第162話 戴冠式《中》
フギンとマテルは事態に気がついた瞬間、すぐさまその場に跪いた。
コルンフォリ王国は聖都アンテノーラや学都ミグラテールを擁する歴史の古い国家で、周辺諸国家と強固な同盟を結び、穏やかに大陸の西を統治している。
目の前にいる若者は、戴冠式を迎えれば、新王の玉座に腰を据え、同盟の主となるべき存在なのである。
「なんだ、それならそうと早く言ってくれればよかったのに」
ヴィルヘルミナだけが、そう言って起立したままである。
「ばかっ、ヴィルヘルミナ、ばかっ」
「今度こそ殺されるぞ、お前!」
王太子レヴといえば王弟ルグレと組んで挙兵した義弟アンスタンを、みずから兵を率い、半年足らずで瞬く間に制圧してしまったという武闘派でもある。
ただ、明るい金色の髪をひとつに結びなびかせ、青い瞳を輝かせた貴公子に、弟殺しの後ろ暗さは感じられない。
レヴはにっこりと満面な笑みを浮かべ、明るい声音で言った。
「ああ、全然、起立したままでも構わないよ。こういうの、最近の流行小説だとこんなふうに言うんでしょう? 《ふふ……、おもしろい娘だ。余の妃になれ》……って!」
「王子! お戯れが過ぎます」
「そうかなあ。そもそも宮中にまで呼びつけておいて、取り込み中で満足におもてなしもできないって言うんだから、失礼なのはこちらの方さ」
取り込み中、と言った通り、レヴは来客を迎えていたようだ。
机を挟んで太った貴族らしい男と何か話をしているようだ。
そのそばで、廷臣らしい人物らがそれを取り囲んでいる。
「後悔なさいますぞ、王子」と、太った男が言う。
「後悔? 何に後悔するって言うんだい? パンゴワン宰相殿」と、レヴがなげやりな態度で返す。
「貴方様は王国の歴史に、そしてご先祖代々の王家の歴史に傷をつけようとなさっておいでです。それも癒えぬ深い傷痕です」
「パンゴワン……」と言ってレヴは眉をひそめる。「お前が言うところの王家とは何なのだ。聖女リジアによって授けられる王冠によって、私もその列に連なるのではないのか?」
明らかに王子の機嫌を損ねたにも関わらず、相対する絹のシャツと天鵞絨の上着をまとった
「では失礼を承知で申し上げます。これまで通りになさいませ。貴方様は政治にかかわらず、すべて私共に任せておけばよい。それか、影武者を立てれば良いことです。いたずらに民の心を惑わすは、為政者のなさることではありませんぞ」
「あなたはご自分が何をなさっているか理解しておられるのですか、パンゴワン殿」
ふたりの会話に口を挟んだのはグレオンだ。
フギンたちは何がなんだかわからないまま、息をひそめて会話に耳をそば立てているしかない。
「王権を継ぐのは最早レヴ様しかおられぬのですぞ。廷臣の皆さま方も目を覚まされよ。もしもルグレが王権を奪い、ヴェルミリオンの意のままに操られることがあったなら、あなた方の命も危うかったのです。レヴ様をないがしろにするのは奸臣のすることです!」
「王子の犬どもは黙って見ておれ! グレオン、貴殿は王陛下の時代に功のある武官であったからと大目に見ていたが、ずいぶんと耄碌したようだな」
フギンは視界の端で、レヴが溜息を吐くのを見ていた。
レヴもまた、その視線に気がついて、笑顔を返す。
何が何だかわからないが、この状態で笑っていられるとは、大した人物だ。
グレオンとパンゴワンの言い争いはしばらく続いたが、不意にレヴが大きな声を上げる。
「アリュウ!」
決して凄みがあるとは言えないが、よく通る声だった。
この場で一番若いアリュウがびくりと震える。思わず、宰相とグレオンの言い争いも止まる。
「街の様子はどうだった?」
「ご報告申し上げた通りです」
「そうであったか。では宰相殿、話し合いはこれまでと致しましょう。貴方にはやるべきことがたっぷりとおありのようだから」
穏やかな物腰ではあるが、有無を言わせぬ声音である。
パンゴワンはむっつりと口をつぐみ、いかにも《苦渋を飲んだ》と言わんばかりの顔つきで部屋を出ていく。廷臣たちの大多数もその後に続き、廊下にいた騎士たちも連れ立って出て行く。
彼らが去ってしまうと、広い部屋はがらんとして見えた。
*
「というわけで、私がコルンフォリ第一王子のレヴです」
はい、と元気よく右手を上げるのを、フギンは不可思議なものを見る目つきで見ていた。
「お、お目にかかれてこ、光栄です…………っ!」
マテルは緊張しきっていて、ひとりだけ地震に見舞われているかのように、小刻みに震えていた。
