第117話 ぎわくのヴぃるへるみな《上》


【フギンの視点】


 とくにどうということのない出来事だった、と彼ならば言うだろう。


 その日暮らしを何年も続けていると、毎日毎日飽きもせず苦しいことやみじめなことが襲ってくる。そのひとつひとつにいちいちけちをつけている暇はないので、驚くほど感情の起伏が平坦になってくる。だから、というだけではない。


 確かになんでもない日のなんでもない出来事としての要素があった。


 彼らは――……つまりフギンとマテル、それからヴィルヘルミナの凸凹三人組(凸は主にヴィルヘルミナ)は、ニスミスを出発して北西に向かっていた。

 その先にあるのは《賢者の石》の一大産地だ。《迷宮》にして生きた鉱脈である《迷宮鉱山》と鉱夫と冒険者の街、《アーカンシエル》を中心として、いくつもの廃坑やまだ稼働している坑道が入り混じる。 

 フギンたちは路銀を稼ぐため、一旦オリヴィニスへの最短ルートを離れクラベジナ鉱山跡がある方角へと向かっていた。

 アーカンシエルは東大陸のオリヴィニス、と呼ばれるほど活気のある街だそうだが、今回は迷宮探訪が目的ではない。あくまでも路銀稼ぎのためだ。

 マレヨナ丘陵から街道沿いに進めば、かぎりなく平和裏にオリヴィニスへと辿り着く。だが、平和な場所に冒険者の仕事はない。

 迷宮のそばならば、何かフギンたちが旅すがら受けるにふさわしい依頼が転がっているに違いない。

 そういう目算で訪れた町は、まさしく同じ魂胆の同業者であふれていた。大部分はクラベジナ鉱山跡で魔物退治の依頼を受けるか、それともさらに足を延ばしてアーカンシエルまで向かう者たちだろう。

 しかしフギンたちにとっては狭い坑道を何日も潜って稀少鉱物を探したり、魔物を狩るというのは、あまり現実的な計画ではない。迷宮攻略にはそれに相応しい装備が必要だし、何より人数が少なすぎる。アーカンシエル近辺の坑道に入って仕事をする連中は最低でも五人以上のパーティだ。

 それだけの頭数がそろえば、荷運びも戦闘の負担も分担できる。しかしフギンたちは最低限の人数しかおらず、それぞれに代わりがいない。ヴィルヘルミナは強いから何があっても大丈夫だろうが、もしも強敵と遭遇してマテルとフギンが負傷したら、彼女がふたりを担いで逃げるというのは難しい。おまけにマテルはまだ駆け出しで、フギンもよく知らない迷宮に手をつけるのはあまりにも無謀だ。

 できればこの近辺の村や町で、迷宮からはぐれた魔物を狩る仕事なんかを受けたかった。

 近くに冒険者ギルドがなければ、そういう情報を仕入れるのに一番いいのが町の酒場だ。日頃の憂さを晴らすためか、勝利の美酒を味わうためか、酒場には多くの冒険者たちが出入りする。

 そういうわけで、フギンは夜がほどほどに更けてから酒場を訪れた。なけなしの愛想笑いを精一杯に振り撒きながら、そこそこの収穫を得た頃。

 気がつくとマテルが女冒険者と飲んでいた。

 ふたりは詩や文学について会話していて、情報収集という雰囲気ではなかった。

 ヴィルヘルミナが言うには二人は《ただならぬ様子》だそうだが、フギンはそうは思わなかった。というか、二人の関係がどうであろうと関係はないし、他人がどうこう言う立場にはないというのがフギンのスタンスだ。

 妙な詮索は仲間どうしでもよくない、とヴィルヘルミナに言い聞かせ、先に宿にもどった。フギンにとってはただそれだけの一幕だった。


 後々あんなことになると知っていたら、対策の打ちようもあっただろう。


 しかしどれほど後悔したとしても、それは後の祭りというものである。

 

 


【マテルの視点】



 最高に災難な一日だった、と彼ならば表現するに違いない。


 たったひとつの過ちで、あんなことになるとは、と。


 マレヨナ丘陵やニスミスのあたりまでは、特筆することもない長閑な風景が続いた。街のようすもザフィリと大差なく、言ってはなんだが食傷気味だったマテルだが、鉱山が近づくにつれて再び出発した頃と同じうきうきとした心持ちがよみがえってきた。

 クラベジナ鉱山の岩肌が露出した山影を背景に、狭小な麓の町は商人や冒険者たちがごっちゃになって騒然としている。

 この辺りまで来ると流石に土壌や水の汚染が深刻で、濾過された水しか飲料にはできない。この街にも錬金術協会が管理する浄水施設があるが、水を汲める井戸にはかならず無許可の井戸番が陣取っていて、飲み水を確保するにも金が要る。

 そういう不自由さはあるにはあるが、デゼルトにはなかった猥雑さは、むしろマテルの心を惹きつけた。

 夜になると山肌にはりついた鉱山街ゲヘルが遠目に見えた。あそこに光を灯しているのは、かつては鉱夫たち、今は坑道にもぐって魔物を退治する冒険者たちなのだ。


 彼にとっては、それは非日常の一環だった。


 だからこそ、酒場に入って見知らぬ女冒険者に声をかけられたときも、どこか浮ついた気分でいたのだろう。

 女は簡略化された軽装ながら鎧を身に着け、剣と真魔術に使う魔術書を両方携えていたが、仕事終わりというほどには汚れていなかった。最初、なにか不機嫌なようすでカウンターにやってきて緋色の酒を一杯頼んだ。

 名前を呼ぶ声がうしろからして、それは屈強な男たちからなるパーティだったが、彼女は振り返りもしない。

 細身で、身に着けている装飾品もさり気なく高価なものだ。手のひらは無傷で華奢とまではいかないが、汚れひとつない女だった。

 彼女はグラスに唇をつけて、軽くマテルに視線を流すと「野蛮な男たちとは話をする気にもなれない」と高飛車に言った。

 暗に《お前もそのうちのひとりだろうから、話しかけるな》という意味の牽制だ。

 普段なら絶対にしないと断言するが、マテルは有名な歌劇の一節を取って返事をした。


「だからここに来たのかい? 《言葉が枯れ果てて会話も途絶え、沈黙だけが残るこの場所に》?」


 その歌劇を見たことはなかった。

 機会があったとしても、男女の恋愛について太った男女が歌い上げる出し物なんかに金を払う必要はなかった。黙っていても劇の熱心なファンが、脚本の写しを特別な装丁で注文しに来るので、どこで幕があがりどこで背景の書き割りが入れ替わるか、幕間の小芝居までもが子細に頭に入っているのである。

 選んだのは主役がヒロインを口説くときの歌詞の一つだ。

 女冒険者は不満そうに鼻を鳴らして「それは女役の歌だわ」と言って微笑んだ。

 彼女が教養深い女性であるというのは見立ての通りで、それから文学や詩の話になった。マテルがしたことは、彼女が挑戦的に突き付けてくる難題に対して、解答を完ぺきに、そしてきわめて従順に暗唱してみせるということだけだった。

 愛にまつわる詩歌を一字一句間違いなく諳じ、古代の賢人が残した散文について語った。伝説上の英雄の説話と似たような話が女神教典にある、という話題では、現在の司祭たちが頻繁に引用しているのが教典の何ページ目の何節目なのかまで指摘した。マテルにとっては何でもないことだが、彼女はそのやりとりを大いに楽しんだ。

 すべては酒の力によってなされたことであり、今ならわかる。そうするべきではなかったのだと。

 気がついたときには、女の嫋やかな右手がマテルのグラスを握る手にぴたりと重なっていた。気のせいでも間違いでもない。何しろ薬指にはめた金の指輪の冷たさを感じとれるくらいだ。

 挑戦的な翡翠色の瞳がねっとりとマテルの全身を睨めあげていく。


「つまり、こういうことよね? 《あなたは深い衝動に駆り立てられてやってきた》の。そして《もう元に戻ることはできない。駆け戻る橋はなく、後戻りはできない》のよ」


 魅惑的な笑みをみせた。

 それは最初にマテルが引用した歌劇の中で使われる歌詞で、魅力的なヒロインを衆目の面前で誘惑し、奪い去るという情熱的な男の歌であった。

 

 つまり、ありていにいえば、彼女は要求しているのである。

 恋人関係を――それも、《一夜の関係》を。


 思い返してみれば、男女の恋愛のゴタゴタを取り上げた歌劇の引用をしたのは、陳腐な口説き文句だと思われても仕方がない行為だ。

 本当に愚かしいことではあるが、彼はただただ非日常を楽しんで浮かれていただけで、こうなることを予知していたわけではなかったのだ。

 恐る恐る視線をうしろに向けると何もわかっていなさそうなフギンのぼんやりした顔が見えた。その隣でヴィルヘルミナが目をランランと輝かせている。

 フギンは歌劇のことなんか何もわからないだろう。興味なんかかけらもないはず。

 だがヴィルヘルミナは違う。


 マテルは事ここにいたり、自分が重大な間違いをおかしたことに気がついた。

 旅に出てから、最大の厄介ごとである。

 はっきり言って、これにくらべれば魔物と戦うことなどどうということはなかった。

 

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