第137話 卵の秘密《下》
「心配したよ、フギン。君がここのところずっと思い詰めていたのは知っていたけど、こんなことになるなんて。もっとはやく気がついていればよかったね……」
「いいや、考え事に気をとられていて不注意だったのは俺のミスだ」
「ミダイヤのこと、まだ気になるのかい」
「そうだな。もしも何かが違っていたら、別の関係もあったんじゃないかと考えていたんだ」
その言葉が何の痛みもなく素直に口から出た。不思議なことに、ミダイヤのことについて、今はいくらか冷静に考えられる。
むしろ、あの場所に取り残されて魔物と戦ったのは自分たちのほうなのに、そのことを少しも責めないマテルを見ているほうが、少しだけ苦く感じられた。
「そんなに難しく考えること無いよ。ちょっとしたすれ違いじゃないか。ほら、僕も工房に入りたてのころ、始業の時間を一時間も間違えていたことがあったんだよ。でも、こっちは工房の跡取りだっていうんで誰も指摘してくれなくて。誰にも間違いはあるものなんだよ」
「その勘違いを六十年続けたわけじゃないだろう?」
フォローに失敗したマテルは押し黙る。
ちょっとした間違いをすぐ正したなら、それは《ちょっとした間違い》で済む。だが《ちょっとした間違い》を六十年もの間続けたとなれば大ごとだ。
「そのようなこと、フギンが考えるべきことじゃない。悪いのはあっちだ」
頭から麻袋をかぶった孤高で孤独な剣士、ヴィルヘルミナが言う。
「その恰好はなんなんだ?」
「イメチェンだ! 男なら細かいことを気にするな!」
細かくはないだろう。むしろ、大胆な仕様変更だ。
こんな身なりで説得力はないが、一応、誇りや名誉を何よりも大事にする由緒正しい騎士であるヴィルヘルミナがミダイヤに反感を抱くのは、理解できなくもない。
「だけど、ヴィルヘルミナ……。君に呪いがかかっている以上、フギンを守るなんて無理だよ」
ヴィルヘルミナはすっかりそのことを忘れていたらしく、ショックを受けている顔だ。
「確かに……私には役不足だな」
素直にそう言い、うなだれる。
「それに、意外なように聞こえるが、私は《誰かを守る》というのが苦手なのだ。戦いのスイッチが入ってしまうと、ついつい敵を倒すことしか考えられなくなるというか」
「それは、僕も気がついてたかな……」
「俺もだ」
ヴィルヘルミナは強い。だがその強さは原始的な獣のような強さで、《騎士》の戦いらしくはない。
「ふたりとも、気遣いは無用だ!」
誰も気遣っていないが、ヴィルヘルミナは勘違いをしたまま話し続ける。
「このあいだも、わたしはできることならミダイヤを殺すつもりで戦っていた……。なのに、ほんの紙一重の差で致命傷を避けられてしまうんだ。あれは、まさに仲間を守るための戦い方だった」
「喧嘩で人殺しまでしてほしくはないけど。だけどさ、それでいくと、僕はミダイヤに手も足も出なかったわけだ。実力不足を感じるよ」
覇気のないヴィルヘルミナにつられて、マテルも意気消沈している。
フギンは何かがおかしい、と思っていたが、その違和感が形にならないまま、際限なく落ち込んでいく仲間たちを見ていた。
そのとき、二人と一人の間に目もくらむほど鮮やかな赤い皿が置かれた。
「さあ、お三方、お待ちかねの昼飯っすよ!」
トマトソースがたっぷりかかった山盛りのニョッキには、たっぷり削り入れたチーズが雪山のようにふりかかっている。ヒヨコ豆を味付けして丁寧に裏ごししたペーストや簡単にできる無発酵のパンが山盛りに。深めの皿には黄金色にきらきら輝くスープ。イワシの油漬けと薄切りにした玉ねぎとトマトのマリネには櫛形に切られたレモンが添えられて、目にも楽しい。
ヴィルヘルミナとマテルは手をつけていいものかと顔を見合わせながらも、誘われるままにフォークを手にした。ヴィルヘルミナはフギンがこねたニョッキを、マテルはサラダを、一口ずつ味わう。
「…………おいしい」
どれもさして変わった味つけでもないのに、はっとする味わいだ。食材の鮮度がいいのだろう。口に運ぶのが楽しい。
さっきまでの答えの見えないやりとりなどもうそのようだ。
フギンも、食事をして楽しいと思うのは久しぶりのことだった。思い返してみれば、このところはずっと考え事ばかりでまともな食事をとっていなかった。溺れたこともすっかり忘れて夢中で食べ進めているうちに、ふと疑問がわく。
「……そもそもなんで、俺が守られないといけないんだろう? 旅に出て、もしも自分の力不足で傷つくことになるなら、それは俺の責任だ。誰のせいでもない。だいたい、それで困るやつはいない」
「私はフギンが死んだら悲しいぞ」と、ヴィルヘルミナ。
