第118話 ぎわくのヴぃるへるみな《中》
【ヴィルヘルミナの視点】
フギンは男女の心の機微のことについてなんにもわかっていない、と言うだろう。彼女なら。
ヴィルヘルミナ・ブラマンジェはぽんこつである。
百人に訊ねれば百人が断言するほどにぽんこつである。
であるが、しかし、育ちは良かった。
彼女の実家はいわゆる《名家》と言って差し支えなく、ヴィルヘルミナがまだ十になるかならないかといった年の頃、両親はこの娘を一人前の《淑女》に育てよう、という気概をまだ失ってはいなかった。十一になった年の春、棒っきれひとつで暴漢を半死半生の目に遭わせたのをキッカケにすべてを諦めるまでは、家庭教師をつけて礼儀作法を叩きこみ、社交の場に連れ出しては劇やら絵画やら音楽やら、一通りの文化・教養・芸術に触れさせていたのである。
それらの涙ぐましい努力の成果は、一番厄介なときに立ち現れた。
歌劇についても古典や名作と言われるたぐいのものは一通り履修している彼女は、マテルがどんな駆け引きをしていたのか、微に入り細に入り把握していて「なかなかやるではないか」などとほくそ笑んでいたのであった。
女にとって他人の色恋をあれこれ言うのは特権であり楽しみでもある。
なにしろマテルに声をかけていた女冒険者は、控えめに言って美女だ。実力もあるらしくいかにも高嶺の花と言った風情は、酒場に咲いた一輪の百合のごとくであった。それを、どうみても格のつりあわない写本師の青年が口説き落としたのだから、これを楽しまないいわれはない――。
昨夜は一番いいところで察しの悪いフギンに宿に押し込まれてしまい、憤懣やるかたないヴィルヘルミナであったが、翌日、誰よりもはやく食堂に赴き、思わぬ僥倖にほくそ笑んだ。
隅のテーブルで紅茶のカップを傾けているのは件の魔法剣士である。
美女と呼ぶにふさわしい、華やかでありながら上品さを漂わせる容貌、しなやかに引き締まったすらりとした体躯。朝のさわやかな光の下に彼女をみつけたとき、ヴィルヘルミナは胸のうちでガッツポーズをキメた。
気になる。
昨晩、あの後のことがメチャクチャ気になる――――。
純粋無垢な下卑た思考回路が命じるまま、ヴィルヘルミナは何食わぬ顔で大盛りの朝食を要求し、女の隣のテーブルに着席する。
しかし複雑な女心をむやみに逆立てて、口を閉ざされては堪らない。
事は慎重に成されなければならない。
咳払いののち、淑女然とした雰囲気を全身から放ち、満を持してごく自然に、ごくさり気なく、落ち着きのある低音ボイスで声をかけた。
「お嬢さん、昨晩はお楽しみのようで……。質、量ともに、うちのマテルにはご満足いただけましたかな……?」
「何なのアナタ。殺すわよ」
その声かけの仕方で、それ以外の反応が返ってくると思っていたのだろうか。
いや、思っていたのである。ヴィルヘルミナだから。
どれほど芸術に親しもうが、教養を身に着けようが、女性の心の機微からヴィルヘルミナという存在はおおよそかけ離れた異次元にいるのである。
しかし、ヴィルヘルミナがヴィルヘルミナであるからという以上に、魔法剣士の機嫌は悪い。
毛を逆立てた猫を通り越して豹のような殺意が、全身から放たれている。
流石のヴィルヘルミナも、雲行きの怪しさを感じた。
「あら」声をかけてきた不審人物の姿を視認し、魔法剣士は眉をひそめた。「アナタ、昨日、酒場にいた……アイツの仲間ね」
「ヴィルヘルミナ・ブラマンジェだ」
「あらそう、マリエラよ。興味ないけど」
興味ない、とか言いながら、その口調は鋭い針そのものだ。
敵意とともに放たれて、皮膚をブスブス刺してくる。しかしヴィルヘルミナは精神的なダメージでは引き下がらない。
「よかったら、朝食をご一緒しようではないか。女どうし、つもる話もあるだろう」
「何よ、つもる話って。アンタにつきあうつもりはないわ」
「あ、ちょっと……マテルは、マテルとはいったいどうなったのだ!?」
「知らないわ、あんな男」
立ち上がりかけたマリエラだが、しばし、動きを止めた。
そして振り返って言う。
「そういえば、あんたたちのパーティにもうひとり、男がいたでしょう」
「フギンのことか」
「あいつら、少し距離が近いんじゃなくて?」
それは捨て台詞、というべきものであった。
「距離……? 戦闘時の間合いのことか? たしかに、フギンは相手との距離感をはかりかねているときがあるな。魔術師は後方に控えるのが基本戦術ではあるが、しかし乱戦のときは前衛職が庇護できるよう配慮すべきだ」
その意図を取りかねたヴィルヘルミナが見当違いのことを述べると、マリエラはよけいにイライラした調子で怒鳴りつけた。
「ちがう。つまり、デキてるってことよ!」
とんでもない言葉が、朝っぱらから美女の口から放たれて、少しずつ泊まり客が増えていた食堂の内部はしん、と静まる。
しかしそれも一瞬のことだ。
いかにもプライドの高そうなマリエラは自分の行いを恥じたのか、さっさと食堂を後にする。
取り残されたヴィルヘルミナは、呆然としてつぶやいた。
「フギンとマテルが…………?」
こうして《最悪》がはじまった。
【フギンとマテルの視点】
