第119話 ぎわくのヴぃるへるみな《下》


【マリエラの視点】



 彼女ならば、こう言うだろう。


 《こんなはずじゃなかった》と。


 彼女は生まれてはじめて自分自身を呪っていた。

 生まれてはじめて、敗北というものの輪郭を掴んだ。

 あまりにもみじめで、あまりにも激しい怒りが彼女マリエラをさいなんでいた。


 マリエラは生来、勝気な性格で、勉学にしろ運動にしろ美貌にしろ、他人に負けたことがなかった。もしも負けたとしても努力に努力を重ね、岩にかじりついてでも追い抜いてみせた。そういう性格であったので、両親がバカでグズの兄たちばかりを可愛がることに我慢がならず、家を飛び出して冒険者の世界に入った。

 彼女の生家はそれなりに知られた商家であったが、帝国では、皇帝ベテルが出した法令によって女性が家督や事業を継承することが今だに禁じられている。

 どのみち実家にいたのではその才能は埋もれてしまっていただろう。

 実力主義の世界のほうが向いていた。

 そして魔術の知識を生かし、冒険者生活を送ること十余年。

 今や、アーカンシエルで魔法剣士マリエラの名を知らない者はいない。

 危険や困難を返り討ちにして、それなりの名誉と栄光、そして財産をみずからの力で得た――その自負は、生来の気性をさらに激しいものにさせた。


 だからこそ。

 彼女はその事実を認められなかった。

 認めるわけにはいかなかった。


 そう、つまり……。


 彼女はいまだに、ただの一度も、男と交際したことがないのである。


 突然何を言い出すのかと思われるかもしれないが、そうなのだ。

 マリエラはよく他人から美しいと言われるし、自分自身、人より優れた容貌であると自覚していた。体型もことさら豊かと言うほどではないかもしれないが、なかなか恵まれた胸がついているし、ウェストは引き締まっていて手足はすらりと長い。おまけに頭もキレるし仕事もできる。


 それなのに、恋人ができない。


 冗談でもなんでもなく、まったく、ひとりもできない。異性にしろ同性にしろ、親しくなっても深い仲になることはない。

 懇ろになったこともただならぬ関係を築いたこともない。

 もちろん男と寝所とか褥とか臥所とか呼ばれるところを共にしたこともない。夜伽とかいうのはまさにお伽噺の世界の話で、夜のみ開かれる秘密の扉はガッチリ閉まったままだし、純白の花が蹴散らされたことはないし、霊峰に降る初雪は踏みあらされることはなかった。

