第103話 幻想の語るところによると



 空が群青の闇に取り込まれる頃。

 吹きすさぶ風以外には何もない草原に、ぽつりと明かりが灯った。

 二階建ての板壁の建物は軒下に酒を注いだジョッキのマークを描いた看板を掲げている。

 扉を潜ると、蜂蜜酒の甘い香りが鼻腔をくすぐってくる。そこかしこのテーブルで男たち女たちが酒の器を交わし、料理の皿を積み上げていた。


「邪魔するよ」


 声をかけても、赤ら顔の客たちは痩せっぽちの少年に誰も興味を払わない。

 あるテーブルにふらりと寄ると、野良着の男たち三人が顔を突き合わせている。熱っぽい話し声が聞こえた。


「世の中広しといえど、グリシナの騎士よりも強いもんはあるまいよ」

「そりゃそうだ。剣に槍、槌に斧、それこそ武器の数だけ達人がいるんだもんよ。槍ならサリル、剣ならバリエール、戦斧のマラン……」

「戦槌は意見の分かれるところだが……」


「ヴィールテス!」と隣の席の男が割り込んで勢いよく声を上げる。


「おお、ヴィールテス!」

「間違い無い!」

「奴が国に留まっていたなら、姫様をむざむざ帝国の奴らに渡すなんてことは無かっただろうよ」


 どこかしんみりとした空気が漂う。しかしそれもほんの一瞬のことだった。店の奥から肉や果物や土地で取れた野菜や定番の豆料理が次々に運び込まれると、男たちは杯を打ち合わせ、高らかに掲げて飲み干した。

 さらに反対側のテーブルでは、場末の酒場には場違いな絹やビロードの服をまとった男女が力自慢について語りあっている。


「リスペットとタスモンの兄弟はまず間違いないだろうな。なんでも素手で熊を倒したそうだから」

「狩人のスィエラはどうだ?」

「バカ、スィエラの一番の武器は誰よりもキレる頭脳でしょうよ」


 話の続きをかき消すように、賑やかな笑い声が一際盛り上がり、どっと大きく鼓膜を打った。


「魔術師で一番強いのは誰?」

「精霊術師のシャグランはどうだ」

「ダメダメ、シャグランは勇敢というより優しいから……」


 どのテーブルでも人々は思い思いに語る。その内容はすべてが《誰が一番強いのか?》という話題ばかりで、古今東西の勇者たちが酒の肴として次々に現われては、酔いとともに消えていく。そしてまた新たな英雄について唾を飛ばして話しあうのを、飽きもせずに繰り返す。

 少年は混みあった店内を滑るように抜けて、カウンターの前に立つ。


「ご注文は?」


 白い髭の店主が優し気に訊ねたが、少年は唇を歪めた。


「お前たちが人間に出す酒なんか飲めたもんじゃない。こちらのを頂くよ」


 言うがはやいか少年はちょうど隣の客へと運ばれてきた蜂蜜酒の杯を掠めとり、ひと息に飲み干した。


「お前!」


 突然、理不尽に酒を奪われて怒りをあらわにしたが、砂色のマントの下に輝くものを見つけ、押し黙る。

 少年は懐に潜ませた刃の柄に手をかけていた。

 ぞっとするほど青々とした色のダガーナイフだ。

 酒を奪われた客を黙らせたのはその鋭さだが、店主が黙りこんだのは、懐に呑んだその武器が何を意味するかに気が付いたからだ。


「――――お前たち。いったい誰の許しがあってこの土地に住み、あまつさえ、そんな話を大っぴらにしているのかな?」


 ひどく冷たい声音だった。だが、少年の体からは声の冷たさからは思いもかけないような殺意が放たれている。


「あなた様は、まさか……!」


 壮年の店主の顔は白く、怯えきっていた。

 そして今まさに刃の全貌が鞘から抜き放たれよう、としたその瞬間。


「待て待て待て待てい! ――――うぇっぷ」


 よく通る女の声と、激しい物音がした。

 客たちがいっせいに振り返る。

 純白のマントを身に着けた女の酔客がブーツの底をテーブルに上げている。

 ゆっくりと長い髪に隠された顔を上げていくと、思いがけず若い女の――赤らんで泥酔し、すっかり正体不明となった胡乱げな眼差しが現れた。


「いくら世界広し、勇者の数に限り無しといえど――この私をのけ者にして話を進めるとは不届き千万! 控えおろう、そして寄らば刮目して目にも見よ! このヴィルヘルミナ・ブラマンジェこそ、大陸一の冒険者になる女だっ!! ――――げえっぷ」


 控えればいいのか近寄ればいいのかわからないが、景気がいいのが大好きな客たちは適当に喝采を送っている。


「よっ! 大陸一の冒険者様!」


 酔っ払った赤ら顔からは想像もつかないことだが、彼女の白いマントは《聖女巡礼騎士団》のものだ。聖地と巡礼者たちを守護する騎士団に入れるのは良家の子女のみで、もちろん武勇に優れた人物でなければならない。

 

