第169話 あなたに会いたくて
目の前で釣りをしている少年に特に変わったところはない。
薄青の瞳や柔らかな髪の毛、つんと澄ました唇はただの子どものように見える。
かつて赤褐色をした大理石の街でフギンは夢を見た。
この窮屈な街を出て行けば自分が何者で何をすべきなのかがわかるんじゃないかと、そういう希望を描いた。
そのキッカケが《不死の少年》だ。
それがいま、まさに目の前にいる。
自分自身の手が届くところにいるのだ。
「メル……なんだよな?」
メルは眉間に深い皺を三本ほど刻み、竿の先を動かして魚を探している。
「そう。その通り。どこで知ったか知らないけど、僕がメルだね」
メルは答えた。一度もフギンのことを見なかった。
あれほど待ち望んだ対面なのに、そこにあるのは《拒絶》だった。
何故かはわからない。彼はフギンを拒んでいる。
「…………悪いが、お三方。時間切れみたいだ」
フギンは背後を振り返る。
アトゥとノックスが気まずそうに両手を挙げている。アトゥの首筋には剣の刃が、ノックスの背中には魔術師の杖がぴたりと向けられていた。
ふたりの後ろには甲冑を着こんだ銀髪の老人と禿頭の老魔術師が立っていた。
「メルに質問があるのなら、わしらから答えさせてもらおうかの」
「あなたは?」
「わしはマジョアじゃ。冒険者ギルド長、と言ったらわかるじゃろう」
マテルとヴィルヘルミナは驚く。
冒険者たちは自由気ままだが、全ての冒険者たちの行く先をそれとなく決めているのが冒険者ギルドであり、ギルド長はその頭領とでも言うべき存在だ。
そしてメルとヨカテルのかつての仲間たちでもある。
「さて、ここにいる全員、ギルドに来てもらうぞ」
そう言って凄まれたなら、吹けば飛ぶくらいの存在感でしかないマテルとフギンには頷くしか選択肢がない。
しかし「いやだ」と面と向かって言った者がいる。メルだった。
「僕はここで釣りをする。せっかくヨーンとコナが誘いに来てくれたんだからね」
あまりにも傍若無人で、それでいて毅然とした態度だった。
ヨーンは恐らく、アトゥからメルをここに呼び出すよう頼まれていたに違いない。コナも困った顔だ。
マジョアはギルド長に相応しい厳格な表情を向ける。
「では、こういうことになるがいいかね?」
老魔術師――魔術師ギルド長のトゥジャン――はバスケットを持ち上げて見せた。
*
湖畔に、足元が濡れないよう敷き布を広げた。
皿や茶器を人数分並べ、中央にはバスケットに詰まったサンドイッチやパイを配置する。ルビノは稼ぎ時で店から離れられないとのことだが、食べ物はみみずく亭からの差し入れだ。手の平くらいの大きさのパイはいい焼き具合で、きつね色に輝いている。
湯や水は魔法でなんとかなる。
皿や茶器、そして茶を淹れるための茶葉はトゥジャン老師が懐から取り出した。
彼は懐に忍ばせた鏡に手を突っ込み、瞬くまに必要なものを揃えていく。
フギンはその技がかなり高等なものであることを看破し、活版印刷機を初めてみたときのように目を輝かせる。
ヴィルヘルミナは色とりどりのサンドイッチを前に《全部食べたい》の顔をしているし、マテルはそんな彼女のために、自分の分け前を半分に割って分ける準備をしている。
アトゥとノックスはこま切れになっている野性味あふれる具材が食用に値するものであることをそれぞれのやり方で天に祈っていた。
マジョアは皿の底をフォークで叩き鳴らし、怒鳴った。
「なごむでないわっ!!」
「行儀が悪いぞ、マジョアよ」と、トゥジャンが真面目に言う。
「ええい、なんなんだ、おまえらは! 楽しくピクニックなんかしとる場合か。とくにアトゥ! お前、わしに何か言うことがあるだろう」
マジョアの眼光は鋭い。ただの老人のものではない。
それが自分たちに向けられたものだったなら、フギンもマテルも、ただ肩を縮こまらせているしかなかったが、アトゥはさすがにオリヴィニスで金板まで登りつめただけはある。単に開き直っているだけかもしれないが、堂々としてみえた。
「わしらを出し抜いてフギンとメルを会わせるよう手筈を整え、しかも仲間を使って、ここに来るまでの時間稼ぎをしていただろう」
あの狼煙はそういうことだったのか、とフギンは納得する。
