第134話 白昼往来《下》



「それで、俺様に話ってのはなんなんだ、フギンちゃん」


 ミダイヤはさっきの戦闘で血まみれだが、それでもなおフギンを見る目つきは鋭い。なんの情けも、容赦もない目だ。この目を前にして、フギンは思ったよりも冷静でいられる自分に驚いていた。

 ザフィリにいたころは、こうして落ち着いてミダイヤと話すなんてことは考えもしなかった。ミダイヤが一応、ヴィルヘルミナがとんでもなく強いという認識を持っているからこそできた対話だった。


「どうして追って来たりしたんだ。試験は合格したはずだぞ」

「仕事だよ。アーカンシエルで教官の欠員が出た。ついでにお前を連れて帰る」


 ミダイヤは懐から一通の手紙を取り出した。

 差出人はニスミスのニグラになっている。


「ハイエルフどもから妙なことを吹き込まれたらしいな。全て忘れろ。連中には関わるな」


 ニグラがミダイヤとつながっていた、という事実に驚いたが、考えてみれば当然のことかもしれない。ギルドの嘱託職員と、戦士ギルド教官という立場を考えれば、ミダイヤのほうがニグラと親しい関係にあってもおかしくはない。


「突然出てきたかと思えば、何を言っているんだ、こいつは。フギンは私たちと一緒にオリヴィニスに行くのだ。だいたい、何者なんだ、こいつは!」

「ええと……ミダイヤはザフィリの戦士ギルドの教官で、端的に言えば、フギンのお金を暴力で巻き上げていた人、かなあ」

「なんだそれは。ほんとにいじめっ子ではないか。偉そうな口を聞けるタマか!?」


 元騎士という立場柄か正義感の強いヴィルヘルミナは、怒りのあまり淡々と説明しているマテルのほうを詰ってしまっている。


「でもぉ、それってぇ、事情があるんでしょぉ? 知りませんけどぉ」


 ヴィアベルが至極面倒くさそうに口を挟む。


「事情?」


 フギンが問うと、ヴィアベルはミダイヤをちらりと見て肩を竦める。

 ミダイヤが金の無心に来るのは、それこそ金がほしいからだと思っていた。

 何かべつの理由があるなんて、思いもしなかった。――いや。

 ほかに何か理由があったとしても、ザフィリにいたころのフギンがそれを知ることはなかっただろう。

 ミダイヤは不機嫌そうに、しかし、落ち着いた声音で話しはじめる。


「ひい爺さんからの伝言だ、お前をありとあらゆる危険から《守れ》とな」


 ミダイヤの曽祖父は、人台帳に記載のないフギンの身分を捏造し、冒険者として生きていく手筈を整えてくれた人物だ。


「うちの一族はその言葉にずっと縛られてきた。親父もそうだ。ありとあらゆる犠牲をはらっても、お前を敵の手には渡すまいと影ながら動いてきたんだ」


 ミダイヤ一族とフギンの縁が続くのは、彼らが代々、冒険者ギルドの職員として働いているから、というだけではない。むしろ、彼らは《フギンを守る》ためだけに組織の内部に留まっているのだ。

 フギンが冒険者として生きていけるのも、ミダイヤがひそかに冒険者登録を偽装し《不死者である》という証拠を消しているからに他ならない。


「だが、やっていることはそれとは真反対ではないか」

「俺がこいつから金を巻き上げていることがか? だから何だ。こいつの経歴を消し、記録を消すための根回しにいくらかかったと思ってる」


 戸籍の扱いに慎重な帝国領で、それをやってのけるには多大な労力が必要だった。冒険者ギルドの上役からも、帝国政府の役人からも《袖の下》が求められる。


「それだけじゃない。ギルドでの信用を勝ち取るため、一定の地位を確保するために、俺たちは戦士でい続けるしかなかった。それとも、冒険者になったのは好き好んでだとでも思ってたのか?」

「それは……」

「お前も手練れだ。わかるだろう。ここに来るまでにどれだけの研鑽を要したか。それとも自称師匠連様にとっちゃ、戦士ギルド教官なんてものは子供の遊びにでも見えたかもしれないがな」


