第101話 旅支度《上》




 灰色の天井まで、もうもうと湯気が立ち込めている。

 ザフィリには公共の浴場がいくつかある。ここはギルド街から一番近く、男女が別で、しかも朝から日暮れまで開いていて二階で休憩もできる人気の場所だ。

 運営が冒険者ギルドだということもあり、暴力的な仕切りたがりの商人頭がいないので物売りの姿も多い。

 ただ現在は流石に昼間ということもあり、たっぷりとした湯に浸かっているのも近所に住む暇な老人たちばかりで、客を待つあかすり師たちは退屈そうにしていた。

 ふと、気だるい午後の空気に巻かれてぼんやりとしていた、冷たい飲み物を売る売り子が、客のひとりから呼ばれているのに気がついた。赤スグリのジュースが入った金属製の容器を手にのろのろと立ち上がる。


「へえ、旦那。一杯、半銅貨になりやす」


 湯気が切れて客の横顔があらわになる。売り子は作り笑いを引っ込めた。

 独特の髪色と険のある眼差しに覚えがあった。


「ありゃりゃ、珍しい。もしかして、《檻》の旦那じゃありませんか」


 檻、というのは、この冒険者の二つ名の一部だった。

 本名は知らないがまだ若い冒険者のひとりだ。

 たまにしか来ない客だが、浴場に来ても誰ともつるまず、騒がしい連中の噂話よりも商人たちの仕事ぶりをじっと見つめているような変わり者で、それでこの浴場に出入りする物売りたちの間で密かに顔を覚えられているのだった。


「髪を切ろうと思って、そのついでだ。ところでこの前の話、まともに考えてみる気はないか?」


 藪から棒にそんな言葉が返ってくる。

 売り子は声を潜め、再び立ち込める湯気の向こうに話しかける。


「もしかして、錬金術を使って《溶けない氷》を作ろうって話ですかい?」


 彼がこの前、浴場を訪れたのはざっとひと月は前になるだろう。ジュース売りは、この若者からある《提案》を持ち掛けられた。

 浴場で売る飲み物は冷たく喉を潤すものがよく売れる。冷やすためには《氷》を仕入れなければならないが、春先から夏にかけては氷室に保存したものを分けてもらうほかなく、これが滅法、高い。さらに真夏になると魔術の力を借りるしかないが、魔術師たちは当然のように足下をみて値を吊り上げてくる。だから氷の代金さえなければ、懐に入る金の量は膨らむ。

 風呂に入っている間じゅうずっと仕事ぶりを観察していたこの若者は、ジュース売りに《氷を使わずに飲み物を冷やす方法がある》と言ってきたのだった。


「せっかくここは場所代がかからないってのに、これまで通り氷売りにバカ高い金を払ってたら大した儲けにはならないだろ。井戸水で冷やすにしても、井戸番に使用料を払わないといけないしな」

「……しかし、《檻》の旦那。旦那は錬金術師協会には入ってないんでしょう、つまり、モグリの錬金術師ってことだ」

「人聞きの悪いことを言うんじゃない。確かに協会に入らないと《賢者の石》はもらえない。だが、協会に入っていない者が《錬金術》を使っちゃいけないっていう法律はどこにもない」


 そう言って、長細い、手のひらくらいの大きさの金属の筒を目の前でさせる。


「試作品を作ってきた。中に氷の魔術を封じ込めてある。賢者の石と起動装置さえあれば金属の筒が冷えて飲み物を冷やしてくれるはずだ」

「でもねえ。協会の連中は後ろ盾がでかいから、モグリにゃ厳しいでしょうよ」

「俺の名前なんか出さなくていいんだよ。こいつを持っていって、正規の錬金術師……それも駆け出しでろくに配分を受けれず、冒険者稼業を兼業してるヤツを探して賢者の石を借り受けるんだ。駆け出しの錬金術師が持てる量の《石》なんざ少な過ぎて何の飯の種にもなりゃしない。毎月わずかばかりでも貸し賃を払えばそいつの利益になるし、氷を買うよりかはだいぶ安くて済むはずだぞ」