 まだまだ若い、と胸を張って言えたころは、まだそのことを無視できた。

 しかし二十代も後半に差し掛かり、風の噂に幼馴染が結婚し、二児の母親となったと聞くと心が揺らいだ。


 何故、他の女性よりも優れた自分が孤独に夜を過ごさなければならないのか……。


 それは彼女だけの努力でどうにかなる問題ではない。

 たとえば酒場に繰り出すと、決まって男たちが口に出すのもはばかられる野卑た声かけをしてくる。

 プライドが極限まで高いマリエラはそんな男たちの相手をするつもりは毛頭ない。

 だが男たちのほうはほうで、心のどこかで「あの高嶺の花であるマリエラの相手が俺なんかに務まるわけがない」と思っているのだ。

 高すぎる自尊心と、同じく高すぎる周囲の評価が問題の解決の糸口をこれでもかというほどこんがらがったものにしていた。

 これで彼女の自己評価が高すぎるものなら笑い話ですむのだが、それなりに根拠があるところが複雑である。


 昨晩など、彼女はずいぶん大胆な手に打って出た。酒場にいた見慣れぬ顔の冒険者に自ら声をかけたのである。


 ただそれだけ、と言われるかもしれないが高すぎるプライドを持て余し気味の彼女にとっては革新的な大躍進だった。


 相手はいかにも貧乏そうで田舎くさい新米冒険者、という風情ではあるが、優しげで、野蛮な戦士どもとは違って教養もある。趣味もあうし、何より若い。

 これまで自分はあまりに高望みをし過ぎていた。十代のころとは違って恋愛や男女の関係に夢など抱いてはいない。ここらあたりで手を打っておこう、というわけである。

 ただ、このときのマリエラは、まさか自分の誘いを断る男がこの世にいるとは思っていなかった。

 それが彼女の最大の誤算であった。


 翌日、マリエラはこの世の全てを呪っていた。


 男に逃げられたからだ。それ以上でも以下でもない。

 宿にこもって一日中ベッドに籠って泣いていたい気分だったが、一流冒険者としての矜持をかき集めて、うめき声をあげながら仕事先に向かった。

 今日は贔屓にしてくれている商会から呼び声がかかっている。ギルドを通さず仕事を依頼してくるのは両者の間にある信頼関係のなせる技だ。


 待ち合わせ場所は街の門のすぐ外だ。

 彼女は手のひらに《冷静沈着》と三度書いて飲み込み、気を引き締めて、今日の仕事仲間の前にさっそうと現れるのだった。


「待たせたわね。カウゴ商会専属護衛人のマリエラとは、わたしのこと――……」


 名乗りの言葉の先が、言語化されることはなかった。

 そこに集った冒険者たちの顔ぶれを眺めわたし、敏い彼女は《そうする必要はない》と瞬時に気がつき、その場に膝から崩れ落ちそうになった。


「きょ、今日の荷は金貨三十枚の価値がある希少な鉱石よ。間違っても野盗に襲われて奪われるなんて失態はできない、わ。とくにアーカンシエルでは蜥蜴人リザードマンが迷宮の外でも出現するようになって、夜間は危険……よ」


 声が震えた。しかし倒れることをプライドが許さず、半ばパニックになりながら自動機械のように言葉を紡ぐ。

 その必死の言葉に、


「――――荷物は転送の魔術をかけて金庫の中だ。術者である俺を現地に運んでくれれば、たとえ全滅しても荷を奪取される危険はない…………」


 そう、フギンは答えた。



 


 道中、誰もしゃべらなかった。

 唯一ヴィルヘルミナが何かを喋りたそうだったが、何か一言でも話したら、大切なものが壊れてしまいそうだった。

 繊細できらめく宝石のようで硝子のように壊れやすい不可視の存在が、四人の間に張り巡らされていた。

 途中、蜥蜴人が何度も襲ってきたし、山賊の襲撃にも遭ったような気がするが、あまり記憶にない。

 とくに山賊どもが「別嬪の姉ちゃん」「俺たちとイイコトしようぜ」みたいな際どいワードを発する寸前に倒すことに執心していて、荒れ狂った暴風のように戦っているうちに気がついたら夜が更けかけていた。

 森の中で野営し、焚火を囲む。

 みんなが無表情で黙りこくり、地面を見つめている。

 ぱちぱちと弾ける火花を囲みながら、そこは暖かさからかけ離れた奇妙で異様な空間だった。もしも他の旅人が通りがかったら、何も言わず逃げ出したかもしれない。

 半刻も経たないうちに、沈黙に耐えきれなくなったマリエラが立ち上がり、叫んだ。


「なんで! 誰もなんにも言わないのよ!! とくにそこのオマエ、何か、何かあるんじゃないのか、アタシに!!!!」


「マテル、土下座」とフギンが沈痛な面持ちで命じる。

「すみませんでした!!」と、マテルはなんだか年季の入った土下座を秒で披露する。


「クソッ、安い頭を下げるな! なんなのよ、ほんと!! 肝心なときにあんなわっかりやすい逃げ方して! 泥かぶって逃げるからこっちも責められないしさ! なのに翌日に顔合わすってないでしょ普通!」

