第135話 卵の秘密《上》


 戻らない時間と魂とが満点の星空の下にある。

 誰もが打ちひしがれ、誰もが傷ついていた。

 ミダイヤが本当はフギンを守る立場であったこと、代々続く《約束》と《誓い》を愚直に守ってきたのだという告白はフギンを打ちのめし、フギンを支えてきたマテルをほんの少しばかりくじいた。

 ミダイヤの怒りの理由は、職人ギルドに籍を置き、工房を切り盛りする立場であるマテルには十分すぎるほどに理解できるものだった。

 人はひとりきりで生きては行けない。正確には、そうできるほど世界は甘くできていない。

 ひとりで生きるというのは、口に入る食べ物も、寒さをしのぐ衣服も、魔物の来ない安全な寝床も、すべてを自分ひとりきりの力でまかなえる者が言うことだ。

 そうできないからこそ人は助けあうのだし、他者に対して何も支払わないでいられるとしたら、それはその分を誰かが肩代わりするということに他ならない。

 このままだとミダイヤは自分の役目に従いフギンを連れて行ってしまうだろう。だが、それは誰のためにもならない選択だ。

 ミダイヤは前よりももっとフギンのことを憎悪するに違いなく、フギンは暴力のなかに閉じ込められてしまう。

 いったいどうしたら、と迷うマテルの前に誰かが進み出る。


「そんなにフギンのことが嫌いなら、お前の役目を代わってやろう。このヴィルヘルミナ・ブラマンジェ、かつては巡礼騎士団にて聖女守護の任を授かったこともある。天の星々と女神の名にかけてフギンを守ると誓おう。だが、忠告はしておくぞ」


 凍りついた空気を換えたのはヴィルヘルミナだった。

 彼女はフギンを背に庇い、高らかに宣言する。


「騎士の役目は人の愚かさを裁くことではない。貴様にも憎む理由があると主張したいようだが、《守る》ことがお前の重荷になったというのなら、それはお前の弱さゆえだ」

「こっちは女神に仕える身分じゃないんでな」

「誰に仕えるかは問題ではない。貴様の戦い方は、戦士というより騎士に近いと感じたからこそ言うのだ」


 ミダイヤは徐々に冷静さを取り戻そうとしていた。

 そのタイミングでマテルはすかさず口を挟んだ。ヴィルヘルミナがフギンを守る、というのは妥当な案なような気がするが、それは《ヴィルヘルミナがフギンの追手である》という条件を隠しているからだ。


「君とフギンの間に問題があるのはわかったけれど、どのみちザフィリに戻ることはできないんだろう? それなら、このまま先に行かせてくれないか。緩衝地帯でなら《鴉の血》といえど好きには動けないはずだし、それに……」

「ヴィールテス、こいつの正体を知っても、変わらずに同じことを言うんだな。こいつは俺たち一族の疫病神であり、同時に他人の魂を掠め取るばけものなんだぞ」

「彼の力の正体を知っているの?」

「答えてやる義理はないな」


 やはり、ミダイヤの怒りは深い。

 それでもマテルは懸命に問いかける。地下水道の件のことを考えると、ミダイヤはマテルを軽んじてはいない。

 冒険者としては未熟者だと思っているだろうが、それは人としてではないと信じて必死に言葉を重ねる。


「君の言うことが本当なら、フギンは間違っていたかもしれない……。でも、旅に出ると決めたのは、彼が完璧な人間だと思ったからじゃない。お互いに欠けたところがあるからだ。、それに補いあうことができる。問題は、誰と補いあうかだ」


 旅に出てフギンは変わった。

 ザフィリにいた頃のフギンはまるで閉じた貝のようだった。自分の感情を押さえ込み、自身の痛みに鈍感で、他の人たちの暮らしや生き方からは一線を引いていた。ミダイヤの苦しみに気がついたのは、むしろ旅に出て、しがらみから解放されたからだとマテルは信じている。