「いや、そういう意味ではなく……。冒険者はたしかに仲間と助け合うが、究極的に言えば自分の命を守れるのは自分だけだ。それで野垂れ死んだところで、好きでやっていることだ。悲しみはすれど、誰も困らない」
「まあ、僕にはあまりなじみのない世界観だけど、そうかもね。ミダイヤは曽祖父からの約束を守れなくなって困るだろうけれど」
「だが、死んだほうが奴の家計は楽になるし、俺の能力のこともあって憎まれているから、圧倒的に死んだほうがせいせいするだろう。約束のことを差っ引いてもな。つまり、何か、この話には裏がある気がする」
ミダイヤにはフギンが死んだら困る《何か》がある。それも、まだ言葉にしてはいない、何かだ。
「その何かって…………?」
マテルが訊ねる。
フギンは黙って考えながら、パンを口に運んだ。
小麦の香りが口の中に満ちる。明らかにいい小麦の香りだ。
帝国領では、質のいい小麦は出回らない。鉱毒が大地を汚して収穫量が少なくなっているから、庶民の口に入るのは長く保存されて香りが飛んだ古いものだ。パン自体も小麦のものは少なく、ライ麦の、それも果てしなく固く焼きしめられたものがほとんどだから、小麦の香りをじっくりと味わう機会などなかった。
「……………わからない。先に進んでから考えよう。みんなが俺がどういう人間なのか知っても、ついて来てくれるなら」
フギンは知った。美味い食事には、真剣な悩み事を《どうでもよくする魔法》がある。
「おいしいね」
「ああ、おいしい」
マテルは、困ったように笑っている。
真剣に考えなくてはいけない、と性格の真面目な部分が思うのだが、食事が楽しくて、とても真剣になれないのだ。ヴィルヘルミナなんか巨大な皿に満載の料理をかきこむのに忙しく、返事もしない。
小一時間ほどして料理も少なくなり、ふとヴィルヘルミナが顔を上げたとき、料理人の姿が食卓にないことに気がついた。
フギンが外に出ると、ルビノは小屋の外で明るい森の入口を見つめていた。
その視線の先に何か異質なものがある。
「…………魔物だ!」
全身が白っぽい毛に覆われ、二足歩行。足はみじかく両手が長い。身長はフギンの二倍ほど。手のひらに毛はなく、五指が巨大に発達している。猿に似た顔は、体の二分の一ほどを占める。額のあたりは青ざめ、目元は白、ほかは赤黒い。巨大な仮面を張り付けているような異様な姿だ。
「イストワルに出る《雪男》に似てるっすね。このあたりでは見かけない魔物っすけど……」
「あいつは、私たちが交戦したやつだ。なんだか妙に数が多いな、囲まれているぞ。どうする」
残りもののニョッキの皿を抱えながら、口元をトマトソースで汚したヴィルヘルミナが眉をしかめる。
彼女の言う通り、森の中には雪男の影がいくつもある。
「魔物がたくさん出てきたから、この家の人はいなくなったのかな?」
フギンが転送の魔術で出したメイスを受け取り、マテルが疑問を口にする。
「それなら、ギルドに依頼が出るはずだ」
答えるフギンの隣で、ルビノは訳知り顔でうなずいた。
「なるほど。たぶんこれ、俺のせいっすね」
三人は何の緊張感もなく《自白》した若者を注視する。
「《マヨイガ》、って知ってますか?」
「そういう名前の伝説なら知ってるが……」
《
マヨイガは訪れた者に食事や風呂を提供し、さらに土産としてその家にある物をひとつだけ持ち出すことが出来るのだが、それ以上のものを持ちだすと災厄が降りかかると言われている。
「マヨイガの正体は、わりとレアな魔物のことなんです。空間そのものが魔物になっていて、内部に快適な空間を用意することで、餌になる人間を引き付けてるんです」
そして魅力的な罠につられてやってきた人間が禁忌をおかすと、魔物を寄越して餌にするのだ。
「だけど、僕らは今のところ何も持ち出してないよね」
「いや、やっちまったのは俺ですね」
ルビノは自分の荷物から小さな箱を取り出した。中にはとれたての卵が四つ、仲良く並んでいる。
「卵?」
フギンは箱の中に隙間なく書かれている紋様を見て、ぎょっとする。
「滅茶苦茶高度な真魔術による魔術言語と、神官の聖句が並列して書き込まれている……。それも竜のブレスを正面から食らっても生き延びられる超高等防御魔術と、三回死んでも生き永らえられそうな回復呪文が……!」
「これは俺の師匠が趣味で作ったもので、回復魔術と防御魔術を同時にかけ続けることによって卵の鮮度を保ったまま運搬が可能になるという道具です。魔力を流し続けなければいけない、というデメリットはありますが」
「習得に数十年かかる高位魔術師と高位神官の修行を同時に積んだ料理人がこの世にいるのか!?」
ルビノは昨晩このマヨイガを訪れたとき、一泊するついでに卵を拝借した。
マヨイガは禁忌を破ったルビノを追いかけて魔物を放った。