「落ち着け、これには事情があるんだ」

「事情!? なんの事情があるっていうのよ!! あたしを抱かない事情か!? 死ね!」


 マリエラは半泣きで剣を抜き、上段から切りかかってきた。

 フギンはナイフを抜き、マテルを背後にかばって防いだ。自分でも何故防げたのかわからない致死的な攻撃だったが、奇跡が起きたとしか思えない。

 だが、悲しいかなマリエラのほうが膂力がありじわじわ押されていく。

 しかもその刃が輝きはじめる。

 マリエラは魔法剣士だ。しかも単身で戦うことに特化した剣士よりの真魔術師で、昼間の蜥蜴人との戦闘をみるに剣にいろいろな魔法効果を付与することができるらしいのだ。


「フギン、危ない!」


 マテルがフギンの腰を抱えてつばぜり合いから押し出す。

 すんでのところで、光の刃が剣から飛び出し、さきほどまでフギンがいた場所の真後ろにある大木の幹を薙ぎ払い、切り倒していった。

 マテルにかばわれ、地面にふせたままフギンは必死に言葉を紡いだ。


「やめろ、あんたの気持ちもわからなくもないが、たった一晩、しかも何もなかったんだろう!? 本気で切りかかることのほどか……!?」

「たった……一晩……? 何も……なかった……?」


 マリエラは涙でグシャグシャになった顔を上げた。


「だからダメなんじゃないっ! せっかく、せっかく処女を捨てられると思ったのに!」


 そして天を仰いで、わんわんと大声で泣き始めた。

 事情はなんとなく察したが、気まずさは以前の百二十倍であった。

 この場をなんとかできるのは、ひとりだ。金板冒険者以上の実力者であるヴィルヘルミナしかいない。


「おい、ヴィルヘルミナ。これ以上は男の俺にはもう打つ手がない。女どうし、何かないのか」

「ふっ。このヴィルヘルミナを頼るのか、まあ、やってみてもいいぞ」


 ヴィルヘルミナは妙に落ち着き払っていた。

 混乱しきって逆に膠着状態に陥った現場で、静かに湧かした湯を茶葉に注ぎ、紅茶で満たしたカップを鼻水でぐちゃぐちゃになったマリエラに差し出す。


「落ち着くがいい、お嬢さん……」

「あんたが至近距離に存在しているっていう事実だけで落ち着けないわよ」

「まあまあ……。お嬢さんの嘆きも、ふがいないマテルを責める気持ちもよくわかる。だが涙を流す必要はない。処女がいったいどうしたというのだ。むしろそれは女の誇りであり、恥ずかしいことではない。慌ててつまらない男を摑まえるなどもったいないぞ」


 いったいお前が女の何を知っているというのだ……と言いたくなるほどの上から目線ではあるが、それはマリエラが今まさにかけてほしい慰めの言葉に一番近いものだっただろう。彼女の潤んだ瞳から、涙の気配が少しだけ引いていく。

 そしてヴィルヘルミナはマリエラの肩を抱き、少し恥ずかしそうに言葉を継ぐ。


「それに……な、そういう目的のために、マテルを使おうというのは間違っているぞ。何しろマテルとフギンは恋人どうしで、愛し合っているのだからな」


 その誤解が持ち越されていることに気がついたのはこの瞬間だった。


「ふ、ふたりは、本当に……!?」

「違う!!!!」


 フギンが否定したにも関わらず、マリエラは思いっきりショックを受けた顔で、細かく震えている。


「何がちがうのだ。ふたりは私に内緒話とかよくしてるし、さっきもお互いをかばったりとかするし……宿の部屋も私だけ仲間はずれだ!」

「ヴィルヘルミナを混ぜられない話のほうが多いんだよ。それに三人部屋にするほうが問題だろう!」


 必死の取り成しもヴィルヘルミナは聞いちゃいない。

 片や、蒼白を通り越して灰色となった顔色でマリエラはマテルの首元を絞めつけて問い詰めている。


「ねえ、それは本当なの? マテル。あなた、男しか愛せないのに、あたしに思わせぶりな態度をとったりしたの?」

「ちがう、ちがうんだ、マリエラ! それはヴィルヘルミナの勘違いだ!」

「勘違いじゃない。ふたりはひとつしかないパンとかお菓子とか、よく半分こにしたりしてる!!」

「じゃ、じゃあ、譲歩するわ。二人が愛し合ってるところに、あたしを混ぜてくれるだけでいいから!」

「む、デリケートな問題に土足で踏み込むでない、マリエラよ」


 もうだめだ、と彼は思った。

 誤解が誤解を生み、こんがらがった事情と感情が絡み合い、混乱が窮まっていくこの場所で、フギンは自身に降りかかった疑惑を振り払う気力すらなく、翌朝、下草の一本までが切り払われて原っぱとなった空き地を夢想していた。


 そのとき、藪ががさりとうごめいた。


 その後ろで、全身が鱗に覆われた二足の獣たちの影が、無数に……。

 二十はいるだろうか。

 蜥蜴人たちは人型で知能と社会性があり、上位個体は武器も使う。

 昼間、倒された仲間たちの弔い合戦、復讐に訪れたに違いない。


「おい、お前ら、魔物だぞ」


 声をかけても、三人はこちらに注意を払ってすらいない。


「それじゃあ、あんたは、眠ってて。薬飲んで寝ていてくれたらいいから!」

「それは人道的に許されないと思う!」

「自らの性的指向をなぜ恥じる必要があるのだ!? マテルよ!」


 あしたもしも夜明けまで生きていたら、はじめて神に祈りを捧げよう。


 はからずも、自身に与えられた無明の生に感謝の念を抱いたのは、フギンにとってはこれが初めてのこととなった。


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