「はあ…………そうですかい」


 ジュース売りが生返事をすると、若者は「頑固なわからずやめ」という顔で睨んでくるが、むしろ売り子が心配しているのはむしろ話の真偽ではなかった。


「しかし、そこまで段取りつけて、タダってことはないでしょう」

「もちろん、俺もアイデア料をもらう」

「そらきた。錬金術師はがめついからなァ……」

「銀貨五枚でどうだ。あ、いや……三枚半でもいい……」


 売り子はしばし、口を半開きにしたままぼうっとしていた。

 錬金術師にしろ、精霊術師にしろ、どちらも何かを頼もうものなら金貨を何枚もふんだくっていく存在だ。それが、商売の重大なアイデアを提供して銀貨でいいと言ってきたのだ。


「ほんとに、それだけでいいのかい?」

「髪を切りに行くって言っただろう。散髪代が稼げればいいんだ」


 売り子はあまりの欲のなさに森の奥に住むエルフと会話している気分になる。いや……エルフだって人と同じ生物なのだ、実際にはもう少し欲深いだろう。


「きちんと働くかは、やってみないとわからないしな。試してみないっていうなら他を当たるけど」

「あんた、しっかりしてるんだかしてないんだか、損な性格なお人だねぇ」


 売り子は器に赤スグリの果実水を注ぎ、少年の手に押し付けた。



*



 街の広場の片隅で赤毛の女性が鋏を握っている。鏡を隣の食堂の石壁に立てかけ、客を粗末な椅子に座らせて。そこは青天の下に野ざらしの、ザフィリの街で一番安い理髪店だった。

 女理髪師が手早く客の髪を整えると、客は足早にその場を去って行く。

 次に丸椅子に座ったのは、小ぶりな瓜を五つも抱えた若い冒険者だった。


「まあ、《檻》の坊やじゃないか」


 女理髪師はくすりと笑った。

 このあたりで何度か見かけたことがあるが、実際に髪に鋏を入れたことはなかった。

 見るからに貧乏そうな、野良犬みたいな少年はぼんやりと女の仕事ぶりを見て、そのまま通り過ぎてしまうことがほとんどだった。それでも一度だけ、看板がわりに立てかけている木の板を見て《女性の横顔と櫛のマークは誰が彫ったのか》と聞かれたことがあり、なんとなく覚えていたのだ。


「髪を切りに来たのよね?」

「そうだよ。それから、一つか二つか貰ってくれるとありがたい……風呂の物売りに押しつけられてさ。重たいったらない」


 少年はたっぷりと水を含んで重たく、甘そうな瓜を取り上げる。


「明日は雨が降るかもねぇ」

「雨が降ったら、この店だと商売ができないだろう」

「それなのよねえ……まったく、ままならないわ」


 本来はそういう意味ではなかったのだが。しかし雨天、というのはこういう露天では常に悩みの種であり、若い冒険者のこんがらがった髪に櫛を入れながら、女性は思いっきり溜息を吐いた。