「先ほどの訳のわからないやり取りは一体何なんだ?」
フギンが率直に問いかけると、すかさずマテルのげんこつが頭上に振り下ろされる。
「痛い……」
「コラ、《貴人の前では態度を慎む》って前口上はどうなったんだよ」
「王宮でのしきたりのように、目上の者が話しかけてくれるのを待ってはいられない。殿下は来客があり、問答になるとわかっていて、俺たちを部屋に迎え入れた。グレオンとアリュウもわざわざ状況を確かめて取り次がなかった。時間がないんだろうと思ったんだ」
「それから二階にめちゃくちゃ人の気配がするな!」とヴィルヘルミナが楽しげに言う。「人を集めているな。荒事の気配がするぞ!」
「あれ? わかりますか。静かにするように言っておいたのだけど……。ふふ、お二人の言う通り、時間に追われているのです。ですが、少しばかり話をするくらいは大丈夫。グレオン、お茶を淹れてくれるかな?」
「ええっ、わ、私がですか」
粗末な庶民の格好から、甲冑姿に着替えたグレオンが大いに戸惑ってみせる。
「だって、ほかに誰がしてくれるの? もしかして、私?」
「い、いえ、王子がなさることでもありませんが。すぐに……!」
この部屋にはほかに侍女や侍従の姿がない。お茶を王子自らが淹れるなんて、普通なら考えられないことだろう。
「王子、これはいったいどういうことです?」
「見ての通り、私はいま、色々な権限をはく奪され、この小ジュイサンヌに軟禁されています」
「先ほどの人物は?」
「パンゴワンは王陛下によく尽くしてくれた男です。が、父は高齢で、政治にやる気をなくしていまして、こういうことは代替わりの直前直後にはまあまあよくあることですが……」
「臣下たちが宮廷を牛耳っていいように操ろうとしている、と……」
「コラっ」と、マテルが遠慮のなさすぎるフギンに声を荒げる。
しかし、レヴはフギンの素直な物言いに気を咎めた様子もなく、答える。
「ははは、その通りです。王家のためと口では言いながら、この一週間ほどで五軒ほどの大商家が焼かれ、略奪や強盗、襲撃されて怪我を負った者、逮捕された者は数えきれぬほどです。いったい何をやってるんでしょうね、あの無能どもは」
「王子! ははは、じゃありませんよ!」
ティーポットを抱えたグレオンが蒼白になりながら、王子を嗜める。
「とはいえ無能であるのは私も同じ。ここに閉じ込められて為す術もありません」
「それは、額の……その角のせいだろうか」
「はい。先祖返りである証を、私は長い間隠して生きていました。隠しきれぬものではありますが、影武者を立てて……。ですが、それももう終わりです。終わりにしたいのです」
レヴは即位に際して、自身が《先祖返り》であることを公にしようとした。
そのために、多くの廷臣が彼を見放し、パンゴワンによって離宮に閉じ込められているという。
「アリュウから話は聞きました。私が何もできないうちに、貴方は女神教会に閉じ込められていた者たちを助け出し、他にも多くの人々を、同胞たちを王都から逃がしてくれた、と……。それだけでも、礼をせねばなりません」
「何かが欲しくてしたことではないが、王子はこれからどうなさるおつもりですか」
「パンゴワンたちのたくらみなど、冠をかぶってしまえばこちらのものです。宮廷での政治はともかく、同盟諸国家はコルンフォリの王冠のもとに跪くのですから。ヴェルミリオンにつけ入れられる隙をみせるほど愚かではないと思いたい」
「俺たちを呼んだ理由は……?」
「戴冠式の前に、ひとつ、しておかねばならないことがあるのです。民に、私の姿形を知らしめることです。《活版印刷機》を使って」
「……………!!」
フギンは驚いた。
西の王子の口からその名前が出てきたこともさることながら、フギンと見つめ合うその瞳の奥にはまぎれもない野心があった。
そしてそれは、大きさこそ違うものの、フギンが頭の中に描いた絵図とぴたりと一致している予感があったからだ。
「この計画はずいぶん前から動かしていたものです。私はパンゴワンたちの言いなりになって、この姿を隠したまま即位し、一生を離宮に閉じ込められて過ごすつもりはない。民に本当のことを明らかにするつもりです。先祖返りとして初めての王になるのです」
レヴは王子としての権力を使い、秘密裡にヴェルミリオンから《活版印刷機》を手に入れていた。それでレヴがいま置かれている状況と、彼が本当は先祖返りである事実を文字にして書き起こし、それをばらまく。
