・番外編 コナとセルタス



 小さな泉のほとりに羊の角を生やした少女がいる。

 本当の年は十二歳くらいのはずだが、痩せた体は八歳くらいに見える。

 濃い緑色の髪の毛は強い巻き毛だ。

 彼女の名前はコナ。

 コナは魔術師ギルドの部屋付き精霊術師、セルタスの弟子である。

 孤児で、オリヴィニスの入口に捨てられたのをトゥジャン老師がひろい、セルタスに預けられた。


 彼女は泉のほとりで靴を脱いで、足首から先を泉に浸している。

 手にはきらきら輝く石を持っていた。

 両手におさまるほどの大きさのそれはオパールの原石だ。緑色が強く出た石で、陽の下で見ると石の中で青や赤が揺らめく。

 そこは旧市街に抜ける道の途中で、お使いの最中に見つけたお気に入りの場所だった。泉は奇跡的に泥も枯れ草もなく、澄んだ水だけが溜まっている。

 コナはその日のはじまりにどんなことがあっても、たとえ角のことや癖の強い髪の毛のことを年上の男の子たちにからかわれたとしても、この泉を眺めていれば落ち着いて、ゆったりと心臓が鼓動をはじめるのだった。

 けれど、今日は違った。

 コナはオパールを両手でつかむと、そっと頭の上に持ち上げた。小さな唇をぎゅっと噛み、瞳は水面をじっと見つめている。彼女はそのとき、両手に戴いた石を泉のほとりにある岩にぶつけて砕いてしまいたいと感じていた。

 それは魔術の師であるセルタスがコナのためだけに選んだ大切なものだ。いずれ、コナが大人になったら杖に仕立ててくれると約束してくれたもの。

 けれども衝動は激しく、刹那的な気持ちと、そうしてはいけないと思う理性的な気持ちが心を両側から挟んですりおろしていくみたいだった。

 コナははげしい感情に必死に耐えて、やっとのことでハンカチに石を包んだ。

 すっかり包んで見えなくなると、悲しい気持ちだけが胸に残った。





 セルタスはいつも通りギルドの屋根裏部屋で書き物をしていた。

 天窓から降りてくる光が、部屋中に積まれている魔術書の表紙めがけて落ちて行く埃をきらきらと輝かせている。

 コナはノックをせずにそっと扉を開けた。

 師の背中が細かく振動している。頬杖を突いて、少し不機嫌そうに。

 それを確認してから、扉を閉めて、どこかに行こうとした。どこに行くかは決めていなかったが、彼の静かな部屋の中に自分自身の落ち着かない気持ちがじゃまだと思ったのだ。


「ちょっと待っててくださいね」


 セルタスは扉が閉まり切る前に、人差し指を立てた。

 三つくらい単語を連ねてからペンを脇に置いた。


「いいですよ」と言って彼は振り返り、微笑んだ。「私に何か聞きたいことがあるんでしょう」


 コナはびっくりした。


「どうしてわかったんですか?」

「わかってはいません。私には人の気持ちはわかりません。でも、コナが私に何か聞きたいことがあるときは、扉を開けてから閉めるまでが、いつもよりも三秒くらい長いのです。最近覚えました」


 セルタスは立ち上がりコナを手招きする。それから昨日いれたハーブティがまだ腐ってないかどうかを確かめ、テーブルの上のルビーの原石を杖で叩いた。ルビーとエメラルドが混じった石の、ルビーのほうに薬缶を置くとじきにくつくつと音を立てはじめる。


「さあ、なんでも聞いてもいいんですよ」

「でも、おしごとのじゃまではありませんか」

「仕事はいま、していません。椅子に座っています。座っている人のじゃまをするのは中々難しいことですよ。さ、コナも隣にお座り」


 コナはセルタスの隣に腰かける。セルタスはコナのカップに泥の色になったお茶を注いでくれた。味が落ちているところにさらに熱を加えてしまったため、苦くてえぐい味わいになっていた。

 味のことなどセルタスはまったく気にしていないようだ。普段から口に入るものは腐ってさえいなければいい、というような具合で何もかもをコナに任せっきりなのである。

 でも、そのセルタスが自らお茶を淹れようというのだから、それはそれで優しさの表れだったかもしれない。

 コナは意を決して訊ねてみた。


「おししょうさまは、なにかがじぶんの思いどおりにいかなくて、みんなめちゃくちゃに壊してしまいたいっておもったことはありますか」

「何かが思い通りにいかなかったこと? それとも、めちゃくちゃに壊したいと思ったことですか?」

「どちらもです」

「そうですね。一日につき、百個くらい、思い通りにならなくて気に食わないと思うことがありますよ。おそらく、そのうちの半分くらいについては、自分ではなく世界のほうが間違っているんだと確信しています」