「もちろん誰とでもそうできるわけじゃないよ。でも、それができるからこその仲間だ。そうじゃないかな……?」


 ミダイヤは何かを言いたげにマテルを見つめていた。

 彼はひとりの剣士を、優しく仲間思いだった冒険者をマテルに重ねて見ていた。優しさは冒険者の枷になる。だが否定することもできない。

 なぜなら、を守り通して逝ったのが他ならない剣士アルドルであり、フギンの目を通してミダイヤを見つめているからだ。

 一拍置いて、ミダイヤは地面に転がった剣を取り上げて砂をふり払って鞘に納めた。

 もしも、ミダイヤが武器を取るなら、マテルは今度こそメイスを手に取って戦う覚悟を決める。

 人と戦うのは本意ではない。

 それでも、どうしても旅を続けたかった。フギンをオリヴィニスへ。海の底の砂に閉じ籠る貝ではない彼が見たい。

 ミダイヤに理由があるように、マテルにも理由があるのだ。

 だが、ミダイヤには戦ってでもフギンを連れ戻すという意思は無いようだった。


「――――好きにしろ。俺はお前たちの旅の果ての場所で待つ」


 そう、疲れたように言う。


「ミダイヤ? 旅の果ての場所って……」


 ミダイヤは答えずに、踵を返してヴィアベルに合図を送る。

 彼女はテラスから身軽そうに降りると、マテルに手を振った。そして振り返らずに去って行く。


 ミダイヤが言った《旅の果ての場所》という言葉が何を指すのかはわからない。性格からして比喩でもない気がするが、ミダイヤはフギンたちを追ってこなかった。

 歯切れの悪さを感じながらも、予定通りフギンたちは鉱山地帯を脱出し、街道沿いに西に向かうルートを順調に進むことになった。





 鉱山街を過ぎると、毒に汚染された景色ががらりと変化する。

 荒れ果てた荒野の姿は消え、大地にへばりつくように生えている低木が増え、それらは次第に鬱蒼とした暗い森へと姿を変える。このあたりに来ると不吉な冷たい風が肌を刺すようになり、曇天が空を覆う日が多いように感じられる。

 この土地の中心にあるのが、かつて《どこからか恐ろしい敵が攻めてくる》という妄想に取り憑かれた狂王アグレットによって築城されたレヴェヨン城である。

 精神を病んだ王の命令によって増築を重ね、侵入者の命を奪う罠で張り巡らされた城内の全貌は未だに明らかになっていない。内部は幽霊ゴーストや闇の魔物たちの住みかで、冒険者の絶好の稼ぎ場所だ。

 魔物を退治して稼ぐもよし、残された王族の宝を漁るもよし。ただし、レヴェヨン城の攻略には幽霊に対処できる神官や罠を解除できる盗賊職の協力が必須であり、そもそも三人しかいないフギンたちには無縁の場所だ。

 三人はレヴェヨン城へ向かう経路を離れ、かつて聖地に向かう巡礼者たちを運んだ石畳の道を進んでいた。道はゆっくりと登坂になり、川沿いに再び山岳地帯へと吸い込まれていく。

 鉱山地帯を脱出してからずっと、フギンは口数も少なく許される限り考え事をしていた。考えていたのはもちろん鉱山街で逃げるように別れてしまったミダイヤのことだ。


《お前はいつまでそうやって他人のものを奪って、それで平気な面していやがるんだ!》


 ミダイヤの叫びが耳に残ってずっと離れない。

 いったい何故こんなことになってしまったのか、考えても考えてもわからない。そしてわからないという事実が生傷のようにじくじくと痛む。

 どうして過去の自分はミダイヤと話さなかったのだろう。長い間、彼らの存在に気がつかなかったのだろう。問いは頭の中を駆け巡り、答えが出ないまま罪悪感が心を支配する。


「――――ン! ―――――つけて!」


 マテルがこちらを振り返り、何かを叫んだ。反応が遅れたのは思考をほかのことが占めていたからだ。


「フギン! うしろだ!」


 咄嗟に体を小さくし、防御姿勢をとる。

 気がつくとフギンは何か大きな力に弄ばれ、宙に放りだされていた。

 何が起きたのかもわからぬまま、青ざめたマテルの顔が遠く、小さくなる。

 ヴィルヘルミナが走って、こちらに手を伸ばす。

 だが、その指先がフギンに届くことはなかった。

 投げ出されたフギンの体は急な斜面を覆う細い木々の枝々に叩きつけられ、地面を転がり、体勢を整えることもできずに傍らを流れる川に飲み込まれていく。

 水面は小柄な体をあっという間に飲み込んでいった。



 その様子を、対岸の少し離れた場所で見ている者の姿があった。



 望遠鏡のレンズは岸の上にいる二人を捉えている。片方は剣士で、もう片方はメイスを腰に提げている。どちらも戦士らしい。問題は落ちて行ったほうだ。

 長雨の影響で川はいつもより増水している。

 今は浮き沈みを繰り返しているが、先のほうは流れが速く、このままだと姿が見えなくなりそうだ。


「こーいうことにいちいち手出しするから、師匠に怒られるんすよね」


 若者は溜息を吐き、不思議な魔力を放つ鱗を唇に咥える。

 手にした望遠鏡を大切そうにしまい、迷うことなく水の流れに身を躍らせた。

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