だが、放たれた《雪男》は、ルビノではなくフギンたちの前に現れ、フギンを川へと投げ飛ばした――どうやら、そういう筋書きだったらしい。
「こんなこと師匠に知られたらただでは済まないっす。けじめとして、この場は俺に納めさせてください」
「え、いや。そこまでは求めてないというか、ただの料理人にそこまでさせるわけには!?」
ルビノは混乱するマテルを置いて、軽快に魔物の前に躍り出る。
魔物は無防備に間合いに踏み込んできたルビノを捕らえようと、木の影から走りだす。地面に両手をつけ、四足歩行で。そして攻撃が届く範囲にくると、二足で立ち上がり巨大な拳で殴りつけてくる。
だが、ルビノの姿がその太い丸太のような腕の下に隠れた、と見えた瞬間、雪男の巨体は宙に舞い、地面に叩きつけられて砂埃を上げた。
ルビノは平然としてその場に立っている。
そして両の拳を握りしめ、体の前で打ち合わせる。
「《精霊よ》!」
フギンには、大量の炎の精霊が呼び声に集まるのを感じた。
精霊を見ることのできないヴィルヘルミナとマテルも、ルビノを中心として巻き上がる炎の姿によって神秘の存在を目にしていた。
集まった炎はうずになって熱風を起こし、袖口を焼き払う。その下から、紅く輝く宝玉が飾られた籠手が現れる。
燃え上がる炎が地面を焼き焦がし、灰になった草花が風に流れていく。
その炎が、一瞬で消える。
それは無くなったわけではなく、ルビノの体の外から内側に移っただけだ。そのようすをフギンは精霊術師の目で見ていた。
投げ飛ばされた魔物が起き上がり怒ったように体を揺らす。そして両手で地面を叩きつけて助走をつけたあと、全身を躍動させて飛び上がる。
ルビノは魔物の攻撃を避けずに、自らの右の拳を叩きつけることで迎えうつ。
接触した瞬間、魔物の動きが空中で止まった。一拍置いて、拳、腕、肘関節から炎が噴き出し、骨や肉片が周囲に飛び散った。魔力を体内で練り上げ、拳に乗せて魔物の体内に送り込み、爆発させたのだ。
さらに、絶叫を上げる魔物の体を、無造作な前蹴りが地面に沈める。
体の大きさは二倍以上あるが、魔物は地面に縫い留められたまま起き上がれず、胸骨を粉砕されて絶命した。
体内で練った炎の魔力を放出することで攻撃に用い、体内に留めることで身体能力を向上させているようだ。
魔力を体内に留めておく、という発想は魔術師にも無いことも無いのだが、直接電流を流した肉体がどうなるか自明の理であるように、激しい負担をともなう方法だ。この域に辿りつくには、魔力のコントロールのための訓練と、肉体強化のための果てしない鍛錬が必要だっただろう。
控えめに言ってとても人間の技とは思えない、というのがフギンの感想だ。
「オリヴィニスって……料理人も強いのかな……」
マテルが呆然としている。無理もない。
次々に飛び掛かってくる魔物を捌きながら、ルビノは顔色ひとつ変えることがない。
フギンとマテルはその場から動けなかった。戦いが高度すぎて、手助けをするタイミングがつかめないのだ。
「あれは、料理人じゃない」
戦うルビノの首から、爆風によって、銀色の鎖が飛び出した。
その先には命札が見える。冒険者の証であり、そのランクを示す色は鮮烈な《緋色》。緋という階位は存在しないことから、彼の能力を称えてギルドが独自に与えたものだとわかる。ヴィルヘルミナと同じだ。
「あれほど強いなら、オリヴィニスでも有名人だろうな。ヴィルヘルミナ。お前も同じ街の出身なら、あいつのことを何も知らなかったのか?」
フギンは振り返るが、ぽんこつ女剣士の姿がない。
「ヴィルヘルミナ……?」
部屋の中も空だ。
ヴィルヘルミナの姿は、このマヨイガの中のどこにもなかった。
*****緋のルビノ****
オリヴィニスの冒険者兼料理人。非常に珍しい格闘士という職業で、魔物と接近して格闘戦を行う。二つ名は《緋のルビノ》。あるいは《みみずく亭の旦那》。もともと孤児で、街をさまよっていたところをとある冒険者に拾われた。
主な登場回は『第2話 はじめての冒険道具』『第4・5話 防衛戦』『第7話 選挙』『第10話 食事』『第16話 合図』『第18話 エルフの里』『第25話 賭け試合』『第28話~ 品評会』『第33話 青琥珀』『第40話 港街にて』『第48話 魔力分け』『第49話 美食三昧』『第54話 秘境』『第60話~ 父と子』『第69話 知恵と工夫』『第70話 水棲竜討伐』『第76話~ 真夜中の秘密』『第86話 毒草』『第88話 意味深な会話』『第91話 天の守護者』『第92話 二日酔いの話(袖のない服の話)』他。現在過去未来に渡ってたくさん出てくるのでまとめきれない。むしろこのまとめは必要なのだろうか……?
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