マジョアとトゥジャン老師ははじめからフギンたちを探していたのだ。捕まったら最後、問答無用でギルドに連行されてしまっていただろう。
その間隙を突いて、メルに会わせようとしてくれたのだ。
「悪いが、ギルドの箝口令にはなんにも違反しちゃないぜ。ルビノの師匠がメルだっていうことについては誰ひとり口を滑らせてないんだからな。街に不慣れな新入りを案内してやっただけさ」
「白々しい。ヨカテルもヨカテルじゃ。あいつは昔から信用ならん。メルが不死者であると、どこで知ったのだ」
マテルは荷物の中から、旅立つきっかけとなった一冊の本を取り出した。
本の末尾に《キュイス・ギャレイ》の名を見つけ、マジョアは目を細めた。
「フギンもメルと同じく不死者なのです。でも、彼は記憶を失っていて……彼の出自に関することがわかるんじゃないかと、ここまで旅をして来たんです。旅に出ようと言ったのはこの僕です。そのことでお咎めがあるなら、僕が受けます」
「ギルド長。彼らは信用のおける人間です」
躊躇いがちに、けれどもはっきりした声音でノックスが言う。
「王都での暴動の折、彼らは危険を省みず、取り残された先祖返りたちの脱出に手を貸してくれたのです。その勇気と奉仕の心に報いてもいいのではありませんか」
ノックスがアトゥたちに協力していたのはフギンたちの味方になるためだったのだろう。思ったよりずっと義理堅い人物だ。
しかしマジョアは渋い表情だ。
「仲間からの信頼もあつく、優しく正義の心を持つ。だからこそ……。だからこそ、ということもあるのだ」
「もしかして、あなた方はフギンのことを知っているのですか?」
マテルは問いかけた。
少なくとも、メルはフギンを認識しているような口ぶりだった。
マジョアはむっつりと黙り込む。その表情は暗い。
わかりに質問に答えたのはトゥジャン老師だった。彼は敷き布に正座し目を閉じたまま答える。
「知っている。だが、会ったことはない。といったところだな」
「知っていても、会ったことはない……?」
「そうだ。私たちが現役の冒険者だった頃、とある依頼でその存在を知った」
思っていた状況とは違っていたが、待ち望んだ情報だった。このチャンスを逃してはいけないとマテルははやる心を押さえながら訊ねる。
「お願いです、詳しく話して下さいませんか」
「いいだろう。だが記憶を失う前の彼は、もしかすると今の彼とは別人かもしれない。後悔しないかどうかよく考えるといい。マジョアが言っているのはそういうことなのだ」
フギンは途方に暮れている。
ザフィリにいた頃と同じように、立ち竦んでいるようにみえた。
本音を言えばマテルも怖い。もしかしたらフギンはマテルの思うような人間ではないのかもしれない。そのことがとうとうわかってしまうのかもしれない。
思えば、その可能性はずっと前からあったのだ。
デゼルトでガロの親方に偶然出くわしたときにフギンはマテルに聞いた。
《もしも自分が悪人だったらどうする?》
マテルは覚悟を決めて問いかけに答えた。
「フギン。君がどんな人間だったとしても、旅に出たことを後悔したりはしない。僕は君の友達だ」
フギンは頷いた。
ふたりの覚悟が決まったのを受け、まずはトゥジャン老師がゆっくりと語りはじめた。
「およそ五十年前のことだ。私もマジョアも若く、未熟だった。変わらないのはメルだけだな」
それを受けてマジョアも重苦しい口を開く。
「冒険者は政治的なことには介入せん。じゃが、あの当時の帝国のやり方は悪辣が過ぎた。わしらは……秘密裡にグリシナ解放戦線と呼ばれる反帝国の活動家たちと組んで、帝国を追われた者の脱出を手伝っておったのじゃよ」
ベテル帝が恐怖によって民を支配していた時代から少し下っても、依然として迫害は続いていた。先祖返りや、属国となった国の出身者、そして少しでも帝国に反抗的な人物、ベテル帝が書き直させた教典に従わない信仰者や司祭は一人残らず殺されてしまう。
それもある日突然、異端審問官と呼ばれる赤いローブを着た者たちが押しかけてどこへともなく連れて行かれてしまうのだ。
グリシナ解放戦線はそんな人々を助けるために立ち上がった。
