第136話 卵の秘密《中》



 フギンは静かな暗がりにいた。

 傍らを水が流れていく音がする。ひんやりとした温度と生臭いにおいはザフィリの地下水道を思わせる。

 明かりひとつない地下の空間では見えるはずもないのに、フギンは高い天井と広い空間、そして地下に聳えるには高すぎる塔の姿を見ていた。

 塔の下にいつも夢に現れる長い髪の女性が座っている。

 彼女は子供のように折りたたんだ両脚を抱えて、じっと水面を見据えていた。


「君は誰なんだ?」


 彼女は硝子玉のような瞳を動かしてフギンをじっと見つめたあと、こう言った。


「君が昔のことを覚えていないのは、私のせいなんだ」


 言葉の隙間に流れる水の音が聞こえる。


「だから、あなたは私のことを忘れていたほうがいい。ずっと思い出さないほうがいい」

「そのせいで苦しんだ人たちがいるんだ。俺は過去を取り戻したい。自分がどうしてここにいるのか知りたい」

「過去には何もない。過去のことはすべて終わったこと。あなたは自分のために生きてもいいんだよ」

「そんなこと、できるはずがない」


 自分のために生きるといっても、肝心の《自分》が何なのかがわからないのだ。


「あなたが誰なのかは自分で決めたらいい。そうすればミダイヤも自由になれる。彼を使命から解放するにはそれしかないんだよ」

「本当にそうなのか? じゃあ、どうして君はこんなところにいるんだ?」


 彼女は寂しさのまじった顔ではにかむような微笑みを浮かべる。

 水の音が強くなる。


「私のことは忘れていて。私はもう許したから」


 雑音がひどくなる。

 身体中が濡れそぼり、重たい。


「もう誰のこともうらんではいないんだよ」


 その笑顔をみていると、胸をぎゅっと押し潰されたような気持ちになる。なつかしく、寂しく、切ない気持ちだ。

 彼女を支えたくてフギンは手を伸ばそうとするのだが、どうしても触れることができない。

 指先が震えている。寒さのせいだけではなかった。



 本当のことを知るのが、たまらなく恐ろしいからだ。







 冷たく凍えた体が不意に暖かく熱をもつ。

 熱は体の真ん中から起こり、やがて全身を満たした。

 その温かさに導かれるようにフギンは目を覚ました。はじめは自分の状況がわからなかったが、記憶を辿るうちに《川に落ちて流された》のだということに気がつく。流されてからどれくらいの時間が経過したのかも、今どこにいるのかも、どちらもわからない。

 混乱したフギンのそばには炎があった。

 だれが興したものかわからないが、石を組んで、深めのフライパンが載せてある。湯を沸かそうとしていたようだ。

 そのそばに雨よけ用のポンチョが干してある。ずぶぬれになった荷物は、フギンのものと、見知らぬ誰かのものが仲良くならんでいた。腰のベルトから鞘ごと外された剣も、炎の向こうにあった。

 ぼんやりその光景を見ていると、藪がガサガサと音を立てた。


「あれっ」


 人の気配とともに、嬉しそうな、快活な声が聞こえてくる。


「おはよーございます。目が覚めてよかったっす。ずいぶんうなされてたみたいだったから」


 枯れ枝をたくさん抱えた青年が斜面を軽快に滑り降りて来た。

 赤毛に人懐こそうな笑顔、そしてそばかす。身なりは軽装で、武器らしいものは腰のベルトに差した小ぶりなナイフだけだ。それも武器として使うにはいささか心もとない刃渡りだった。

 軽装の旅人といった様子で、冒険者のようには見えない。もしかしたらこの近くの住民なのかもしれない。

 もちろん野盗の類にも見えないので、フギンはほっと胸をなでおろした。


「どうやら、助けられたみたいだな……」

「いいんすよ。こっちが勝手にやったことですから。たまたま、なんとな~く、嫌~~な予感がしたんすよね」


 彼は興した火に枯れ枝を足して火の大きさを調節している。


「大した礼もできなくて悪いが、すぐに仲間のところに戻らないといけないんだ」


 立ち上がりかけたが、その瞬間、全身に鈍い痛みと倦怠感が戻ってくる。

 指先はかすかに震えていた。体温が急激に下がったせいだ。


「仲間の元に向かうってのは、あんまりオススメしませんね。今のあなたは助けられる側であって、助ける側じゃないですよ」

「だけど……」


 直接見てはいないが、フギンたちは魔物に襲われたのだ。今頃、ヴィルヘルミナとマテルが交戦しているはずだ……と考えたのを読んでいただろう。

 青年は少し困った顔を浮かべる。


「それに、かなり流されたから、急いで行ったとしても決着はついてると思うっす」


 フギンは黙り込んだ。この見知らぬ青年の言う通りだった。

 マテルひとりならともかく、あちらにはヴィルヘルミナがついている。逆に言えば、ヴィルヘルミナがいてもどうしようもないなら、ろくに魔術も使えないフギンが今さら加わっても仕方がない。