その上で即位をするつもりなのだ。
「そんなことが……」とマテルが震える声で言う。
そんなことが可能なのだろうか、と。
先祖返りに対する風当たりの強さを思い知ったばかりだ。新しい王が先祖返りだと知った民が事実をすんなりと受け入れられるとはとても思えない。
「たとえ事実を隠して即位しても、王として為せることに大差がないならば、先祖返りとして王家に生まれついたことに意味があるのだと証明したいのです」
レヴは言う。
「グレオンとアリュウに印刷機を動かせる錬金術師を探させていました。そこにあなた方が現れたのです」
「事前に錬金術師を手配していなかったのか?」
「残念ながら計画の途中で、心変わりされたようです。私どものほうでも技師を雇い、動かそうとしましたが……」
「駄目だろうな」
フギンは溜息を吐く。
「《暗号鍵》やら《
「そのようです。何しろ王国では魔術のほうが盛んですし、それほど高度な冶金技術があるわけでもなく、手がつけられずに困っていたんです。貴方が我々に協力してくれるのならば、その謝礼は惜しみません。私にできることなら何でもさせて頂きます」
「――――その《活版印刷機》が欲しい、と言ってもか?」
レヴは最初、少し驚いた顔つきだった。
だが、数秒考えて、頷いた。
「差し上げます。四台ありますが」
「一台で構わない」
一台であっても、印刷機があればフギンたちも計画を動かせる。
フギンはマテルとヴィルヘルミナに視線をやる。
「――――あ、危なくないかい? もうすでに危険だけど」
「だが、これしか俺たちが活版印刷機を手に入れられる方法がない」
「私はやるぞ。フギンたちやエミリアを助けられるし、それに、王子の危機を救うなんて、いずれ大陸に覇を唱える大冒険者の伝説の幕開けに相応しいではないか」
活版印刷機は、もうひとつの離宮、ジュイサンヌ旧城に設置してある。
設置したのはレヴだが、パンゴワン宰相に取り上げられて、おまけにその周囲は先ほど見かけた完全武装の兵士たちで固められているというおまけつきだ。
「いったい誰の兵士なんだ?」
「王陛下が貸し与えた兵が半分と、パンゴワン宰相が個人的に集めた兵たちです」
「陛下は宰相の味方なのか……」
「陛下は誰の味方でもない。私の味方でもない、というだけで。しかし、大半はグレオンに従うだろうから、問題は残り半分……。二百は下らないでしょう」
今現在、レヴが動かせるのが五十人ほど。
近衛隊長であるグレオンの部下である精鋭たちであり、レヴこそコルンフォリ王国の柱と信じて付き従ってくれている者ばかりだ。
「どうせだったら千人くらい連れてくれば、世紀の大決戦らしくなったのになあ」
「王子!」
千人もの兵が入り乱れることになれば、王宮の変事が外に漏れることになるだろう。
いや、もう漏れ出ているかもしれない。
それにしても血の気が多いのか、何なのか、レヴはわくわくした顔つきだ。マテルは王子を諫めるグレオンの隣で、アリュウが痛む胃を押さえて前かがみになっているのを見つけてこっそりと親近感を抱いた。
「私とグレオンは旧城の正面からちょっかいをかけて、パンゴワン宰相の兵士を引き付ける。その間に、フギンたちは秘密の通路から忍び込み、活版印刷機を動かしてほしい。精鋭の騎士を十ほどつけよう」
「そう上手くいくだろうか……」
「あまり死者は出したくないのでな。城の内部は狭く、しかも頑丈だ。防壁を築いて粘らせる。さあ、フギン殿、これを……」
レヴは傍らから、布に包まれた一抱えほどの板をフギンに手渡す。
「これは私から、民たちへ贈る最初の手紙だ。そして私の夢そのもの……。それを貴方に託します」
「王子殿下……貴方の夢とは……?」
「どのような人であれ、対等に扱われる未来です」
レヴはフギンをまっすぐに見つめて言う。
「先祖返りだけではありません。いかなる姿かたち、いかなる肌の色、そして思想信条であっても、心ある人である限り、不当に扱われない世界そのもの」
「では……今回の戦いであなたに背いた者はどうなるのです」
アリュウとグレオンが緊張するのがわかる。
それに呼応し、ヴィルヘルミナも相手の出方をうかがう。
それでも、フギンは問わずにはいられなかった。レヴが自分と同じ発想で、錬金術を使おうとしている人だからこそだ。
「私は完璧な王にはなれないでしょう」と、レヴは告げる。「そのことは認めます。それでも、自分だけに為せることを為さなければいけないのです」