 ミダイヤを責めたヴィルヘルミナ自身が、答えを見失っていた。

 ルール無用の喧嘩まがいとはいえ剣を交わした彼女には、相手の実力が手にとるようにわかる。そのために費やした時間、それも血反吐を吐くような鍛錬の日々は、とても遊びでは身につかない。


「だけど、それなら何故、僕たちを行かせたんだ?」


 マテルが困惑気味に訊ねると、ミダイヤはそれこそが最大の皮肉だとでも言うように、自嘲気味に笑ってみせる。


「出て行ってほしかったからだよ。コイツは一族にとっちゃ疫病神だ。こいつさえいなければ、俺たちはデゼルトでもっと出世してたかもしれない。家が一軒建ってたかもしれないし、俺には弟か妹がいたかもな。何よりも、冒険者ではない……戦士ではない生き方があったかもしれない。あんたがこのデカすぎる荷物を引き受けてくれるっていうなら、断る理由はない。だが、駄目だった」


 ミダイヤの瞳が、テーブルの上の書簡を睨みつける。


「アーカンシエルでの騒動のことはギルドから聞いている。あれはフギンを狙った敵の攻撃だ」

「《鴉の血》のことかい? それとも、アマレナのこと?」

「大した違いはない。奴らは厄介な《呪術》を使って来る。名前や血にまつわる魔術だ。本当に連中がフギンのことを見つけだしたんなら、連中の目が届かないところに潜伏するしか逃れる術がない。ザフィリから……いや、帝国領土から」


 それは、言外にミダイヤがザフィリで築いた全て……家族や、地位や、職業や、何もかもを捨てるということを意味している。


「どうして、そこまでして俺を守ろうとするんだ」


 フギンは話の突飛さに呆然としていた。これまで奪うだけだと思っていた男が自分のために動いていたなんて、にわかには信じられない。しかも何代にも渡っての因縁だ。


「戦士の誓いだ」


 ミダイヤはそう言うが、その言葉が真実のようには思えなかった。

 何か、まだ、ミダイヤは語っていないことがある。


「お前には見えない敵が山ほどいるんだ」

「それは、ベテル帝のレジスタンスグループが関わっているからなのか?」

「話はそんなに単純なものじゃない。お前がメンバーだったかどうかまでは知らないが、俺はレジスタンスの連中も、その協力者からも、お前を隠せと言われてる。決して奪われるなと」 

「…………ミダイヤ」

「なんだ」


 ミダイヤがフギンを睨む瞳には、やはり深い拒絶があった。

 それは単純にフギンが気に入らないとか、好きではないとか、そういう視線ではなかった。それは、もうずっと前から感じていたことだ。

 二人の間にはそれだけ長い隔絶がある。いくつもの世代を超えた隔たりだ。


「ずいぶん前から、俺はお前に謝らないといけないことがあると感じていた」


 ヴィルヘルミナが何かを言いたげに立ち上がるが、マテルに止められる。彼女は騎士らしいまっすぐさで、その必要はないと言いたかったのだろう。どんな事情があれ、暴力という手段に訴えたミダイヤに謝る必要はないと。

 けれど、フギンもミダイヤも、最早、己の正当性について話をしているのではない。ふたりの間には他の者たちの想像もできない、介入することのできない時間がある。


「でも、それが何故なのかずっとわからなかった。ザフィリにいた頃は、ひとりで……いや、もっと前から、デゼルトにいたときからそうだっただろう。ひとりで、仲間もつくらず、誰ともかかわらず、誰のこともかえりみずに生きていたから……」


 フギンは話しながら、荒れた自分の手のひらを見つめた。

 毒に満ちた大地を這いずり回りながら、自分の力と知識だけで生きていると信じていた時間が両手に深い皺を刻んでいる。


「だけど違った。デゼルトで、名前も知らなかったテデレ村で、ニスミスで、アーカンシエルで……自分のことを見ていた人がいた。俺はひとりで生きていたわけじゃなかった。ひとりで生きているつもりになっていただけだった」