「どこまで役立たずなんだ、俺は」


 疲労に似た無力感に押しつぶされ、呻くように呟いていた。

 ただ待つしかできないというのは苦しいものだ。その苦しさを生んでいるのはいつも自分自身のふがいなさだった。もっと力があれば、もっと、もっと……何かが違っていたら。

 足を踏み外して川に落ちたことと過去に起きたことは別の問題のはずなのに、すべてが同じように思えて眉間に深い皺を刻んでいるフギンへと、若者がカップを差し出してくる。


「すっかり茶葉が濡れちまって、飲めるかどうかわからない代物ですけど、どうぞ」


 青年は笑いながらカップに口をつけ、みずから眉をしかめる。

 開ききった茶葉から抽出されたのは何やらぼんやりと曖昧な味わいだ。そして時折、妙な鉄臭さとハーブらしい香りが舌を刺す。

 美味とはとても言えないが、暖かい温もりは疲れた体を癒してくれる。


「お兄さん、どうやら悩み事があるみたいっすね。仕事のことですか? それとも借金のこととか? それとも……」


 青年は軽快に指を鳴らしてみせる。


「ずばり、人間関係とか?」

「…………どうしてわかったんだ」

「あらら、素直に感心されちゃうと、反応に困るっすね。まぁ、人間の悩み事は突き詰めると全部それですから。といっても、自分も人間関係からは逃げたクチだから、あんまり偉そうなことは言えないんすけど」


 青年は言って、ふとどことも知れぬ景色に視線を馳せる。

 遠くで山犬が鳴いている。


「ここにも魔物が来るかも。移動しましょうか」

「移動するって……」

「いいところ」


 そう言って若者はにっこりとほほ笑んだ。





 それまで暗かった森が突然、何の脈絡もなく拓けた。

 細くて硬い針のような木々の葉が丸っこくなり、下草が切り払われて歩きやすくなる。空にかかっていた分厚い雲には切れ間が入り、暖かな陽光が天にかかった梯子のように差し込んでくる。小鳥が楽しげに囀り、美しい蝶が羽ばたく。ある瞬間からまるで切り取られたかのように風景が変わったのだ。

 そしてフギンの目の前に慎ましやかな農家風の小屋が一軒、現れた。


「昨日、俺がみつけたところです。いいでしょ?」


 青年は荷物とフギンとを背負い直す。それから、倍になった荷物もフギンの重さも、すべて背負ってどうということはない、というふうに小屋に入っていく。

 小屋の中はきれいに整頓され、清潔なベッドもかまどもある。

 青年はフギンを毛布で包み、かまどに火を入れた。毛布はよく干してあり、陽光のにおいがする。


「住民がいるんじゃないのか?」

「さあ、昨日も帰って来ませんでしたし、今日もいないみたいっすけど……」


 青年は何がおかしいのか笑いながら外に出て行き、鶏小屋から卵をいくつか拝借して戻ってきた。そして吊るされていた燻製肉を切り落とし、手際よく調理しはじめる。フライパンに分厚く切った燻製肉を落とし、脂がよく回った頃あいを見計らい、卵を鉄板に落とす。


「お兄さん、あんまり食べてないでしょ。腹が減ってる人間はろくなこと考えないっすよ」

「いいのかな、勝手に……」

「気になるなら代金を置いて行けばいいんですよ。どうぞ」


 ベーコンエッグを載せた皿をフギンの前に置く。

 白身がぴかぴかに輝いている。ふっくらと膨らんだ黄身をスプーンで押しつぶすと、とろりとした中身があふれて肉に絡んだ。ひとかけらすくって口に入れると、そのふたつが舌の上でまじりあう。


「……美味い」

「素材がいいんすね、素材が。よし、この調子で昼飯の用意もしちまいましょう」


 自分も二人前を腹におさめながら、青年はかまどに鍋を置く。台所の隅に置かれた麻袋から芋をいくつか取り出し、本格的に調理し始めた。芋の皮を剥く手つきはまるで魔法みたいにはやい。

 フギンもそれを手伝っていると、しばらくして小屋に近づく二人分の足音が聞こえてきた。

 金色のふたつの房をなびかせながら、ヴィルヘルミナが小屋の前の道を駆けてこちらにやって来る。


「フギン、やっと見つけたぞ! …………何をやっているのだ?」

「茹でて押しつぶしたマッシュポテトに小麦粉を加えて混ぜ、打ち粉をした台の上で棒状に捏ねて同じ大きさに等分してる」


 フギンの前には、一口サイズに切り取られ、茹でやすいように形を整えられたマッシュポテトが山盛りになっている。しかもまるでいちいち秤にかけたかのように、大きさも重さも等分だ。


「よくここを見つけられたな」

「ずばり、食べ物のにおいがしたので追ってきたのだ!」


 ヴィルヘルミナが胸を張ると、青年は苦笑する。


「来る途中の木々に合図を残してたはずなんすけどね」

「あっ、おまえ、だれだ? フギンを追って行ったやつだ!」

「この人に助けてもらったんだよ。失礼なこと言うな。…………えっと」


 そういえば、まだ名前を聞いていなかったことに気がついた。

 青年はフライパンの上で玉ねぎをいため、ニンニクやトマトを合わせたソースを作りながら、とくに気分を害したふうでもなく答える。


「ルビノって言います。オリヴィニスでみみずく亭って店をやってるんです。もし立ち寄ることがあったら、ひいきにしてくださいね」

「料理人だったのか、どうりで……。俺はフギン。ザフィリから来た冒険者だ。オリヴィニスの出身ならヴィルヘルミナのことを知っているかも……」


 しれない、と続く言葉が消えていく。

 気がつくとヴィルヘルミナの姿が室内から消えている。

 彼女は小屋の中入り口の近くから半分だけ顔を出し、機嫌の悪い猫みたいなようすでこちらを睨みつけていた。


「私は……他人とはなれ合わない!」

「な、なんだ……そんなやつじゃなかっただろ、おまえ……」

「うるさい! 私は孤独を愛する、孤高で孤独な剣士なのだ!」

「孤独がかぶってるぞ」


 ヴィルヘルミナが変なのはいつものことだが、ここまで警戒心の高い彼女は見たことがなかった。

 じきにマテルも合流し、食卓は四人になった。

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