「店を持てばいいのに」

「それができりゃ苦労はないよ」

「売上が悪いのか?」

「ええ、そうね。ザフィリにはもっといい、壁や天井がある店がいくつもあるわけだしね」

「だけど、腕はいいんだよな。さっきの客、貴族だろう。上客だ」


 罅のはいった鏡に女理髪師のびっくりした表情がうつりこむ。


「気づいてなかったのか? 庶民ふうの服を着こんでいるが、靴がピカピカ、カフスはほんものの宝石だ。ばればれの変装だな」

「あらまあ……そういえば、いつも新品のお召し物でヘンだなあとは思ってたのよね。お代を頂戴しても、釣りはいらない、なんて太っ腹なこと言うし」


 衣服は高価なものだ。こういう青空の下で営業しているような店にやって来る客は、冒険者にしろ市民にしろ擦り切れた古着を着込んだ者がほとんどだ。

 おそらくは、他の店では仕上がりに満足できず、かといってこういうところに通っているのを知られたくなくて変装して訪れているのだろう。

 女理髪師は、そうまでして自分のところに髪を切りに来ている客に呆れるような、自分の腕が誇らしいような、複雑な気持ちだった。


「身分を隠されたのはなんだか残念だけど、ま、仕方がないわね。さ、折角来てくれたんだから、いっとう男前に仕上げてあげるわよ!」


 白い布を思い切り広げる。手早く髪に鋏を入れ、ざんばらの頭を整えていく。

 一時間もせずに切り終えたあとには、前髪で隠れていた濃緑色の瞳が姿を現し、無感動に鏡を見つめていた。


「どうだい、あんた結構かわいい顔してるんだから、出さないと損だよ」

「自分の顔に感想なんてない」

「若いのに偏屈ジジイみたいないじけたこと、お言いでないよ」


 櫛でもう一度切り払われた細かい髪の毛を払う。

 それだけで、不思議に艶が出て、髪が整った。


「その櫛は手作りかい」


 若者が訊ねる。


「ああ……。これね、木工は近くの村に住んでる父親の趣味でさ。櫛にするのに特別いい木を使ってるの。香油を染みこませてあって、髪を梳くと艶が出るのよ」

「じゃあもう何本か、同じものを作ってもらったらどうだ」


 女理髪師は、意味がわからずにきょとんとしている。


「櫛を? どうして?」

「大した工夫でもないが今度あの上客が来たら、《日頃の礼》とか何とか言ってただで渡すんだ。ほかの常連客の分も……。持ち歩きやすいように小さく作って、上着に忍び込ませられるようにするといいだろう。裁縫が得意ならびろうどの端切れで入れ物も作るといいかもな」

「えぇ? なんでそんなこと……」

「俺はあまり頓着しないが、身なりに気を使う男は出かけた先で髪を整えたりするものだろう。どこかに店の屋号を入れておけば、いい宣伝になるかもしれない。客の仕上がりをみれば腕がいいのは一目瞭然だし、何よりその櫛は女性が欲しがりそうじゃないか」


 女理髪師は「あっ」と小さく声を上げた。

 言われてみれば、何故気がつかなかったのだろう、と思うようなことだ。日々の忙しさにかまけて、そして宣伝などはなから諦めていたからこそ思いつかなかったのだろう。


「やってみなければ、うまくいくかどうかなんてわからないけどな」


 それじゃ、と言って代金を置き、腰を上げかけた冒険者の手を掴み、引き留める。


「お代はいらないわ。むしろこちらが払う!」

「俺は何もしていないから、金をもらう理由はないよ」

「いいから! これで少しくらい……そうね、そのボロ着をなんとかしなさい。あたしの整えた髪型が映えるように!」


 押し問答の挙句、皮財布に少しばかり嵩が増えることになった。



*



 理髪店を出た若者は渋い顔で古道具屋の主と向き合っていた。

 ここで売られているのはどれも中古品ではあるが、金に困った冒険者たちが持ち物を売っていくため、服から鎧、武器まで意外な値打ちの品がそろう店だった。

 カウンターではまさに交渉の真っ最中で、老店主が年季の入った計算機の玉を弾き、それを見た冒険者が微妙に値を変えて突き返した。道具屋はさらに渋い顔をして値を元に戻し、さらに突き返す。最終的には冒険者が折れる形になるのは、いつものことだった。


「あんたの装備なんかほぼゴミだが、長い付き合いだ、まけてやろう。毎度あり。……しかし、あんた、なァ」

「何の話だ?」

「いや、他人にはあんまりわからないかもだけどな」


 店主は難しい顔をする。いつもズタボロの服や靴を履いてギルド街のそばをうろついているので逆に悪目立ちしていたが、古すぎる装備を全て売り払い、そこにいくらか足して少しまともな服を着たならば、それだけでもいつもとは雲泥の差だ。

 濃緑色の髪は整えられて、意外と白い肌や少年らしさを残した丸みを帯びた頬のラインが露になっている。不機嫌そうなまなざしはいつも通りながら、清潔さが加わるだけで千倍はましだった。体にあった装備をしているので、きちんとした若手冒険者の雰囲気がある。


「……あんた、物を見る目はあるんだから、いつもそういう格好でいなよ。そうじゃないと仲間が恥ずかしがるだろ」

「いろんな意味で、それができれば苦労はないよ」


 道具屋を出たところで、声をかけられる。 


「フギン」


 名前を呼ばれて振り返ると、いつもよりも少し良い上着を肩に引っかけて、疲れた顔をしたマテルが片手を振ってみせた。



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