第146話 黒鴇亭夜噺《下》
青年魔術師の突然の登場にフギンは背筋に寒いものを覚えた。
勝負は互いの了解のもとで行われたことだし、教会での手厚い治療によって右腕はすっかり治っており恐怖を感じる理由はないのだが、この青年を前にすると本能的に警戒してしまうのだった。
セルタスは自分のローブに隠れていた少女をそっと押し出した。
頭に二本の羊角が生えている少女だ。
「さあ、ご挨拶なさい」
「こ、コナです。お、おししょうさまが、ひっ、ひどいことをして、ご、ごめんなさいぃ…………!」
コナはおずおずと前に進み出ると、今にも泣きだしそうに目を潤ませながらフギンに訴える。
「おししょうさまは、ときどきむちゃくちゃをなさるのです……」
「ああ、あんたの弟子か……」
「はい。身よりもなく、帰るところもないので預かっています。彼女が昨日からずっとこんな感じでして」
そういえば、研究室で姿を見かけた気がする。存在感があまりない上に、ひどい目に遭ったので忘れてしまっていた。
「う、うったえますか……?」
服の裾をぎゅっと握り締め、必死に見上げてくる。
セルタスは特にひどいことをしたという意識はなさそうだが、彼女にとっては信頼する師が他人を魔術で傷つけるというのは耐えがたい出来事だったのだろう。
「訴えないよ。《雷炎の祝福あれ、導きあれかし》」
フギンは手のひらに吐息を吹きかけ、コナの頭を軽く撫でる。
角のあたりに小さな雷の光が走った。
不思議そうに離れていく手のひらを目で追っているコナの耳元で、セルタスが囁く。
「コナ、あなたの修行がうまくいくよう精霊の祝福を頂いたのですよ」
「あ、あの、ありがとうございます……」
コナは頬を染めながら慌てて頭を下げる。
「ずいぶん古いやり方をご存知ですね」
「残念ながら魔術師ギルドにも属してないし、師もいないので世間のやり方がわからなくてな」
「フギン、こちらの方は……?」
戸惑うマテルとヴィルヘルミナに、フギンはセルタスを紹介した。
「彼がヴィルヘルミナの試験をするはずだった魔術師だ」
「そうであったか。あのときはせっかくの機会を頂いたのに、時間を無駄にさせてしまったこと、いまさらながら非礼を謝りたい」
「構いませんよ。試験なんてやらないほうが、一冊でも本を多く読めますしね。それに試験は一度という決まりもないのです。また気が向いたら受けてみたらいかがですか。ただし、そのときは私が不在のときにしてくださいね」
魔術研究に専念したいので、とセルタスは言い添えた。
あれだけ悩み駄々をこねていたのがウソのように全てがきれいに片付いてしまい、マテルもフギンも、なんだか拍子抜けな気分だった。
セルタスとコナはフギンたちと同じテーブルに着き、「それで」と本題に入った。
「もしも私に力になれることがあれば協力させて頂けませんか? さっきも言いましたが、昨日のお詫びに」
「その件は教会への寄付金を肩代わりすることで話がついているはずだ」
治療費としてセルタスは少なくない額を寄付金として教会に納めている。
それで両者わだかりもなく別れたはずだ。
「あの後コナだけでなく受付のミザリやギルド長に怒られてしまいましてね。悪役って一度やってみたかったので調子に乗り過ぎてしまったみたいです。あ、そうだ。気になっていたんですが、ミザリをどうやって懐柔したんですか?」
食堂を出た後、追って来るセルタスを足止めするためにミザリを使ったことを言っているのだろう。
「依頼を出したんだ。セルタスを止めてくれってな」
フギンはギルドに入るときに依頼票を一枚くすねていた。そういう事態が起きるとは思っていたからしたことではなかったが、廊下を逃げながら、血文字で依頼を書き、受付に提出して受理されたのだ。
あまり期待してはいなかったが、受付係は依頼を果たしてくれた。
「ああ、なるほど。その手、私も使えるなあ。あのカードといい、君はちょっと面白いですね。気に入りました」
セルタスは微笑んだ。
あいかわらず目が笑っておらず、反射的にびくりと震えるフギンをマテルが不思議そうに見ていた。
「詫びをするつもりがあるなら、教えてもらいたいことがある。《メル》という冒険者についてのことだ」
「すみませんが、それはできません。何しろ箝口令が敷かれたとき、トゥジャン老師が真っ先に私のところに来て、そりゃもう何度も念押しして行ったのでね」
「……では、とくに用件はないな」
セルタスの返事にフギンは深く落胆する。
オリヴィニスに入ってから何人かの冒険者に声をかけてみたが、もちろんなしの礫だった。そもそもメルという冒険者のことを知らない者もいた。
「でしたら、情報を売ってくれるところをご紹介しましょうか」