 ガロの親方や、シュベルナや、エミリアのことを思い出す。

 隠れ里で過ごした夜のことを思い出す。疲れ果て、先のことは何もわからなかったのに冗談を言い合って笑っていた夜のことを。

 フギンは顔を上げる。マテルがその視線の先でフギンを見守っている。

 そうではないんだ、ということを。望めば誰かが答えてくれるということを、一番最初にフギンに教えてくれた大切な仲間が。


「だから、俺はお前のことなんか、お前が何を考えているのかなんて全然知らなかった。どうでもいいとすら思ってた」


 それでもフギンは変わった。心の底から自分のことを知りたいと願い、気がついたのだ。どれだけ探しても《自分のこと》はいつも自分の中にはない。

 過去の記憶は時間と共に失われて、誰かが見ていた自分自身の記憶、他者からの眼差しがすべてなのだということに。


「ミダイヤ、お前が俺のことをどう見ていたのか知りたい」


 フギンは立ち上がり、テラスを降りていく。道のなかばまで来て振り返る。そして、腰に提げた剣を抜いた。アーカンシエルで譲ってもらった衛兵の剣だった。

 ミダイヤは怪訝そうな顔をしていたが、やがて重たい腰を上げ、フギンの前に立った。剣を抜く。

 ほかの冒険者や旅人は、それぞれの店で食事や酒を楽しんでいる。

 ここにはフギンとミダイヤしかいない。見ているのは青白い空に瞬きはじめた星ばかりだ。

 ヴィルヘルミナとマテルが心配そうに見つめる中、フギンは剣を構えた。

 その周囲に青い星の輝きが瞬く。

 正確には、そこに立っているのはフギンではない。

 フギンの中にいるアルドルがそうしているのだ。

 何かが起きていることを感じ取り、ミダイヤも剣を構える。

 彼はフギンを見つめながら、試すようにいくつか構えを変化させた。

 フギンの中にいるアルドルがそれに応え、ステップを踏む。立ち位置や体の向きを変化させ、いくつかの構えを流れるように披露した。それは己が何者なのかを、天の星々に知らせるようだった。

 そうして、どちらからともなく剣を二、三度交わしたあと、ミダイヤは不意に動きを止める。力を失った剣の切っ先が地面に向き、その手が震えはじめる。

 その表情からは戦士の自負も、フギンを打ちのめす悪党としての顔も、すべてがはぎとられ、ただひとりの人間のものとなっていた。


「――――アルドル…………!」


 枯れた声で、震えた声で、二度とはもどらない人間の名前を吐き出す。

 次の瞬間、ミダイヤは剣を捨ててフギンに飛び掛かる。

 だが今度は、拳が届く前にヴィルヘルミナがミダイヤの体を掴んだ。


「――――おまえはっ!」


 力で敵わないことは、先刻承知済みだ。

 ミダイヤは地面に引き倒され、その場に縫い留められる。


「お前はいつまでそうやってっ! 他人のものを奪って! それで平気な面していやがるんだ!!」

「やめろ、フギンに手を出すな!」

「うるさい! こいつが今まで俺たちからどれだけのものを奪っていったか、知らねえ奴らが口出しするな! 金がなんだ! たったあれっぽっちの金、スズメの涙にもなりゃしねえ! ちくしょう!」


 ミダイヤは地面を這いながら、拘束から抜け出そうと暴れる。

 そして感情をあらわにした怒鳴り声を上げ続ける。

 ヴィルヘルミナの腕力には敵わないとわかっていても、何度も。

 自分よりもはるかに格上のヴィルヘルミナと戦っているときでさえ、一族とフギンの因縁を語っているときでさえ、あれだけ冷静だった男が、アルドルの魂を前にして理性をかなぐり捨てて叫び、悶えているのだった。

 その姿を、フギンは見下ろしていることしかできない。


「ちくしょう! ちくしょう! ちくしょうっ! アルドル…………! アルドル!! お前は……お前はっ、ひとりで生きてきたなんて甘ったれたヤツに連れていかれていいような奴じゃない。なんで仲間の元に帰さなかった! なぜ!! 帰りを待ち続けている家族の元に帰してやらなかったんだ!!」


 何故と問われても、フギンには返す言葉がない。

 何もわからないのだ。

 アルドルが誰なのか、マテルが教えてくれた情報しか知らない。

 自分の力が何故あるのかもわからない。

 これまで知ろうとしてこなかったからだ。自分のことを。

 そして、自分を見つめていたはずの人たちのことを、何ひとつ。

 それは《何もしなかった》という形の罪だった。





 帝都近郊都市ザフィリ。

 戦士ギルドには夜遅くまで明かりが灯っていた。

 ギルドは冒険者になる者たちに依頼と、冒険者証だけしか与えない、などと世間で言われているが、それは実のところ、そのギルドに所属する職員たちの裁量に任されているところが大きい。

 ザフィリの戦士ギルドは、それこそ農民上がりのずぶの素人から、傭兵崩れの半素人まで、手厚く面倒をみることで有名だった。剣の握り方さえ知らない者でも半月あれば低級な亜人種を殺せるようになる。あるいは、そうなれない者は決して実戦には出さない。半端者を野に出したところで野垂れ死にをするのが関の山だからだ。ひとりで死ぬのならばともかく、仲間を道連れにする危険もある。

 年のころは三十路の手前、といったようすの剣士がひとり、明かりの点く武器庫へとそっと近づいていく。他の部屋はとっくの昔に明かりを落としているが、そこだけはいつまでも火が絶えない。絶えるのはいつも日付が変わってからだった。


「入れよ、アルドル。お前だろ?」


 気配にはとっくに気がついていたのだろう。ミダイヤは戦斧の手入れをする手を止め、戸口を振り返らずににやりと笑った。

 アルドルは開いたままの戸を指で二度叩いて見せた。


「ご無沙汰しております、ミダイヤ教官。つまらないもので恐縮ですが、手土産なぞお持ちしました」


 そう言って酒の瓶を掲げて見せる。

 無精ひげを生やし、少しくたびれた表情ながら、青い瞳にいつも通り親切そうな眼差しと、微笑みに思いやり深さを宿している。

 気心の知れた者の来訪にミダイヤは破顔する。


「おいおい、なんだ、その他人行儀は。冗談にしてもつまらないぞ」


 ミダイヤはアルドルが冒険者登録をしたときから、アルドルは戦士ギルドに加入したときからミダイヤのことを知っている。武器携行証の試験をしたのもミダイヤだ。年が近いこともあり、教官と新米冒険者という垣根を超えるのは早かった。


「明日から遠出をするから、その前に寄らせてもらったよ。いや、しかし、尊敬しているのは本当だ。さっき自宅に寄らせてもらったんだが、フィヨル殿からまだ職場だと聞いてね。いつもこんな時間まで?」

「時々な。武器の手入れをしてただけだ」


 謙遜しながら、斧をしまう。

 武器庫には戦斧をはじめ、弓やボウガン、短剣まで揃っている。ザフィリには職能ギルドが少ないが、冒険者の助けになろうと集められたものだ。そしてミダイヤはその全ての使い方や戦法をマスターしている唯一の教官だった。


 二人は互いの近況を話しながら中庭に出て、酒の栓を抜く。

 頃合いをみて、アルドルは懐から三通の手紙を取り出した。いずれも戦士ギルドが魔術師ギルドに当てたもの。ミダイヤが書いた紹介状だった。


「君から紹介を受けた魔術師三人のことだが――断ろうと思ってる」


 アルドルの所属しているパーティは魔術師を必要としていた。元々、精霊術師がひとり加入していたのだが、彼女は冒険者として大事な資質を欠いていた。

 アルドルはリーダーとして、彼女をメンバーから外し、新しい魔術師を迎え入れるかどうかの判断を迫られていたのだ。

 ミダイヤはアルドルと三通の紹介状を見比べ、眉を顰める。


「わかっているだろう、お前も……。魔力も剣の技も、鍛えれば身につかないものはない。だが《勇気》は別だ。敵の前に立ち、戦う勇気だけは、どんな教官にも育てられないんだぞ。彼女をやめさせて新しい魔術師を雇ったほうがいい」

「意見の相違だな。私はそうは思わない。勇気は育つよ、ミダイヤ。今はまだ、彼女は仲間たちを信じられないでいるだけだ。だが、こちらが信頼に足る人間だとわかってくれたら、あの子は変わるよ」