主な構成員は《獣人》と呼ばれていた、先祖返りの特徴を強くを持つ人々だ。元々アーカンシエル近辺に多く住んでいたというが、彼らが組織化して反帝国の活動を続けていたのだ。
「とはいえ冒険者たちが手を貸した頃の組織は壊滅状態で、帝国の包囲網は狭まり、取れる脱出経路はほとんど無かった。苦心の末、わしらが考えだしたのはアーカンシエルを北上し、白金渓谷を抜け、大陸北部から船に乗せるという過酷なものじゃった。戻れば死を待つだけ、しかし進むも地獄よ」
マジョアは淡々とその惨状を語る。
魔物と竜が蠢く白金渓谷ならば、追手がかかる心配もない。
だが、なんとか帝国を脱出した人々は、その時点で既に半死半生の有様だった。
中には拷問を受けて怪我をしていた者もいる。それに命からがら逃げ出して来た人々は着る物も食べ物も持ってはいない。はじめから渓谷を踏破できる力はなかった。人々は寒さと飢えで弱り、弱った者から魔物の毒牙にかかった。
自分たちの分まで薬や食料を与えて、何とか生き延びさせても、ひとり、またひとりと倒れていくのを止められない。
それでも帝国領に留まれば捕まって拷問を受け、死を待つしかない人々だ。歩みを止めることもできないままに、安住の地を求めた脱出はいつの間にか葬列となっていた。
「ぶじに港に辿りつけた者は片手で数える程度じゃった」
解放戦線はそれでも戦うことを選んだが、マジョアたちが脱出に手を貸すことは二度となかった。
まさに悲劇としか呼びようのない話だ。
「初めて聞くお話です」
呆然としながらマテルは言った。
しかし、それはマテルが物を知らないからではない。
帝国は迫害の歴史を記録していないのだ。
「……ですが、それがフギンと何の関係があるのですか」
「わしらが聞いた情報が真実かどうか……。はっきりとはせんが、グリシナ解放戦線の指導者は《導師シャグラン》と呼ばれておったのだ」
マテルとヴィルヘルミナははっとしてフギンを見る。
「彼らはシャグランが《不死の存在》であると信じておった。そして戦い続け、そして一人残さず死んだのじゃ。どうじゃ、その名前に覚えがあるだろう……」
「でたらめを言うな、フギンはそんなことしない!」
ヴィルヘルミナがすぐさま否定する。
「フギンは冷静で合理的な男だ。無茶だとわかりきっている旅に無辜の人々を送り出すようなことはしない!」
「話によると、彼は仲間のためにセルタスに勝負を挑んだそうだな。大切な人や信義のためなら、人はいつもとは異なる行動をとる。そういうものではないかね、お嬢さん」
トゥジャン老師が静かに訊ねる。
ヴィルヘルミナは苦しい顔つきだ。フギンが師匠連の魔術師に勝ち目のない戦いを挑んだのは、それは他ならないヴィルヘルミナ自身のためだからだ。
何より、フギンが否定しない。
フギンはただ黙って話を聞いているだけだ。
「だけど……でも、違うったら違う!」
そう言いたい気持ちはマテルも痛いほどに理解できる。
フギンは冷たく感じられることはあるが、冷酷ではない。自分ひとりが犠牲になるならともかく、勝ち目がない戦いを先導し、たくさんの犠牲を出すことはしないと信じたい。
しかし、感情や憶測では誰も納得しないだろう。
マテルは冷静になるように努めて言った。
「あなた方は直接シャグランに会ったわけではないんですよね。なのにどうして《導師シャグラン》がフギンと同一人物であるとわかるのですか?」
「確かにわしらはシャグランと顔を合わせたことはない。じゃが、メルはちがう。それに、不死者と呼ばれる者たちがそうそう何人も大陸にいるわけではない」
銀色の眼差しが釣り糸を垂れたまま、じっと湖面を見つめている少年の背中に向かう。
話は聞こえているだろうが、こちらを振り向きもしない。
過去に起きたことを思えば当然かもしれない。シャグランが何者にせよ、彼は自らがしたことの責任を放棄し、他人に委ねたのだ。
「それと…………先日、ギルドを訪ねて来た《獣人》の件もだろう?」
マジョアがアトゥを睨みつける。アトゥは口笛を吹いてごまかしている。
助け船のつもりだろう。
「獣人? なんのお話ですか」
「《グリシナ解放戦線》の使者と名乗る娘が先日、ギルドを訪ねて来たのだ」
