第108話 ぽんこつ剣士とのたたかい《上》



 人払いを済ませた広場に、ひとりの男が立っている。

 着込んだマントは血の色に似た緋色。目深にかぶったフードの下にあるのは、褐色の肌と額に彫り込まれた刺青の紋様だった。


「窓のほこりを払っているようだ。何度も何度も拭い去ったはずなのに、また舞い戻ってくる。あぁ、なんて忌々しい。ムニン……その名を再び耳にすることがあろうとは……」


 男は白いハンカチで石畳の上にこぼれた血を拭い取る。

 それを懐の奥深くに差し入れ、笑みを浮かべる。


「あの御方の、ベテル様の憂いを断ち切って差し上げなければ」


 うかべたその表情は愉快さや幸福さからは到底かけ離れた、なにか底知れぬ恐ろしい感情を孕んだそれだった。

 笑っているのに灰色の瞳は冷たく凍え、まるで残忍な処刑人そのもの。

 唇の端が歪めば歪むほど、刺青の模様が業火に燃え上がるように色めき立ち、彫りの深い顔立ちを照らし出す。

 広場を囲んだ兵士たちは、ひとりの人間から、とても人とも思えぬような冷気が放たれるのを感じて身震いをした。その冷たさは真冬の氷のようでいて、触れれば身を焼くが如く痛みが走る。

 兵士たちは、その矛先が決して自分には向かないよう必死に目を逸らすしかないのだった。







 大小の差はあれど、大陸中、冒険者が行き交うところにならどこにでも。

 帝都デゼルトにももちろん、冒険者ギルドはある。

 帝国側の拠点としては一番規模が大きく、依頼の受注のほか、主だったすべての職能について訓練を受けることができる。


「戦士、魔術師、弓術師の三つしか職能ギルドがないザフィリとはえらい違いだ」


 フギンは言いながら、眉を顰めた。

 もちろん、思考の片隅にはミダイヤのことがある。

 三つしか職能ギルドがないということは、職能ギルドが持つ権限の三分の一を戦士職の奴らが持っているということである。

 彼の考えは読めてはいるが、マテルはとくに何も口にせず、隣で見守っている。


「それで、これからどうするんだい?」


 フギンは薄暗い路地から大通りのほうへと、鏡をそっと差し入れた。

 小さな銀色に四角く切り取られた風景の中に冒険者ギルドの入口があった。

 常に人気のあるはずの通りだが、今日は心なしか閑散としている。


 というのも、建物の正面に、ひとりの剣士が仁王立ちになっているせいである。


 純白のマントと鎧といういで立ちは、つい昨日フギンを襲った少女のものに相違ない。汚れた身なりもそのままで、二つに結った金髪の片方が乱れてほどけかけていた。

 通りを行き交う同業者たちはその尋常ならざる様子にギルドを離れてしまうのだが、ごく稀に大胆な、というか恐れを知らぬ者が近づいていくのが見えた。

 すると間合いに入ったとたん、鍔鳴りの音がして、文字通り目にも留まらぬ速さで喉元に刃が突きつけられているのだった。


「フギンか?」


 相手が否、といえば、ヴィルヘルミナは再びそっと目蓋を閉じてその場に佇むのだ。


「……完全に、僕たちを待ち構えているね。あれは」

「冒険者なら絶対にここに立ち寄るだろうからな。諦めてデゼルトを出たほうがいいかもしれない……」

「でも呪いが解けない以上、追われることに代わりはないわけだよね」

「できれば旅の途中で後ろを突き回されるのは、ごめんこうむりたいところだな」


 今は幸いにも街の中だ。何かあっても人目があるし、救援だって呼べる。しかし野に出てしまえばそうはいかない。あの調子で行く先々の村や街に先回りされたら、これからの旅は著しく困難なものになることだろう。

 フギンはじっと考えこむ。 


 デゼルトに入って、はやくも三日ほどが過ぎた。


 オリヴィニスに向かい自分が何者なのかを知ると決めて出てきたが、その幸先はあまり芳しくない。

 格上の冒険者に追い回され、エミリアは消えてしまった。

 おまけに、フギン自身に《何か》が起きている。


「何も急ぐ旅ではないんだからさ。一度、ザフィリに戻って体勢を整えない?」


 マテルが心配顔で聞いてくるのも、そのせいだ。


 剣士アルドルのことをフギンは全く覚えていなかった。


 交流がなかったとはいえ、自分自身が依頼を受けて探しに行った人物のことだ。

 あの夜、マテルは記憶を失った原因が病気や怪我にまつわるものなのではないかと疑った。

 そして、その疑いは今でも続いている。

 もちろんフギンが逆の立場だったとしても同じ心配をしただろう。

 過酷な冒険を繰り返すなかで、病になったり、頭部を損傷したりして、記憶を失った者の噂を聞いたことがないわけではない。


「そのことなんだが、もっと悪い報せがある。落ち着いて聞いてくれるか」


 指摘されてから、ずっと考えていた。

 そして考え抜いて出た結論は、単純な《記憶喪失》よりもが悪いものだった。

 フギンは声を顰める。少し背が低い彼のために、マテルは屈んで耳を傾けた。

 そして思わず声を荒げた。


「……今まで救援に行った人たちの名前を、ほとんど覚えていない……!?」

「しっ! 気がつかれるだろ!」

「ごめん!」

 

 鏡の中で、ヴィルヘルミナが戦闘態勢になる。

 気が付かれても逃げられるよう十分に距離を取っているのだが、二人はヴィルヘルミナが元の状態に戻るまでの間、息を吐くこともできなかった。


「でも、エミリアのことは覚えているんだよね」


 そうなのだ。

 確かに、フギンは《これまで自分が救援に行き、遺髪や冒険者証を持ち帰った人物》のことをすっかり忘れてしまっている。名前も姿かたちも、はっきりとは思い出せない。

 それなのに、エミリアのことは覚えている。


「助けに行ったときに、稀に生き延びている奴がいるんだよ。エミリアのように。そいつらのことは覚えているらしい」

「それって……それって、どういうことなの……?」


 フギンにもわからない。

 ただ、これが医者にかかったり休養を取れば解決できる問題ではないことは、何となく理解できる。


「デゼルトの冒険者ギルドになら俺が受けた古い依頼の記録があるかもしれないが……、ひとまず出直すしかない。休みなく見張ってるようだし、明日にもなれば体力の限界が来ていなくなるだろ」

「ほんとかなあ……」


 フギンは街路に埋め込まれた鉄格子を二回たたく。

 格子がそっと持ち上げられ、その下に地下水路と、案内人兼スリの少年が小舟で待ち構えているのが見えた。

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