「そんなのがあるのか?」
「ええ、お金しだいですけれど、あそこならギルドが禁じている情報も売ってくれると思いますよ」
「だが、今は手持ちがないんだ……」
「でしたら、一芸で稼ぐこともできます。今夜、訪ねてご覧なさい。話はつけときますから。……ま、むこうは嫌がるかもしれないけれど」
セルタスは情報屋の店を教え、コナを連れて去って行く。
フギンたちはどうしようか迷ったが、他に目ぼしい手がない。
夕方頃まで自助努力を続けたあと、三人はあきらめて紹介された《黒鴇亭》を訪ねた。
*
紹介された店は高台にあった。隠された扉に、合言葉、用心棒を潜り抜けた先に、その酒場はあった。それとも賭博場だろうか。暗い照明の室内には賭けカードをする男女がひしめいている。冒険者らしい者もいれば、町人もいる。荒んではいるかもしれないが疲弊している感じはなかった。
壁際には一面に売買される情報の種類と値段が貼りだされていた。
その内容は厄介な魔物の倒し方やら、解毒薬の作り方など、冒険者稼業に役立ちそうなものばかりだ。
「うむ、なんだかちょっと場違いな感じだな……!」
ヴィルヘルミナは自信満々に言った。
いかにも育ちのよさそうなマテルと、どこにいても明るい生来の気性が隠しきれないヴィルヘルミナ、ひょっとすると十五歳くらいの少年に間違えられかねないフギンの三人組は、
「財布に中身がなくて幸いだったね。要件をはやくすませようか」
「情報の売買はともかく、セルタス殿が言っていた《一芸があれば稼げる》というのは賭博のことなのだろうか」
「賭博は賭博でも、こっちのことかもしれないな」
フギンは柵越しにひとつ下の階に作られたスペースを見下ろしている。
そこは丸テーブルがひとつ置かれた空間で、冒険者たちが座り、コップの中に次々に貨幣を放り込んでいる。
「あれは何をしているの?」
「一人ずつ、何か話をしている。全員の話が終わったら、協議によって誰かがひとりがコップの中身を総どりにする。そういうルールみたいだな」
「面白そうだな!」と、ヴィルヘルミナが言う。
「ただ、俺たちには元手がない」
「装備を売るとか?」
「じいさんの遺産を賭けでフイにするわけにはいかないだろう。ヴィルヘルミナ、お前もだ。失うには重すぎる。ひとまず、俺が様子見してくるよ」
フギンは言って、階段を降りていく。
そして、ひとりが席を離れたタイミングでテーブルに近づいた。
「いいか?」
「新顔だな。もしかしてお前らか、賢者殿の紹介ってやつらは」
「まあいいぜ、このテーブルに座るのは。誰でもな」
とくになんの障害もなく、フギンは空いた席にかけた。
「何を賭ける?」
「悪いが、現金がない。だからこれで」
懐から取り出したものを、中央に置かれたコップの脇に置く。
それは一握りの輝く青い鉱石、賢者の石だ。
失うのは惜しいが、もともと盗品だから、懐は痛まない。熱心に中立地帯まで追ってくる官憲もいないだろう。
「宝石質だな、換金が手間だがまあいいか……はじめるぜ、新人に見本を見せてやれよ、ラリマ」
ラリマ、と呼ばれた若い男は「まだやるのか? 今日はもうネタ切れ間近だ」と言いながら、話し出す。
あれは三年くらい前のことだ。
キレスタールに向かう途中、道端に積んであった石ころを蹴っ飛ばした。小さな野の花が添えてあったが、そのときは何にも思わなかった。
だけど、途中で、流れ者がその場所で野垂れ死んだって聞いてぞっとしたね。
背筋がぞくっとして。
そういう勘って妙に当たるんだ。
キレスタールに着いて、宿を取って、その日は酒を飲んで寝た。
夜中の二時くらいかな。俺は夢を見てた。
夢の中で、歩いてた。歩くのが商売だとはいえ夢の中までだなんて笑っちまう。
だけど、歩いているうちにだんだんと息が苦しくなってくる。
足がもつれて、もうこれ以上は歩けない。
それで、地面に倒れる瞬間、俺は目覚めた。
夢の中ではちょうど、倒れる前に何かに縋って握り締めていたんだな。
目が覚めたときも何かを握ってた。
なんだろう……と、シーツをめくってみたら、だ。
寝ぼけ眼に、俺の手が枯れ木みたいな男の手を握ってるのが見えたんだ。
それから、シーツとベッドの間に爛々と光ってる不気味な二つの目とな。
俺が驚いてじっと見返していると、舌打ちが聞こえて、不気味な奴はすーっと消えていった。
ラリマは語り終えると、銀貨を一枚コップの中に入れた。
それを見届けて、隣の席の客が別の語りをはじめる。
話の筋はいずれも怪談話のようだ。
フギンは顔には出さないものの、ひどく困惑していた。
冒険者暮らしだけは無駄に長く、精霊術師として人ならざる世界を垣間見ることもあるが、こういった話とは無縁だった。
恐ろしい目や怖い目に遭ったことは山のようにあるが、原因を辿れば全てが魔物やら山賊やら毒蛇やらで、人智の及ばない存在には縁がない。
というかむしろ、自分自身が人智の及ばない存在だ。
幽霊話の類なら賢者の石を託してマテルに任せればよかったと後悔した。
その間にも容赦なく順番は進み、とうとうフギンの番が回ってくる。
「――――ええと、その……」
どうするべきか迷っていたそのとき、テーブルの向かいにいる冒険者ふたりの間に青いほのかな光が灯るのを見た。蛍のように小さく儚げな、星の光だ。
誰かがフギンを見つめる眼差しがある。輝く髪と長い耳の女性が、腕に竪琴を抱え、丈の長い服の裾を引きながら横切っていく。
その姿は透明で、向こうの風景が透けてみえる。
ああ、彼女は生きてはいないんだな、と思ったとき、フギンの唇はするすると語りだした。
「昔、人に聞いた話だ……。長い間、東の地で侍女として宮仕えをしていた女で、エルフの血がまじっていた」
その声の主はフギンではなかった。
フギンの中にいる誰かが、その唇を借りて語りはじめる。
何もない空間から竪琴の音が微かに聞こえる。
同じテーブルに着いた者たちも、上の階で見守っているマテルやヴィルヘルミナも、フギンの周囲に揺蕩う青い光に、それぞれ別の意味で驚いていた。
昔々のこと、ずっと大昔のことです。
皇帝の玉座に何代も前の陛下がお座りになっている頃からのこと。
いまはオリキュレル離宮と呼ばれています皇帝一族の宮殿には不気味な魔物が出るというので、使用人たちはみんなそれを恐れておりました。
真夜中になると、廊下を何かが這いずる音がして、それが魔物が出た合図です。
その合図がありますと、使用人も、宮におわす高貴な方々も、みんな部屋の扉を閉じ、厳重に鍵をかけて閉じこもるのです。
侍女はけっして外に出てはいけないと女主人からきつく言い含められていましたが、好奇心には勝てず、ある晩、部屋の前を音が去っていくのを待ち、扉を開いてしまいました。
そこにいたのは大きな真っ黒い、形のあやふやな靄のような、それでいて醜悪な腐った肉のようなにおいを放つかたまりでした。
かたまりは廊下を這いずりながら進んで行きます。
石造りの床を這う度に、かたまりの柔らかな表皮が裂けて、腐ったにおいと一緒に体液が流れ出すのです。
もしも、出くわしても声を出してはいけないという忠告を守っていなかったら、哀れな侍女がどうなっていたかは誰にもわかりません。
魔物はときどき、離宮に住んでいる誰かを闇の中に連れ去っていきます。
けれども、この大陸のどこにもそのような魔物はなく、現れるのは離宮の中だけなので、対処のしようもありません。
ですので、皆、この魔物が何ものなのかがわからず、《顔のない魔物》や《名前のない魔物》とだけ呼んで、怖がるばかりでした。
ところが、ある日のこと。
オリキュレル離宮にひとりの御子がやってきました。利発で愛らしく、けれども父母の愛情には恵まれないかわいそうな子供でした。
子供がやってきた頃からでしょうか……。
ふしぎと、《顔のない魔物》が現れなくなりました。
その晩も、明日の晩も、明後日の晩も、明々後日も。
それきり、肉のかたまりをみかけることはありません。
侍女は後になって知りました。
その御子様こそが、のちに玉座を授けられ、東の地を統べ、敵の血潮で大地を染めることとなりました大君、ベテル帝の幼き日のことなのでございます。
語りが終わった後、客たちは身じろぎもしなかった。
語られる内容によって恐怖が喚起されたからではない。言葉が紡がれる度に空気がじっとりと暑く、重たくなり、息をするのも難しくなっていたからだ。その語りには何か呪いとも呼べる抗いがたい重量があるのだ。
その静寂を激しい物音が遮った。
フロアを隔てる柵を手にした杖で激しく叩く男がいる。
男というより老人といったほうがいいだろう。
「お前ら、そのガキに金をくれてやれ! 今日は店じまいだ。――ったく、目的は果たしたってんで放置してたが、本物を語るバカが来ちまうとはな!」
やたら目つきが鋭い老人だった。茶のベストに紫のタイ。
腰のベルトに提げた物入れには、錬金術協会のエンブレムが燦然と輝いていた。
*****黒鴇亭*****
金糸雀亭の裏手にある怪しい酒場。もしくは、賭博場。
とある老冒険者の店で、冒険に役立つ情報を金で売ってくれる。
この店では《怪談話》を持ち寄る珍しい賭けも開催されており、同好の士が集まっては夜な夜な新作を披露する。
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