フギンは渡されたものを受け取った。
それから、ギルドから、閉じ込められている人々を助け出したときのことを思い出していた。
離れ離れにされている人々が再会を喜んでいるのを見たとき、フギンの心には喜びがあった。感謝され、英雄になったような気持ちがした。
だが。
それが誰であっても、フギンは同じことをしただろうか。
そうできただろうか。
閉じ込められているのが、孤立して助けを求めているのが誰であっても。
そのことを考えると、冷や水を浴びせかけられたような気分になるのは何故だろう。
両手の中に、果てしのない暗黒を抱えているような気がするのは、いったい、どうしてなのだろう。
考えても、答えはでない。
しかし、考えたところで、答えが出るのか、そんなものがあるのかもわからない。問いかけているのはあくまでも己であるのに、問いかけた側が五里霧中に放り出されたような、居心地の悪い思いがいつまでも居座って離れなかった。
*
決行はその晩になった。
予定通り、グレオンとレヴが手勢を四十騎率いて、パンゴワン宰相の兵に挑む。
兵にどんな準備をさせるか、とか、どう動かすかについては、フギンもマテルも門外漢だ。ヴィルヘルミナに任せて短い休憩を取ることにして、フギンはマテルと話した。先ほど、レヴと話しているときに感じたわずかな違和感のことだ。
準備に走り回る兵たちを眺めながら、マテルはじっと話を聞いていた。
「難しい問題だね……。結局、僕らが迫害されるのも、少数派だからだ。もしも何かが違っていたら……この先の未来で変わることがあったら、僕たちもそうする側に回るかもしれない」
「今更ながら、ミセリアが《ろくなことはない》と言っていた意味が分かった。たとえそれが善行であっても、権力を握っている者がすれば意味あいが違ってくる。活版印刷機を手に入れるために力を貸すと決めはしたが、今も迷ってる」
「ごく普通の写本工房の跡取り息子を、新王即位の争いごとに巻き込むことを、かい?」
マテルのイヤミっぽい物言いを、フギンはかみ砕いて呑み込み、頷くことしかできなかった。
「アーカンシエルで君は言ったね。どこからが自分で、どこからが自分ではないかがわからない、と」
フギンは頷く。
「そのとき、僕は悲しかった。こうして話している君が、君自身を疑う度、僕もまた友人のひとりを失っていく気がした。君の問いは答えが出ないものかもしれない。そもそもどこにも無いのかも。でも、それは確かに君が感じたことだ」
フギンはもう一度深く頷く。
マテルが言う通り、それはフギンの中にいる誰かではなく、フギン自身が考えたことだ。迷いも戸惑いも、感じているのは自分自身。活版印刷機を手に入れると決めたことも同じこと。不安ではあるが、不安定ではない。
「僕は君と友達になりたいよ。明日、君が、思いがけないものに変身しているとしても、改めてそう思うだろうね。何しろ、僕は君の親友だから」
「お前は変わった奴だと思う」
普通なら、どうみても面倒事を抱えた流浪人を友とは呼ばないだろう。
当てのあるような、無いような旅に付き合うこともない。
こんな鉄火場に進んで飛び込むこともないはずだ。
「お爺ちゃん譲りの血が騒ぐのかもね。だけど、意外に勝ち目がある戦いだと思うよ、これは。僕らは兵士と戦うんじゃなくて、活版印刷機を動かせばいいんだろう。本当に危なくなったら、逃げてしまっても殿下は別に気にしないだろうし」
「いざとなったら、ヴィルヘルミナがいる……か」
あの弓の力と謎の勢いで場を混乱させれば、何とか王宮の外に逃げるくらいはできるのではないか。些か甘い考えだと思えなくもないが、こうして仲間と話していると、自分の行動にわけもなく確信が持てるのを感じた。
おそらくそれは、冒険者たちが《勇気》と呼ぶものだった。
冒険者の行く先に、確かなものなどひとつもない。
いつでも危険で、突き詰めれば無謀だ。
それでも、自分が死ぬ日は今日ではないと奮い立ち、蛮勇だと罵られても次の一歩を踏む。
冒険からはかけ離れた場所にいるにも関わらず、フギンは今、一番強く、自分は冒険者なのだと感じた。
英雄でも、善人でもない。
迫害するものでも、迫害される者でもない。
ただ、変わり続ける明日に挑もうとしているひとりの人間だ。
フギンは何度もその手触りを思い起こし、触れては、時間になるのを待った。
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