第145話 黒鴇亭夜噺《上》
その酒場は地下にあり、昼なお暗く、倦んだ空気がべたつく床の上に渋滞したままになっていた。
冒険者たちの中でも指折りの強者が揃うと噂のオリヴィニスだが、すべての冒険者が物語通りの英雄譚を紡げるわけではない。けがで引退するならまだいいほうで、身を持ち崩して昼から安酒場で正体不明の酒をあおり、地上の光に文句をいうしかやることのない者もいる。
「ねえ、おじさんたち。ちょうどいい儲け話があるのよ。乗らない?」
マジョアギルド長との会談を終えた後、アリッシュはそういう酒場を選び、足音もさせずにするりと入り込んだ。
たむろしていた五、六人の男たちは突然現れた少女の姿にぎょっとする。
その体には豹の紋様があり、瞳は薄暗がりの中で金色に輝いていたからだ。
「とっても簡単な仕事よ。人を連れてきてほしいの。《フギン》という名前の冒険者を連れてきてくれれば、お金をたっくさん、好きなだけあげる」
オレンジ色の毛の生えた指の上に、光り輝く金貨がどこからともなく現れる。
金貨は滑らかなビロードのような毛皮で覆われた五指の上をころころと転がる。
そしてアリッシュが手のひらを返すと、再びどこへともなく消えてしまう。
「まさか誘拐しろってのか?」
「早合点しないで。でも報酬は弾むんだから、多少はヤバいヤマを登ってくれなくちゃ、ね……」
「ふん。俺たちが同業者を売るようなやつらに見えてるとはな。とっとと帰んな」
男は酒瓶に手を伸ばし、いかにも怪しげな獣人を胡散臭そうに追い払おうとする。
「これはオリヴィニスのためでもあるのよ。近いうちに、この街にひどいことが起きる……覚えてて。私の言う通りにしなければ、この街は消える」
「どういうことだ」
「あいつは疫病神なの。人畜無害な見た目をしているけど、それは外側だけ。中身は恐ろしいばけものだ。そういうことだよ」
そう言ってクスクス笑いを浮かべると、さっと丸テーブルから離れた。
「獣人が、何を言ってやがる」
少女は振り返り、両の手を猫の手のように曲げ、尖った八重歯を見せつけてくる。
「がおーぅ…………」
男たちは気味悪そうに顔を見合わせて、肩を竦める。
アリッシュは、今度はけたたましく笑いながら、細長い尻尾をくねらせて地上へと上がっていく。
リーダー格らしい男が手下に目で合図した。
頷いたふたりが年端もいかぬ少女の後ろ姿を追っていく。
細い階段は路地裏に繋がっていた。どこにも姿を隠すことなどできそうにないが、ふたりは地上に出たところで姿を見失った。
あたりを見回しても、どこにも少女の姿がない。
戸惑う二人組を、アリッシュは屋根の上から観察していた。
「多少は興味を持ってくれたみたい……。この調子でもっと噂を広めよう。でも急がないと。もっともっと急がないと、間に合わなくなってしまう」
少女はフードを目深にかぶり、屋根伝いに別の路地裏に降りた。
それから人通りの多い大通りに向かった。
彼女の様子は先ほどとは一変していた。表情は青白く、額には大粒の汗が滲みだし、唇からはぶつぶつと言葉が漏れ出す。
「急がないと。あのときみたいに、みんな殺されちゃう……助けなくちゃ……私が、私が守ってあげなくちゃ。そう、《ベテル帝の憂いを晴らしてさしあげなければ》――――ううッ」
アリッシュは苦しげに胸を押さえて立ち止まる。
「どうして……?」
表通りはもうすぐだ。あと一歩踏み出せば光の当たる場所に出られる。
だが、どうしてもその一歩を踏み込めない。
「ちがう。私はただ、シャグラン様のために……あの方を助けるために戦っているのに……どうして……?」
苦しげに喘ぎ、天を仰ぐ横顔が埃のこびりついた窓ガラスにうつっている。
そこに忍び寄る二本の腕があった。抜けるように白い肌の、どんな悪夢でも掴まえてしまいそうな不気味な腕だ。
腕の持ち主は少年だった。灰色の髪の間から、特徴的なエルフの尖った耳がのぞく。腰には毒蝶の柄の短剣を提げていた。
汚れた硝子窓の内側で、かつて《アマレナ》という名前で呼ばれた若者は、壁に手を突いて立っているのがやっとの体を抱きすくめる。
「そこまでだよ、アリッシュ」
その声が耳朶に触れた瞬間、アリッシュはますます苦し気に表情を歪めた。
「もう悩まなくていいんだ。わかるね?」
「…………わか、らない」
「何度も説明したじゃないか。君はフギンを捕まえる。それがシャグランのためになるんだよ」
