第104話 帝都デゼルト《上》
等間隔に並べられた書棚は、地下の静謐と相まって微動だにしない墓石のように見える。
エミリアは棚から一冊を引き出し、素早く上着に隠して書庫を出た。
こっそりと建物を抜け出てから不安そうにあたりを見回す。
街路に人影は見当たらないが、どこからか彼女のことをじっと見つめているような不気味な視線を感じるのだ。
彼女はよく考えて、自宅とは反対方向へと歩きはじめる。
疑念はやがて確信へと変わった。
ごく微かにではあるが自分の足音とは別に衣擦れのような音がする。何者かが姿を隠して自分を追いかけてきているのだ。
でも、いったい誰が? なんのために……?
エミリアは意を決し、人通りの多いギルド街へと足を進めた。
*
帝都デゼルトは鐘の街だ。
朝方、十の鐘が
街の中央に聳える大聖堂から聞こえてくる音は、ものものしく朝の空気を揺らす。それに呼応して街の東側の城壁に取り付けられた鐘や、そちらの方角にある集会所の鐘が鐘守たちの手によって一斉に鳴らされ始める。
鐘の音は十重に二十重にと重なりあい、たわんで反響し、その音を耳にした者たちをもれなく憂鬱な気分にさせた。
こうした鐘が、街の東側だけでなく、いたるところにある。
鐘は大聖堂が礼拝のために門を開いたことを知らせるための合図だ。
今日の礼拝は鐘が鳴らされた街の東に住む人々のもので、各家々から必ずひとりは出さなければいけない決まりがあった。
かつてこの決まりごとはとても厳密なもので、たとえ病気であっても伝染病でもないかぎり礼拝を欠くことは許されず、五人組を作らせて礼拝に行かなかった者を密告させた。
この取り決めをしたのは三代前の皇帝ベテルだ。
ベテルはヴェルミリオンによる大陸の東方領域の統治を決定的にした皇帝であり、他方で民を厳格に統治し、宗教をも改めさせた人物として知られている。
大陸の西と東で崇められる女神はルスタひとりだが、彼は女神の神託を受ける《聖女》を中心に組織された《女神教会》とは決別して全く別の組織図を描いたのだ。しかも表向きは多額の寄進を要求する女神教会を批難してのことだったが、混乱に乗じて聖典の内容も書き換えてしまい、ベテルの父祖が周囲の国々を武力によって奪ったことも、《皇帝》を自称するよう女神の託宣が下ったことになっているという周到さである。
一枚岩とは言い難い帝国内部の事情と、次々に起きる反乱軍の蜂起と共にベテルが終生苛まれ、育み続けた強い猜疑心は、こうして今なお法と慣習と鐘の音となってデゼルトを包み込んでいるのである。
フギンとマテルが宿泊した宿からも、宿の主と夫人とが連れ立って教会へと出かけていくところだった。彼らは律儀にマテルへと朝の挨拶をし、留守にすることを告げて出かけて行った。
「その頃のこと、フギンは覚えてるのかい?」
朝食の卓を挟み、マテルは興味津々というふうに訊ねた。
テーブルには焼きたてのパンや卵料理、搾りたての果実水が並んでいる。フギンの希望で部屋での食事だが、望めば豪華な調度が並ぶ食堂で、気取った食事を摂ることもできる。
「むしろ、お前が昔からこんな暮らしをしていたのかどうかのほうが知りたい」
この宿はマテルの祖父に世話になったとかいう人物が経営するところで、何をどこでするにしても、それこそスプーンやフォークの上げ下げでさえ、立ち並ぶ給仕がしてくれるんじゃないかと思うほどのサービスがついてくるのだった。
安宿にしか泊まったことのないフギンには、至れり尽くせりがかえって居心地が悪く、目覚めたときにひどい肩こりを感じたくらいだ。
そんなフギンの様子を見て、マテルはおかしそうに笑う。
「まさか。ここの主人が特別良くしてくれるだけだよ。それに君が、野宿は体力を消耗するからやめようって言ったんだからね。二人だけで見張りをすると数時間しか眠れないからってさ」
柔らかな卵を切り分けるためだけに揃えられた何本ものカトラリーをどう扱えばいいのか戸惑うフギンを尻目に、マテルは上品な梔子色の壁紙にしっくりと馴染んでいる。