 思慮深い物言いの裏側には、確固とした信念がある。


「それに、彼女はうちの息子をみても怖がらなかった。《かわいい》と言って抱きしめてくれたんだ」


 アルドルは元々、帝国兵としてアーカンシエルの警護をしていた。

 仕事をやめたのは、妻との間に生まれた子に毛に覆われた獣の耳があり、魔物の特徴を強く宿した《魔物まじり》ではないかと疑われたからだ。アルドルが兵士を続けるには幼い息子の耳を切り落とさなければならなかった。馬鹿馬鹿しい話だが、それはベテル帝からの慣習で、誰にも変えられない。

 彼はまもなく仕事をやめ、ザフィリに移り、冒険者稼業をはじめた。


「私は彼女のためなら命を賭けられる。大事なのは、彼女が優秀な魔術師かどうかじゃない」


 ミダイヤは三通の紹介状を受け取った。

 新しい人員を雇うべきという考えは変わらない。だが、アルドルが下した決断を否定もしない。

 この決断がどんな未来を導くかなど、誰にもわかりようがないのだ。はっきりしているのは、そこにお互いに対する信頼がある、ということだけだった。


「これはしばらくの間、預かっておこう」

「そうしてくれ。ミダイヤ、君は子供は作らないのか?」


 ミダイヤは肩を竦めた。


「いずれはな。フィヨルの体がよくなったら……」

「魔術による治療や、何か……方法はないのか。そのための冒険者だろう」

「体が弱いだけで病気ではないから、強い治療は負担になる。方法はなくもないが、まあ、地獄の沙汰も金次第というやつだ」

「なるほどな。では、出世すればいい。戦士ギルド長を狙え」

「おう、そいつはいいアイデアだ。無名剣士アルドルが春の技能博覧会で並み居る猛者どもをなぎ倒し、優勝を勝ち取ってくれたら、このザフィリにも日の目が当たる。せめて二刀のアトゥくらいは倒してくれ」

「《二刀》の……金板だな……いけるかなあ。あいつは強いぞ」

「ああ。強い。二刀とはまだ戦ったことがない」

「私もだ」


 アルドルは大真面目に考えている。くだらない与太話だが、アルドルと話しているときだけは、ミダイヤは重たく、目には見えない荷物を下ろすことができる。それはとりもなおさず、自分の身に降りかかる理不尽な出来事のすべてを、他人のせいにしなくてもいいということだった。己の力だけでこの困難に打ち勝っていけるのだと、錯覚できる瞬間だった。

 アルドルにとってはどうだっただろう……。

 確認する術は、もうどこにも残されていない。


「手合わせでもしていくか? 飲んでるが。この街には歯ごたえのあるやつがいなくて退屈なんだ」

「明日は朝が早いんだ。だから、帰って来たら」


 アルドルは申し訳なさそうな声で言い、片手を上げてみせる。


「じゃあ、また」


 次のない約束と、途方にくれる仲間と、喪失を受け入れられない家族を残し、ひとりの剣士がガガテムの森で帰らぬ人となったのは、その直後のことだった。


 あの夜、若き剣士の瞳に空の星が映り込んでいた。


 酒の杯を傾けながら天を仰ぐ横顔は、導きの星を探しているようだった。

 だが、どれだけ求めたとしても己を導いてくれる万能の存在などありはしない。迷っても、結論が出なくても、意見を違えて泥水を啜ることになったとしても、自分自身で決断を下すしかない。


 それからいくつもの夜を越えて。

 虹の街の袂で、ミダイヤはフギンに問いかける。


「お前は、これから先に生まれてくるだろう俺の娘か、息子にも、同じ荷物を背負わせるつもりなのか…………っ!?」


 それは純粋な《問い》であり、同時に《慟哭》でもあった。

 ミダイヤに殴られた痛みや、奪われた屈辱を忘れたことはない。

 だが、まったく同じ痛みと屈辱をフギンも彼らに強いたのだ。

 自分にも、他者にも向き合わずに逃げ続けた日々の全てが、ミダイヤとその血に連なる者たちに犠牲を支払わせたのだ。


 彼らに、《戦士の誓いに背かなかった》という栄誉を与える代わりに。



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