「お願い。あたしは、どうなってもいい。だからあの人を助けて」
「わかっているよね、そのためにどうしたらいいか」
「わたしは、戦うしかできないから……」
「そうだ。君は戦う。フギンを殺せ。そして」
アリッシュの瞳から涙が零れ落ちる。
アマレナの声を聞いていると、彼女の意識は混濁していく。記憶があいまいになり、自分がなぜここにいるのかもわからなくなる。
「そして、ベテル帝の憂いを晴らしてさしあげなければ」
もはや嗚咽も苦悩もなく、彼女は涙を流し続ける。
耳朶に甘く囁かれるアマレナの声だけが耳に残る。
*
一夜明け、ヴィルヘルミナは別人のようになっていた。
その姿は朝日を浴びて輝き、浮かべる表情は穏やかで、慈母のようですらある。
彼女は紅茶を一口飲むと満足そうにうなずいた。そしてすっくと立ちあがる。
「皆の者、聞くがいい!」
街に入ってすぐの《ひよどり亭》という大きな宿の食堂はまだ眠たげな眼をした冒険者たちでいっぱいだ。
突然カップを手に立ち上がったヴィルヘルミナを、まともだと思って見つめる視線はひとつもない。
「私はかつて過ちをおかした。功をあせり、名声を求めすぎるあまり、師匠連という分不相応な身分を手に入れようともがき、失敗した。試験を受けるどころか、会場に辿り着くことすらできなかったのだ! 私は自らの過ちを認めることができなかった。それどころか、この街から逃げ出してさ迷い、行く先々で《自分は師匠連である》と吹聴してまわったのだ!」
誰も聞いていない演説を続ける様は、もはや狂人のそれである。
マテルとフギンは遠くの席で、この地獄がはやく終わってくれるよう女神に祈っていた。
ヴィルヘルミナはオリヴィニスに留まることを選んでくれた。
それは結構なことなのだが、昨日からずっと様子がおかしかった。
あれほど恥じていた自分の過去を、何故か見も知らぬ街の人々にベラベラと喋りはじめたのだ。
「しかし、私は出会った――大切な仲間と呼べる存在に。彼らはこの醜い過ちを指摘し、間違いを正してくれた。そして生まれ変わらせてくれたのだ! 紹介しよう!」
ヴィルヘルミナは椅子に片足を置き、フギンに向けて手を広げる。
「やめろ!」
「彼がマテル、そして、隣がフギンだ!」
ヴィルヘルミナが高らかに仲間たちの名前を呼んだ瞬間、食堂が少しだけざわつき、それからしんと静まった。
街のどこででもそんな調子である。中にはヴィルヘルミナのことを知っていた者もいたが、思っていたよりも反応は薄い。彼女が試験を受けることができずに、街から逃げ出したと聞いても「はあ、そうかい」くらいのものだ。もしかしたら、誰も彼女が本当に師匠連になるとは思っていなかったのかもしれない。
それよりもウソをついていたストレスから解き放たれたヴィルヘルミナの謎のテンションのほうが辛いものがあった。
「明日は、違う宿に泊まろうね……」
マテルは恥ずかしそうに朝食をかきこむ。
「ああ。だが、問題がある」
フギンは共通の財布を取り出し、広げる。
人前で財布を出しても問題ないほど、心もとない額しか入っていない。
「理由が何であれギルドで魔術師の紹介を受けるには、それなりに元手がかかるんだ。どこかで稼がないといけない」
「このオリヴィニスでかい? ちょっと骨が折れそうだね……」
マテルは困り顔だ。
ヴィルヘルミナのために金を使ったことを責めようとは思わない。
けれど、強者揃いと聞くオリヴィニスで仕事をするのは、地方出身者としてはどこか腰が引ける。実際には、冒険者証さえあればどこのギルドであろうと仕事を受けられるし、有名な迷宮洞窟を目指す新米冒険者も大勢いるのだが。
そのとき、食堂の扉が開いた。
入ってきた冒険者の姿はかなり人目を引いた。
何しろ、やってきたのは最上級の絹のローブをまとい、祝福された金属で作られた杖を手にした特別な精霊術師だ。それも、冒険者たちについて回って意味も知らない呪文を唱えて回る付け焼刃のではない、正真正銘本物の魔術師だ。
「――――お邪魔しますよ。けがの具合はいかがですか」
「あんたは…………いったい何故ここに」
鮮やかな若草色の髪がひと房垂れてフギンの視界に入る。
「どうやら昨日はやり過ぎてしまったようですからね。せめてもの罪滅ぼしに参りました」
そこにいたのはフギンに大けがを負わせた張本人、精霊術師のセルタスだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます