第113話 眠る村《下》



 《暗い眠り》の魔術は精霊術師にとって初歩の魔術だ。とくに冒険者と行動を共にする者なら、最初に身に着けなければならないもののひとつだろう。

 初歩の魔術ではあるのだが、テデレ村に呼び寄せられた精霊たちは村を覆うほどの量だ。これだけ規模の大きな魔術を使うには、必ずどこかに熟達した魔術師がいるはず……そう信じながら捜索をはじめて、なんの手がかりもないまま三時間が過ぎた。

 三人は再び広場で顔を合わせた。


「思うに……精霊術師とやらは私の恐るべき実力に慄いて、自ら逃げ出したのだろうな」


 ヴィルヘルミナが述べた意見を完全に無視し、フギンとマテルは考え込む。


「手がかりを探してみたけど、村の中には眠っている人たちしかいなかったよ。魔術師は魔術をかけたまま、どこか別のところに行ってしまったんじゃないかな」

「術者が離れれば精霊たちは元いた場所に帰っていく。五年もこの状態を維持するのは無理だ」

「だとしたら、魔術の効果が切れそうになったときに戻ってくるとか?」

「考えられなくもないが、それだと周りの村の連中が何も気がつかないというのは妙な話だな」


 魔術によって隠れているにしても生きていくために最低限の衣食住が必要だが、村がこの状態ではそれも厳しい。

 結局、今日のところはフォドマ村に戻ろう、という結論にまとまりかけたとき……。

 夜の帳がそっと村の空を撫でた。

 ブドウの蔦に覆われた石壁が藍色に染まり、静謐がとっぷりと村の街路を満たし、夜気を滑らかに伝わっていく。

 ふと、マテルは顔を上げる。

 その視界に光が過った。

 星の明かりではない、人里の明かりだ。


「何これ…………?」


 今まで気配の絶えていた窓という窓に、次々に明かりが灯っていく。

 カンテラやランタンが明るく輝き、かまどに火が入り、薪がぱちぱちと燃える。

 夜の山の中に、藍色の村が浮かび上がる。

 戸惑うフギンの耳に、歌が聞こえてきた。


 祝福しましょう、カナーレのおばさま。

 あなたの宝を祝福いたしましょう。

 千枚の金貨よりももっと重いもの。

 永遠の命なんて紙切れのよう。

 王宮に住まう女王様より幸福な方、カナーレのおばさま。

 おかわいらしいお嬢様が生まれたばかり。


 民家の扉の前で、金色の弦を張った楽器を手にした女楽師が歌っている。門付かどつけにやってきたのだろう。村の祝い事にはありふれた光景だが、フギンは自分の目が信じられない。

 すると、誰もが眠りこけているはずの民家の戸が開き、家の者が出てきて楽師に金を渡した。

 楽士は楽器をかき鳴らし、再び歌いはじめる。今度は往来の人々に語りかけるように高らかに歌い上げた。


 まあなんて素晴らしいご両親。

 懐の深いお方、女神さまのように優しく慈深い方々。

 お嬢様はきっと村いちばんの幸せ者。


 彼らを祝福し終えると、楽士は銀色の長い髪と薄緑いろのヴェールを翻して次の家に向かう。その足取りは妖精のように軽く、一歩を踏み込むたびに足下が銀色に輝いた。


 祝福いたしましょう、富めるお方。

 さあ、この村でいちばんりっぱな紳士の方に、ごあいさつに参ります……。


 すれ違うとき、楽師と視線が合った。ヴェールから覗いているのは尖った耳だ。

 その後ろを、子供たちが笑いさざめきながら面白がってついていく。


「エルフの吟遊詩人なのか……? それにしては妙な雰囲気だ」


 楽師は、いつの間にか通りに溢れていた村人たちの合間を抜けて、宿屋の方角に向かう。

 その後ろ姿を視線で追いかけていると。


「フギン、いったい誰のことだい?」

「いま、隣をすり抜けて行っただろう。村の人たちと一緒に」

「村人たちは家の中で寝てるぞ」


 ヴィルヘルミナが指摘した通り、確かに、村人たちは重たく閉ざした扉の向こうで寝息を立てていた。


「僕に見えているのは光だけだ」


 フギンは冷静になれ、と自分自身に呼び掛ける。

 こんなことは、村人たちやギルドの報告でも聞かなかった。

 何かが起きている。

 しっかりと目を見開き、魔術師としての感覚を研ぎ澄ます。

 そして《魔術師の正円》から一歩踏み出すと、村を覆っている精霊に触れた。

 魔術に対抗するアイテムや術をかけていない状態ならば、すぐに眠りの魔術がかかるはずだ。だがフギンの身に異常は起こらなかった。


「眠らない……魔術の性質が変わってる……」


 精霊魔術のひとつ、《暗い眠り》をかけると、人や獣は眠ってしまう。しかし近年の研究では、それは眠りを誘発するのではなく、生命の《体内時間》そのものに干渉しているのだというのが定説だ。


「魔術師が、村の時間を巻き戻してるのかもしれない……いや、村の時間じゃない。それなら村人たちも目覚めるはず」


 それに不思議なことがある。村人たちや楽師の姿を、マテルとヴィルヘルミナは見ていない。フギンだけが見ているのだ。


「フギン、あまり悩んでいる時間はないぞ」


 さらなる異変に気がついたのはヴィルヘルミナだった。

 瞬きの速さで抜剣し、村の入り口の方角に向かって構える。

 そちらの方角に目をやると、いくつもの小さな輝く瞳がこちらをにらんでいた。


「魔狼の群れだ」

「村を覆っていた眠りの魔術が解けて、それで入り込んだんだろう。マテル、戦えるか」


 転移術で、しまっていた銀のメイスを取り出し、マテルに手渡す。


「狼は僕らが引きつけて何とかする。だから君は村の謎を解いてくれ。状況が変化してる今が、もしかしたら解決の糸口なんじゃないかって気がするんだ」

「だけど……」


 マテルを置いていくことに抵抗があったフギンは二の足を踏んだ。

 しかしマテルは思いのほか真剣な表情でフギンを見つめている。


「あの人の言うことを真に受けたわけじゃないけど、冒険者として僕と君が果たす役割は違うよ、フギン」


 あの人、というのは――――ミダイヤのことだ。

 戦士が前線に出て体を張るのは、後方にいる仲間が状況を打開する術を考えるため。そう言ったことを覚えているのだろう。


「何、このヴィルヘルミナがついているのだ。そうそう心配はいらないぞ」

「そうだな。頼む、ヴィルヘルミナ」

「む……うむ。まかせろ」


 頼む、と言われたヴィルヘルミナは、なにやら照れ臭そうな表情を浮かべていた。

 狼たちがジリジリと距離を詰めて来るのに背を向け、フギンは駆け出した。


「宿屋に向かう。俺は接近戦は無理だ。なるべく近づけないでくれ!」


 それと同時に、群れから一匹の狼が飛び出す。

 狂暴な牙の行く末がどうなるのかをフギンは見届けることなく、楽師の歌声を追った。





 宿屋に明かりがついている。

 二階建ての建物は昼間はブドウの蔦に覆われていたはずだが、今は美しい石組みの外壁が露わになっていた。

 扉を開いて中に入ると、帳場に客と世間話をする主人の姿がある。

 奥の食堂には調理をする女性がいる。

 しかしいずれも、フギンが入ってきたことにまるで気がつかない。

 よく観察すると、その体は半透明に透けて向こう側が見えていた。本物の主人と女将さんは、それぞれの持ち場で眠っている。

 動いている人々は実体のない、魔術で作り出された幻なのだ。


 エルフの女楽師はいったいどこに行ったのだろう?


 戸惑っていると不意に二階から物音がした。続いて悲鳴が聞こえた。

 慌てて帳場に戻る。

 階段から砂色のマントの小柄な人影が下りてきた。粗末な身なりに見えるが、マントの下には紺色に金刺繍を施した衣装と、短剣の鞘が覗いている。

 人影は顔を隠したまま、慌てたようすで出ていった。

 幻を止める術もなく、戸惑ったまま二階に上がる。客室はいずれも扉をきっちりと閉め、物音はしない。

 廊下の奥に彫刻画レリーフが飾ってあるのを見つけた。燭台で照らし出されたそれには、ひざまずく甲冑の騎士たちが描かれている。その視線の先にいるのは、女性だ。髪の長い……。空には二羽のカラスが飛んでいる。

 心惹かれるものを感じ、彫刻のほうへと近づいていく。

 そのとき、うしろで物音がした。

 振り向くと女楽師がほほ笑んでいた。


「昔々のお話ですの。この地に王国があったころのお話。聞いたことがありますでしょ……ヴェルミリオンに攻めこまれたグリシナの王様は、王権とともに姫君を奪われてしまうの。王様に忠誠を誓った騎士たちは、姫君を取り戻そうとして何度も戦いを挑んだと、いろいろな昔話に語られているのよ」

「あなたは……いや、あなたが、この村を眠らせているのですか?」


 女楽師は美しく微笑み、うなずいた。

 その体は半透明に透け、はかなく頼りない。


「しがない門付けのミシエと申します」

「その魔術の強さといい、普通ではない。ハイエルフだな」

「買いかぶりすぎです。村の方たちにかわいそうなことをしてしまったのは確かですが。どうぞ、中でお話しましょう」


 誘われて、真ん中の客室に入る。

 明かりはなかったが、ミシエの体が仄かに輝いている。

 その光に照らされて、寝台と鏡台がひとつだけ置かれた簡素な部屋が浮かび上がる。

 フギンははっとして息をつめた。

 寝台の上に薄物をまとっただけのミシエが横たわっている。

 胸の真ん中に赤いしみが広がっていた。

 彼女はちょうど心臓の上を刺されている。剣ほど幅は広くない。ナイフかダガーのようなものだ。

 流れ出た血は今まさに刺されたように生々しく、触れれば指先が濡れた。


「まさか負傷をしていたから、治療を待つために時を止めたのか?」


 荷物から何か止血に使えるものを探すフギンの手を、ミシエがそっと止める。


「この傷はふつうのものではありません。呪いがかかったもので、ここに治療の術はないのです。魔術を解けば、わたしは死にます」


 ほほ笑む姿はどこまでも美しく優しく、けれどそこにはある種の《覚悟》がある。


「あなたは《幽霊ゴースト》だったんだな」

「その通りです。わたしは旅の身空で、ここで殺されて死にゆくさだめ。でも死の理由を知ってほしくて……。この楽器はわが里の秘宝のひとつ。術者が死んでも、魔術を《自動演奏》するのです」


 白い弦楽器の手元、弦の強さを決める部品に、鮮やかな緑色の宝石がはめこまれている。それが精霊たちを呼び寄せて眠りの魔術を使い、村ごと時を止めて死の瞬間を延長し続けていた。

 そして、フギンにだけ、その死の前に何があったのかを見せた。

 幽霊となった自分自身の時を巻き戻して。

 どうやら、マテルやヴィルヘルミナは幽霊が見えない性質のようだ。


「あんたを殺したのは、さっき出ていった短剣の持ち主なのか」

「はい。眠りの魔術に巻き込まれる前に、出ていきました。顔はみていません。わたしには弟がいるのです。後を追ってきているはずですから、どうか、あなたから伝えてくれませんか」

「何故、俺なんだ? 自分で伝えたらいい。俺たちが弟をみつけてきてもいい」

「あなただから伝えたのです。いずれわかります、旅のはてに。フギン、あなたの旅には意味があるのです」


 ミシエは楽器をつま弾く。

 かすかな音色が、寂しい旋律が部屋に響く。


「どうして俺の名前を知ってるんだ?」

「長く見守って来ましたもの、人の世を」

「そのことについて話してくれないか」

「もう時間がないのです。……それに、あなたが自分の力でみつけることですから」

「もう行くんだな」

「はい」


 ミシエは歌った。

 先ほどと同じ澄んだ声で。

 歌が……。精霊術師が精霊を呼び、語りかけるためのが、風に乗って村に広がっていく。

 彼女は目を閉じたまま歌い、そして瞼をひらく気配だけを残して、消えていた。

 フギンは冷たいミシエの手のひらを握っていた。

 彼女は二度と瞼を開くことはなかった。

 ただ細く長い吐息をひとつ吐いて、深い眠りについた。





 村人たちが起き出し、混乱が広まる前にフギンたちは村を出た。五年もの間、眠ったままでいたことなど、部外者に説明されても余計な誤解を招くのみだ。どうせ報酬ももらえない依頼だ。説明やら何やらすべての面倒ごとをフォドマ村の人々に押し付けても罪にはならない。

 ミシエのこと、そして彼女の亡骸の埋葬だけを丁重に頼むと、フギンたちはギルドのある別の街へと旅立った。

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