「そんなに……」


 思っていた答えとはまったくちがうものが返ってきて、コナは呆然とする。


「そして、昔はそういうとき何かをめちゃくちゃに壊したいと思いましたし、何度かめちゃくちゃに壊してしまったこともありました」

「お師匠様がそんなふうにするところを、コナはみたことありません」

「そうですね。でも、今でもそういう思いに駆られるときはあるんですよ」


 想像して、少しだけ怖くなる。

 それはセルタスが怖かったのではなく、彼女が前にいたところで間近にしていた大人たちの振舞いを思い出したからだ。

 彼女はオリヴィニスに捨てられる前、一秒たりとも安心できない場所にいた。そこでは誰もが狂ったように怒っていて、コナが少し物音を立てただけで大人たちが寄ってたかって何もかもを台無しにしてしまうのだ。

 コナは、そこでは自分が大人になることはないだろうと冷静に思っていた。けれどオリヴィニスに来て、満足な食事やなんの不安もない生活を得て、そうではない未来について考えるようになった。

 このままの暮らしが毎日続くとしたら、コナもいずれは大人になる。

 大人になって、セルタスの指導の元で精霊術師になり、そして……。


「そういうときは、どうしたら気持ちを押さえられますか」


 膝の上で、未だ小さくか細い両手をぎゅっと握りしめる。

 セルタスはすらりと長い指でカップを持ち、中身をゆっくり攪拌しながら、質問の意味を考えている様子だった。


「そうですね、最近は、コナのことを考えますね」

「わたし?」

「はい。ここで物を壊したり、大声をあげたりしたら、コナがびっくりするでしょうし悲しむのではないかな、と思います。そうすると大抵のことはどうでもよくなりますね」

「なぜですか?」

「さあ、なんででしょう。人の気持ちはわからないんですよ」


 精霊術師の翡翠色の瞳が、コナのことをじっと見つめている。


「わたしがものをこわしたり、おおごえをだしたら、おししょうさまはかなしいですか?」

「うーん…………おもしろいな、と思いますね。たぶん。コナにもそんな気持ちがあったんだな、と思いますよ。何か壊してみませんか?」

「こわしません。でも、なんでですか」

「ふしぎですね。コナが私に感じることと、私がコナに感じること、行動は同じなのに、ふたりの間にある感情が、どうしてこんなにも違っているのか……」


 セルタスはテーブルの上に置いた色あざやかな袋から、クッキーを取り出し、コナの手のひらに載せる。なめらかな小麦の色で、表面はツヤツヤと輝いている。


「シビルさんが持ってきてくれました。お土産だそうですよ。落花生とオレンジの花が入っています。ほら、ちょっとでも力を入れたら砕けてしまいます。どうです、壊してみたいですか?」

「いいえ、だいじに食べます」

「残念ですね。どうぞ、お食べ」


 セルタスは、小さな手が菓子を大事に持ち、口に運ぶのを見守っていた。宝物を持っているような、うやうやしい手つき。オレンジの香りの鮮やかさにはっとする表情。こぼれる食べかすを指でつまむしぐさ。そのひとつひとつが、まだ見たことのない景色のように思える。

 

「……私には一日百個の腹立たしい出来事がありますが、もしも何もかもが自分の思う通りになったとしても、きっと面白いとは思わなかったでしょうね。おそらく、それはとても退屈な世界です。静かで……同じ風景がずっと続いていく。苦しいことや悲しいことも色を変えずにずっと。……それで、コナは何が思い通りにならなかったんですか?」


 弟子を取った効果のひとつかもしれない。人の気持ちが読めないとよく言われていたセルタスも、観察に観察を重ねて質問には裏の意味ががあるということを学んだようだった。

 訊ねられ、とうとう覚悟を決めて、コナはハンカチに来るんだオパールをみせた。


「まいにち、いわれたとおりに、石をとおして精霊にかたりかけているのです。でも、ぜんぜん、あつまってくれません。コナには精霊術のさいのうがないのかもしれません」

「なるほど。それはおかしいですね。相性のいい石を選んだはずなんですが……。もういちど、私の前で同じようにやってごらん」


 コナは石を膝に置き、集中する。


「せいれいよ……どうか、わたしのまねきにおうじてください」


 セルタスは注意深くその様子を見守っていた。

 しばらくしても、彼女の言う通り何も起きない。

 呼吸にあわせてセルタスが呼び寄せたのではないものが研究室に入り込んでいるのを感じはする。ただ、その場所がどこかはわらないのだ。

 オパールではなかった。何か別のものに惹きつけられている。

 しばらく探して、すぐにそれがどこなのかに気がついた。

 失敗したのだと思い、しょげかえるコナの角の中に蛍のような光が浮かんでいた。召喚は成功し、精霊が集まっている。ただし、コナの角のほうにだ。

 

「コナ……あなたってすごく面白い。君が私の弟子になってくれて本当によかったと思ってますよ」


 巻き毛を優しく撫でてやりながら、本人の知らぬところで巻き角が幻想的に輝くのを、セルタスはしばらく指摘せず、ぞんぶんに楽しんだ。

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