騎士の名だ。君の先祖は帝国にまぎれて暮らし、家名を得るとき、その名前に使命を織り込んだんだ。オリヴェ・ヴィールテスから何も聞いてないのかい?」
「いいえ、何も……」
「じゃあ、オリヴェは孫に役目を受け継がせないことにしたんだね……。それも選択だ」
オリヴェ・ヴィールテスはマテルの祖父の名前だ。
まさか、という思いと、もしかしたら、という思いが絡み合う。
「教えてください、祖父は冒険者なのだとずっと思っていました。騎士って? 騎士の役目っていったい何なのですか」
「オリヴェが伝えなかったことを話すことはできない。そもそも、これはグリシナ王家の話であって、僕は傍観者でしかない。そうだろ、マジョア」
どれだけやりこめられていたとしても、マジョアの眼差しは鋭い。
そして簡単には胸襟を開いてはくれない頑固さが滲んでいる。
「…………長きにわたり我々は秘密の使命を帯びてきた。だが時代は変わった。グリシナは滅び、仕えるべき主君もいない。役目を降りたとしても、いまさら咎めだてされるいわれはない」
重大なヒントがいくつも目の前に瞬いているのに、そのどれもがさっと取り上げられてしまう。
先ほどから、マテルはどうしたら答えを得られるのか必死に考えているのだが、名案は思いつかない。
会話が途切れた頃に、意外なところから助け舟が出された。
「騎士たちの役目は……姫君の奪還だ」
それはフギンの声だった。
もうひとりの不死者はそこにシャグランの面影を探すかのように両手をじっと見つめ、再び顔を上げた。
「旅の途中に目にした騎士道物語は、ただの物語ではないんだ。グリシナ王国は滅ぼされたが、それは姫君を身代わりにしてのこと。騎士たちは生き延び、ひそかに帝国に奪われた王位継承者の奪還、そして王家の再興に望みを繋いでいた。だからこそ、解放戦線はグリシナの物語を刻んだ彫刻を自分たちの旗印にしていたんだ。そうじゃないのか? マジョアギルド長、あなたはフェイリュアという名前に覚えがあるはずだ」
もちろん、マテルやヴィルヘルミナもその名前に覚えがないはずがなかった。《叡智の真珠》に記述されたシャグランの恋人の名前だ。
マジョアははじめは迷っていた様子だった。
だが、苦しげに頷いた。隠し通せないと観念したのかもしれない。
「わしらには先祖から伝え聞いていた秘密の名前がある。それこそが、グリシナ王国に連なる最後の王家の血。それがルナール家のフェイリュアだ……」
語られた名前が、過去と現在を繋ぐ。
マジョアの言葉が確かなら、フェイリュアは、単なる宮廷魔術師の恋人ではなかった。彼女こそが《帝国に奪われた姫君》なのだ。
「つまり、シャグランは姫君の奪還に成功したのですね……!」
シャグランは仲間たちとの賭けに乗じ、当時はまだ未完成で不安定だった転移魔術を使い、フェイリュアを王国領へと呼び寄せた。
たとえ危険であっても、そうする必要があったのだ。
それにしては、マジョアの悲痛な表情が晴れない。
「王女殿下は亡くなられたと聞いている。それによって王家の血筋は絶え、騎士の役目は消え果てたのだ」
マジョアはそれきり口を噤んだ。
メルはトゥジャンが淹れたお茶を飲みながら、マテルとフギンに向き直る。
「残念だけど、これが僕たちから君たちに話せるすべてのことだと思う」
「待ってください。もっと詳しく話をしてくれませんか」
「忘れてるようだけど、僕らはただの冒険者だ。この世のすべてを知っているわけではない。シャグランのことも知っているのはほんの一部に過ぎない」
メルはあっさりと言う。
「《死者の秘宝》があれば、アラリドの魂を呼び出せるけど、君たちには無理だと思う。過酷なイストワルの大地を踏破するために必要なものは、単純な強さとは違う。君たちにはその資格がない。だから、この話はここで終わりだ」
メルは茶器を置いて立ち上がる。
マテルは慌ててその後を追った。
「待って、待ってください」
「ヴィールテス、時代が終わってしまったんだよ。騎士たちの時代はね」
「僕は《ヴィールテス》じゃない。騎士だとか、そういうのもよくわかりません。そうじゃなくて、ただ、フギンの力になりたいだけなんです」
「だったら、なおのこと、君たちが望む通りにすればいい。ただし、オリヴィニスを巻き込むのは筋違いだ」
メルは湖畔から離れ、森の中へと飛び込む。
マテルはしばらく後を追ったが、やがて立ち尽くした。
藪を踏み分ける音が、自分ひとり分しか聞こえなくなっていたからだ。
追いかけていたはずの背中は緑に紛れ、その気配は小鳥のさえずりの裏側に、濃い自然のにおいにたちまち覆い隠されてしまう。
マテルは小さな痛みを感じ、手のひらを見た。
植物の棘で突いたのかもしれない。
いつの間にか、指先に小さな切り傷ができていた。
ザフィリにいた頃は仕事道具として、命のように、相棒のように大切にしていた手のひらは、長い旅路の間にいつしか傷だらけになっていた。
資格がない。
そう言ったメルの言葉は正しい。
そして熟練の冒険者だからこそ言える言葉だ。
自分がどうあるべきかを見失わないからこそ、どんなときも彼は毅然としていられる。
だとしたら、自分は何者なのだろう。
この旅の間、フギンが背負っていた重たい荷物が、そっとマテルに覆いかぶさる。こんなに重たいものを背負っていたのかと、しばらく愕然とする。
わかっている気がしていたが、本当は何ひとつとしてわかっていなかったのだ。
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