トゥジャンが静かに答えた。
明らかにおかしい話だ。
「でも、その組織は帝国に滅ぼされたのですよね?」
「そのはずだが、何故いまさら現れたのかは誰も知らん。アリッシュという娘が、《フギン》を探し出して保護したいと言い出しおったのじゃ」
「だって、それは、ありえません」
マテルはフギンに死者の魂に触れる力があること、その力によってアリッシュの魂をアジトに残された白骨から読み取っていることを話す。
彼女は既に死んでいるのだ。
おそらく、組織が滅んだのと同じタイミングでだ。
「信じてくださるかは、そちらの判断に委ねるしかありませんが……嘘ではありません」
「では、何者かが《アリッシュ》の名前を騙っているというのか?」
「それだけじゃないぞ、じいさん方。こうしている今も、アリッシュと名乗る獣人はオリヴィニスにいて、同じ話を街中の冒険者に持ち掛けてるんだ」
アトゥが言うには、アリッシュは街のいずこへでも煙のように現れて、金貨を見せ、《フギンは街に災厄をもたらすバケモノだ。連れて来れば欲しいだけ金をくれてやる》と持ち掛けて回っている。もちろんオリヴィニスのまともな冒険者は怪しい話を聞こうともしない。
「だが、今は街にオリヴィニスの流儀を知らない連中が増えてるからな。小金を稼ごうって輩が現れないとも限らないぜ」
フギンたちが王都から戻って来てからというもの、妙な連中に声をかけられたり、変な目で見られていたのはそのせいだったのだ。
もちろんギルドもそういう不審者を野放しにしていたわけではない。
アリッシュを捕まえようとそれなりに努力してみたものの、煙のようにどこからともなく現れたと思えば、やはり煙のように消えてしまう。
誰にも捕まえられないうちに噂だけがひとり歩きしてしまっていた。
「明らかにお前たちをはめるための罠じゃろう。その罠がどう作動するのかは皆目見当がつかんが、できれば早急にオリヴィニスを離れたほうがいいじゃろうな」
「そ、そんな! 僕たち、フギンの正体を知りたくてここまで必死に旅をして来たのに……」
「そうは言っても、わしらもメルの正体がわかってるわけではない。長いつきあいでも、わからんもんはわからん。そういうもんだと思うしかないじゃろ」
「あるいは、アラリドならば何か力になれたかもしれんな」
トゥジャンが何気なく口にした《アラリド》という名前によって全員が沈黙する。それもただの沈黙ではない。
マジョアは信じられないものを見る目つきで隣の老魔術師を見つめていたし、アトゥとそれとなくこちらの様子をうかがっていたヨーンも驚愕の表情だ。かわいそうなノックスなどはわざとらしく両手で耳を塞いで聞こえないフリをしている。
「アラリドというのは…………?」
「わしらの昔の仲間じゃ。死者と対話する力の持ち主じゃったが、もうとっくの昔に亡くなっておる。過ぎたことを悔いても始まらんわい」
「時間を巻き戻す方法がなくもないよ」
横合いからバスケットのパイに伸びる手を見て、マテルはびっくりした。
先ほどまで誰もいなかったはずなのに、ついさっきまで湖で釣りをしていたメルその人が無造作に腰かけていたからだ。
足音はおろか、まったく近づいてきた気配がしなかった。
背後を振り返ると釣り針のない竿が放り出してある。
餌ごと食いちぎられたのだろう。
「北の大地イストワルにある《死者の秘宝》を使えば……ね」
メルは挽肉の入ったパイにかじりつく。
そして眉を思いっきりしかめた。フィリングから爬虫類の尻尾を引き出して地面に吐き捨てる。
「メル……。お前はフギンを嫌っておったのではなかったのか?」
「確かに、僕はこいつが好きではない。あまり……」
「なんでなのだ?」とヴィルヘルミナが端的に聞きにくいことを質問する。「過去の依頼が原因なのか?」
だが、返ってきた答えは単純だった。
「性格的に合わない」
少しだけ間があった。
「それだけ?」
「それだけ」
アトゥが無言で頷いた。
では、仕方がないな、とヴィルヘルミナが言った。
マジョアは信じられないものを見る目つきでメルを見つめていた。
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