「しかし大陸一の冒険者ともあろうものがなんでこんな辺鄙なところにいるんだ?」


 客のひとりに問われたヴィルヘルミナは、何故か明後日の方向を見上げて唇を尖らせ、声を上擦らせた。


「そ、それは……む、無論、武者修行のため。強者どもと剣を交えるために決まっているであろう」

「そりゃあいい。強い奴らならこのへんは産地だものな!」

「そうそう。何しろグリシナといったら騎士の国なんだ。武器の数だけ達人がいるぜ、槍ならサリル、剣ならバリエール、戦斧のマラン……」


 繰り返しの話でも、酔客は気にもとめない。

 熱狂し、より騒々しくなっていく。


「まだまだ酒が足らないぞ」

「飲んで食おう」

「何、勇者たちはまだまだいるんだ」

「魔術師のシャグランは、帝国出身だが優しくて、みんなをよく助けてくれた。もちろん魔術の腕もいい」

「リスペットとタスモンの兄弟も強かったぞ。力自慢でな。狩人のスィエラもキレ者だった。弓の腕はとびきり凄くて――」


 酒の杯が人々の間を行き交い、腹がはちきれそうになるまで食い、あちこちで勇者談義が花を咲かせる。

 店主と向き合っていた少年は女の姿を見もしなかったが、しかし、殺意は消えていた。

 ふと少年が刃を納めた。


「お前たち、命拾いしたな。朝日が昇ったら、この地を遠く離れるがいい」


 宴もたけなわとなった頃、女騎士は盛り上がる人々の間で弓を前に抱え、ひとり舟を漕いでいた。



*



 翌朝、ヴィルヘルミナ・ブラマンジェは崖の上に突き出した岩の上でスヤスヤと寝息を立てていた。ふっくらとした白パンのような頬をモグモグ動かし「もう食べれない……」などと呟きながら、口の端には枯れた藁を食んでいた。

 そこから見えるのはヴェルミリオンの国境付近によくある遺跡群と、白っぽい石ころだらけの風景だ。

 そこにあったはずの酒場は古びた瓦礫となり、影も形もない。

 寂しい風景を吹き渡る初夏の風が二つに結った長い髪を揺らして去っていく。

 グリシナ古王国遺跡群は、現在グラシア、或いは王国風にグレイシア地方と呼ばれる、ヴェルミリオン帝国南部に点在する遺跡群のことを示す。

 かつてこの地方に栄えていた古い血筋を引く人々と小さな国々はヴェルミリオンの侵略をうけて戦火に飲み込まれ、王の降伏によって全域が帝国領となった。その後も残党たちの争いが頻発し、今でも人の寄りつかない土地である。



「昔々、大昔のことです。あるとき女神様は、大切な天秤をイストワルにお預けになりました……」



 ヴィルヘルミナが目覚めたのは、少年の物語る声によってだった。

 灰色に朽ちた街の瓦礫のむこうに、小柄な少年が腰かけている。砂色のマントの裾からは、金の刺繍と房飾りが垂れた農紺の衣装が覗いていた。



《昔々のことです。

 時のグリシナ王は女神さまがイストワルにを遣わしたことを知りますと、これで世界の東には太陽がのぼることはあっても沈むことはなくなったと大層お嘆きになったそうです。

 慈悲深き女神さまは王の嘆願を聞き届け、二羽の美しい鴉を遣わしました。

 この鴉はグリシナの空を飛び回り、一羽が死者の魂をついばみますと、もう一羽が天の国まで連れていってくれるのです。

 こうして大陸の西にあっても、東にあっても、太陽は変わらずにのぼり、また沈み、すべからく死者は天の国へとまねかれることとなったのです……。》



 物語りながら、少年は手にした短剣を椅子代わりにした岩の表面に擦り付ける。ゴツゴツした岩肌で磨き抜かれた刃はボロボロになってしまうはずだが、なぜかそのダガーは不気味な煌めきを増していく。

 しかし、その度に悲鳴のような掠れた音が響き、頭痛に苛まれるヴィルヘルミナをさらに苦しめた。

 少年はダガーを逆手に持ちかえると、振り返り様に投げつけた。

 刃は深く木の幹に突き刺さり、そばにいた茶色い太い尻尾の小型の動物たちが蜘蛛の子を散らしたように藪の奥へと逃げていった。


「このあたりは古い土地だからね。ぼうっとしていると、ああいう連中に化かされるんだよ。お嬢さん、冒険者? どこから来たの?」

「オリヴィニスだが……」

「へえ、そいつは凄いや。それじゃ、ずいぶん強いんだろうね」


 少年の声音は心からの賛辞というより、どこか冷めたような皮肉めいたものだったが、強いと言われ、単純に気分をよくしたヴィルヘルミナは、「もちろんだとも」と胸を張った。


「腕試しの旅なら、ついでに悪人をふたりほど退治しておくれよ。ひとりは銀色の槌をかついだ戦士、もうひとりは変わり者の錬金術師。名前はフギンという」

「そいつらは何をしたんだ?」

「そりゃあもう、帝国に仇なす大逆人さ。奴はザフィリの地下水道から、帝国にとってすごく大切なものを盗んだんだ。さあ……これを……」


 少年が何かを差し出してくる。地獄のような二日酔いの症状に苛まれながらも、彼女はそれを受け取った。確かに重みを感じたが、手のひらには何も乗っていない。


「帝都デゼルトに向かえ。そしてフギンを殺せ」


 ぼうっとしながらも、彼女は頷いていた。

 そして気がついたときには少年の姿はなく、こびりついた染みのように《帝都に向かわなければいけない》という思考が頭をもたげ、離れなくなっていたのである。

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