第121話 虹の街《中》


 その仮説を聞いたとき、フギンはただ黙りこんでいた。

 ショックを受けているようにも見えるし、現実を受け止めきれていないだけのようにも見える。

 《旅が解決してくれることもある》とは、琥珀亭のニグラの言だ。

 それはきっと、何もしないでいても自然と問題が解決してしまう、という意味ではないのだろう。

 どこにいても人目のあるアーカンシエルの市街地を抜け出し、ごつごつした山肌に沿って刻まれた回廊を渡ると、岩壁にへばりつくように家屋が並んでいる。その高台に広場のような場所がある。

 ふたりはそこから夕陽の色を眺めていた。

 マテルの膝の上には、ニグラが寄越したフギンの過去の記録が広げられていた。……デゼルトで、そしてザフィリで、名前や素性を変えて受けてきた過去の依頼がまとめられたメモだ。


「最後にひとつ。ミシエのこと、覚えてる?」


 フギンは首を横に振った。


「俺の力はすべて死者の……他人から盗んだものなのか」

「それは、まだ決めつけるべきじゃない」


 確認できているのは、アルドルの剣技と、そしてミシエの演奏能力だけだ。フギンの能力のすべてが、ということではない。

 確かにフギンは剣が使えるようにはなったが、それがアルドルのものと全く同じなのか、それとも見せかけだけなのか、それすらもアルドルを知らないマテルには判断がつかない。

 彼の仲間たちはザフィリにいて、確かめるすべはないのだ。


「だからといって、精霊術や錬金術だけは別だと考えるのは都合が良すぎる」


 フギンはそう言って俯いた。そして「昔のことは」と絞り出すような声音が聞こえてくる。


「いつも曖昧で、思い出せなくて……。だけど、それはただ忘れているだけだろうと思っていた。この大陸のどこかに自分の過去があるだろうと。いつか、どこかで精霊術を学び、錬金術を学んだ過去が……。でも、ちがったんだな」


 その言葉の続きは、あまりにも残酷だった。

 もしも逆の立場だったなら、マテルはひどく心細い思いをしたに違いない。

 今まで自分を支えてきたものが、自分自身の努力の結果ではなく、何の根拠もない、得体の知れない力だと知ったなら。

 今のマテルにあるもの……祖父との鍛錬の日々や、写本師として修業したあの時間すべてが他人もので、自分自身の力で得たものは何一つないのだと突き付けられたとしたら、今までと同じように振舞えるとはとても思えなかった。


「オリヴィニスに行こう。《メル》を探しだせば、君たちが何者なのかを突き止められる」

「もしもメルを探し出しても、《そうだ》とわかるだけかもしれない。俺には過去と呼べるほどのものは何もないのだと」


 フギンの心の内はうかがい知れない。だけど、その瞳のかげりが、開きかけていた扉が静かにしまっていくのを予感させた。

 その苦しみを理解するからこそ、旅を諦めてほしくはなかった。


「もしも君の想像通りだとしても、僕の工房の窓を叩いたのは君だよ。一緒に行こうと約束したのは、そしてここまで歩いてきたのは君じゃないか。前に言ったね、冒険は物語とは違うって」


 地下水道でそう言ったフギンが、差し出されたマテルの手をはねのけたのが、今は切なかった。あのときは何もわかっていなかった。彼が背負っているものの正体など何も知らずに、ただただ物語のページを開く気軽さで旅に出ようと言った自分の浅はかさが、ひたすら重くのしかかってくるようだ。


「あのときは反発したけれど、確かに現実は物語とはちがう。たとえ過去がどうであれ、この先のことは変えていける。僕たちが行く先にはきっと、まだ見たことのない、誰も知らない何かが待ち受けてる……そうじゃないかな」


 旅をやめてしまったら、写本師としてのマテルには、友人にしてやれることは何ひとつない。

 一縷の望みをかけて言葉を紡いだ。

 だけど、フギンはもう、マテルのことを見てはいなかった。





 そのことに気がついてから、フギンはずっと考えていた。

 フギンが見ていた現実はどうやら、ひどく小さな世界の窓からみた景色でしかなかったようだ。

 もしもマテルの言っていることが……。

 死者の魂を、そして記憶の一部を、かすめ取るように自分のものとして使えるのだとしたら。


 漠然と、恐ろしいと感じた。


 死者の肉を食らい糧にする魔物と何がちがうのだろう。

 その在り方は人間とはちがっている。人は、己の手で掴んだことがすべてだ。己の頭で考え、手を動かし、そして学び取った経験で生きていく。

 しかしフギンはちがう。


 なぜそのことを忘れていたんだろう。


 どこからどこまでが自分自身で、どこから先がそうではないのか、どれだけ考えても自分ではわからなかった。

 その境界線を手繰りながら時間だけが過ぎていく。

 空の明かりよりも地上の灯が強く輝きはじめた。

 平地よりもずっと冷たい空気に、吐く息が白く凍りつく。

 空に浮かぶ星の名を、フギンはいくつも挙げられる。だけどそれは本当に自分の記憶だろうか。

 かじかんだ指の冷たさも自分のものとは思えなくなった頃。


「フギン」


 フギンの目の前に誰かが――ひとりの女性が立っている。ちょうど芦の穂の色をした長い髪を夜風に揺らしていた。足首に届きそうなほど長い髪だ。彼女が歩むたびに、スカートと一緒に翻る。楽し気に。

 何度か夢の中で、彼女の姿を見た気がする。

 しかし、顔をみるのははじめてだ。

 彼女はゆっくりと振り返る。

 そして跳ねるようにフギンの隣まで来て腰を下ろす。

 薄青色の瞳がフギンを見つめている。優しく、それでいて凛とした眼差しに見据えられた瞬間、胸にじわりとにじんだ感触は、《なつかしさ》に似ていた。


「フギン、誰かがわたしたちを見ている」

「誰か?」

……」


 彼女は指で示した。

 その方角から、一瞬、強い眼差しを感じ、フギンは身を強張らせる。

 誰かに見られている、という強い感覚を覚える。それも恨みや憎しみといった強い感情を孕んだ眼差しだ。

 広場の暗がりに目を凝らすと、闇夜に溶け込むように漆黒のローブが見える。片手に毒蝶の短剣を、そしてもう片方に血の染みをつけた布切れを手にしている。

 布切れはフギンが見ている前で燃え上がり、灰になって消えた。

 少年の姿も灰と共に消えてなくなる。


「アマレナ……?」


 ミシスが言っていた、裏切り者のハーフエルフ。ミシエを殺した少年だ。

 いつの間にか女性の姿は消えていた。

 星々の輝きが先ほどよりも強くなり、寒さが少しだけ和らぐ。日が暮れてなお続くアーカンシエルの喧騒がより大きく感じられ、入り口に焚かれた篝火が目に入る。

 さっきまでの、恐ろしいほどの静謐が遠ざかっている。

 フギンは夢を見ていたのだ。

 まるで現実のような夢を。


「フギン!」


 階段の下のほうから、マテルの声がする。

 見ると、毛布を片手にこちらに手を振っているマテルの姿があった。

 嫌な予感がする。

 夢は終わったが、眼差しはまだここを離れてはいない。


「マテル、逃げろ!」


 言うや否や、天が明るく瞬いた。

 稲光。続いて炎と爆発が続く。

 弾け散った石が頭上から降り注ぐ。


「落石――!!」


 見張りの衛兵が声を張り上げる。

 闇夜の中で、大きな岩が滑り落ちるのが見えた。

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