朝になって戻ってきたマテルはひどい状態だった。
全身から酒の臭いをさせているし、服も髪も乱れている。いつも身ぎれいにしているマテルとは別人だ。なにより、頬に殴られたあとがある。
「――――――男前を上げたな」
「ごめん、フギン」
「二日酔いの特効薬だ、飲め」
フギンはドロドロの緑色をした奇怪な液体で満たされた杯を差し出す。
雑草を煮詰めたようなえぐみのある臭いがする液体を喉の奥へと流し込み、差し出された水で飲み下す。純粋な不味さによる吐き気がおさまると、不思議に気分の悪さも引いていった。
そのタイミングで、フギンは話しはじめる。
「昨日のあの女は魔法剣士のマリエラ。剣の腕はそこそこだが、真魔術の使い手としては一流で、商家や鉱山師にも贔屓がいる金板冒険者だそうだ。斬られずに済んだだけ、ましだったな」
「彼女とは何もなかったんだよ。本当に……」
フギンは昨夜のことを説明しようとするマテルの言葉を遮る。
「どうせ、事に及ぶまえに文字通り酒を浴びるほど飲んで逃げ出したんだろう」
「よくおわかりで……」
マテルはただただ恥じ入るばかりだ。
昨晩、麗しき女性にとんでもない勘違いをさせたマテルは、逃げるに逃げられず、かといってこれ以上進むわけにもいかず、最終手段を使用した。直接断れば、誘ってくれた女性の面子を傷つける。なので酒の力を借りて、自ら使いものにならなくなるという強硬手段によって、である。
「そんな真似をするくらいなら、一晩くらい楽しんでくればよかったのに」
「またまた。しがない写本工房の跡取りには、過ぎた女性さ」
「嫁取り前の一人息子に旅先で間違いがあったら、両親が泣くっていうわけか」
「やめてくれよ、フギン。それにしても、君、こうなるとわかっていて薬を用意してくれてたんだね」
「まあな」
話しながら食堂に降りると、口を半開きにしたままのヴィルヘルミナが固まっていた。様子がおかしいが、それはいつものことなので、二人はごく自然な流れで同じテーブルに座る。
フギンは凍り付いたままのヴィルヘルミナの皿から固焼きのパンを一枚くすね、地図を広げた。
「さっそく、仕事の話だが……」
昨日フギンは酒場にいた冒険者から、適当な仕事の情報を得ていた。
とある商家がアーカンシエルまでの荷運び人を募集しているというものだ。
それは酒場にいた銀板冒険者から仕入れた情報で、元はその男が受けるはずだった仕事だが、フギンが手先の器用さをいかして調子の悪い武具や防具の手入れをしてやると快く譲ってくれたのだった。
「まさか、僕が帰るまでに段取りをつけてくれてたとか?」
「そのまさかだ。俺以外に動ける奴がいなかったからな。朝いちばんに、その商家とやらを訪ねてみた」
そして仲間がひどい二日酔いで帰ってくることを見越して、薬の準備もしていたのである。マテルは苦い表情だ。
「すごいな、フギンは。君がうちに嫁に来てくれたらどんなにいいか……」
冗談まじりのセリフに、ヴィルヘルミナが突然はね起きた。
「な……なんの話だ、いったい!?」
食堂に二度目の静けさが訪れた。しかし、喧嘩でも人死にでもないと悟ると、冒険者たちはたちまち興味をなくす。
ただし、興味がないからといって流してばかりもいられないフギンは思いっきり眉間に皺をよせた。
マテルは真顔のままである。
「もしかして、事情を聴いたほうがいいのかな」と、マテル。
「やめておけ。どうせろくでもないぞ」と、フギン。
しかし、ヴィルヘルミナは自ら話し始めた。
「大きな声をだしてす、すまなかった。そ、そうだ。ふたりとも。仕事の前に話しておきたいことがある。そう、その、なんだ……」
テーブルの上で両の人差し指を絡めつつ、極めて言いづらそうに、そして若干の恥じらいを交えて、勝手に進みはじめる。
爆走と言っていい速度で、しかも思いがけぬ方向に。
「私は旧家の出で、実に型通りの古臭い教育を受けてきたが、しかし、ある分野においては実に開明的であると自負している。つまり、だ。愛には……そう、愛には様々な形があると思っている……!」
ヴィルヘルミナはわざとらしく咳払いをし、大きな声で言う。
「私は、ふたりがどのような秘密の関係であったとしても、かけがえのない仲間だと思っているぞ!」
「お前は何を言ってるんだ」
「隠さなくていい、隠さなくていいから!」
フギンは黙りこんだ。マテルも同じだ。
語る言葉がなかった。
しかして、ヴィルヘルミナが多大な勘違いをしていることだけが明らかになったわけだが、どうしたらそういう思い込みが起きるのか、そしてそれが誤りであることをわからせることができるのか……。
それはすべてがマリエラの発言のせいだったが、彼女もこんなことになるとは露ほども思ってはいなかっただろう。彼女はただ、自分の誘いを無下に断ってきた男に腹を立て、屈辱感から捨て台詞を残しただけなのだ。
《フギンとマテルがただならない関係にある》というシンプルな誤解は、《これからとんでもなくひどい目にあうだろう》という確信をふたりに抱かせるのに十分であった。
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