いまさらかもしれないが、フギンはマテルとの育ちの違いを強く意識せざるを得なかった。
「俺もずっとデゼルトで暮らしていたわけではないから、生き字引とまではいかない。顔を覚えられないよう、街を出たり入ったりしてたんだからな。それに、市井の人間には歴史や政治の知識なんていうのは縁遠いものだ」
マテルは写本師として様々な書物に触れているから例外だが、ごく普通の農民や町民は文字も読めず、別の街や村に行ったことさえない者も珍しくない。生活が苦しくとも、その理由をみんなが正確に知るというのは無理難題だ。
フギンもデゼルトで暮らしていたころは、ごく狭い自分の周囲のこと、その日の暮らしを立てることしか考えられなかった。
「ミダイヤの曽祖父とやらに出会って、冒険者になったわけだろう……。ベテル帝が人台帳を整えなければ、それほど苦労はしなかったかもしれないね」
フギンは曖昧にうなずきながら、灰色の記憶を探った。これまでに何度も考えたことではあるが、やはり過去のことは上手く思い出せない。
いちばん古い記憶を手繰りよせようとすると、その糸の先は複雑に絡まっているように思える。とんでもなく古い、昔の記憶がまるで最近のことのように思えたり、反対に最近のことが色あせた絵物語のように感じられるのだ。
礼拝が終わる頃を見計らって出かけることになった。
いくら格安の宿賃とはいえ、物価の高いデゼルトにいつまでも留まっている余裕はない。マテルは早速、知り合いの写本工房へ行くという。
「こんな仕事のひとつを、いちいち覚えてるだろうか」
フギンが当然の疑問を口にする。
だがマテルは自信があるようだった。
「この本に使われている紙はおそらく王国側で漉いたものだ。つまり、わざわざあっちから取り寄せた特注の装丁なんだ。そういう面倒くさい仕事は、記憶の引っかかりが多いものだよ。フギンは、その間どうする? 宿に残っていてもいいけれど」
フギンは首を横に振り、フードを目深にかぶった。
「錬金術師協会に寄っていく」
「ああ……《カード》のことがあるからね。原因がわかるといいね」
今回はデゼルトで特別な仕事があるわけではない。
けれどいつまでも商売道具が使えないのでは心もとない。
正式な協会員ではないが、スライム事件で恩を売ることになったエミリアを頼るつもりでいた。
正午の鐘が鳴る頃に大聖堂前で待ち合わせることにして、二人は別れた。
*
デゼルトの街路や区画は記憶にある頃からほとんど変わっていなかった。
古い歴史を踏み抜いているような石畳を行くのは、どこか胸苦しく、フギンはうつむいたまま歩いた。しかし大聖堂か、それとも皇帝の住まいかと見紛うほどの威容を誇る錬金術師協会の建物を見つけるのは、たとえ目が見えなくともそう難しいことではない。
ここの地下書庫には過去から現在にいたるまで会に所属したすべての術師の研究成果が収められている。まさしく《知の殿堂》だ。
この場所でならフギンが抱えているちょっとした問題もすぐに解決するものと、はなから決めてかかっているところもあった。
そのせいで、受付係の一言は静かな雷のようにフギンを打ち据えた。
「エミリア・スヴィリは、当協会に在籍しておりません」
少し困ったような表情を浮かべながら、女性は言う。
「…………なんだって?」
エミリアが協会の技師だというのは間違いがないことだ。
でなければ地下水道の検査に派遣されて来るはずがないし、直筆の書状には錬金術師協会の刻印が確かに押してある。
意図が読めずに立ち竦んだままでいると、受付の女性は少しだけ声を潜めた。
「それが私たちも昨晩、書庫で姿を見かけたのが最後で……。今朝、いきなり家族の方から連絡があって一方的に辞めてしまったんです。何か知りませんか?」
といってもエミリアとは友達でもなんでもない。一通の手紙がただひとつの繋がりで、それ以上でも以下でもないのだった。
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