第98話 最初の試練《上》




 空を、二羽の鳥が飛んでいる。


 真っ黒い羽の、あれは鴉だろうか。


 フギンはこれが夢だと知っていた。遠く、潮騒の音がしているが、記憶がある限り海など見たことはなかった。

 そこで彼はひとりではなく、誰かと一緒だ。

 それが誰なのかが、思い出せない。

 懐かしい後ろ姿だけが目の前にあって、優しい声が聞こえる。


 フギン……気をつけて……。


 声は何かを伝えようとしている。


 君は、誰なんだ?


 あともう少し、というところで目が覚める。

 そして目が覚めた後には、もうなにも覚えていないのだった。



* 

 


 冒険者の宿、《天藍の牡鹿亭》の屋根裏部屋には、この街のどこよりも早く朝日が差し込む。遮光幕もなく屋根に杜撰に開けられた小窓から、薄っぺらい寝台へと遠慮容赦なく日光が降り注ぐからだ。

 だからと言って見晴らしがいいかというと、よじ登ってそこから顔を出せたとしても建物に囲まれていて景色など見えない。

 普段は物置小屋として使われている一室に寝床を押し込み、無理やり客室としたこの部屋をフギンは金があるときだけ借りることにしている。

 街で一番安い宿賃ながら、寝具が敷き藁ではないだけ上等だった。

 マントに包まり日光を避けていたが、やがて部屋の気温が温もりはじめて息苦しさで目が覚めた。

 フギンはブーツを引き寄せ、夢の中へと戻りたいとゴネる両足をそこにねじ込んだ。

 ガガテムの森を通り抜ける際、装備の内へと入り込んだ泥のせいでヒリつく肌をなだめながらシャツを着こみ、ベルトごと床に放り出していたポーチを引き寄せ、商売道具が揃っていることを確認してから腰に巻きつける。

 寝乱れた濃緑色の頭を手櫛で撫でつければ、朝の身支度は完璧だった。

 異変が起きたのは「さて、食堂に降りて朝食を食べるか、それとも空腹のままギルドへ向かうか」と考えはじめた、その矢先のことだった。

 何も無ければそのままギルドへと向かい、次の仕事を決めるはずだった。


「おっはよう! フギンちゃ~~~~ん!!」


 聞き覚えがあり過ぎる野太い声音と共に薄っぺらい木の扉が激しく叩かれた。

 あまりの勢いに扉ごと外れそうな勢いだ。

 蝶番より先にちゃちなつくりの鍵が弾け飛び、ずかずかと音を立てて黒いブーツが押し入ってくる。鮮やかな金髪に狡猾そうな緑の瞳。

 悪徳ギルド職員ことミダイヤは逞しい腕を伸ばし、天窓から逃げようとしているフギンの足を掴んで引きずり下ろした。


「よぅ、久しぶりだな。この俺様から逃げようなんてとうとうイカれちまったんじゃねえか? 貧弱後衛中途半端魔法使い野郎が逃げれるわけないだろうが」


 ミダイヤは床に転げ落ちたフギンを虫けらみたいに踏みつける。

 辛うじて両腕で防ぎながら、フギンは悲鳴のような声を上げた。


「――――何でこんなところに!?」

「お前の居場所なんてモンはな、安宿を二、三巡れば割れるんだよ」


 確かにフギンは常宿というものは持っていない。

 だが懐事情の乏しさから最安値の宿賃しか払わないため、考えてみれば、こんなに居所がわかりやすい冒険者は他にいないのである。戦士ギルド職員という身分を悪用すれば宿の主人の信用など無償で勝ち取れるだろうし……。

 しかしこれまでミダイヤは有り金を巻き上げはしても寝室を土足で踏み荒らすことはなかったのだ。

 その安寧に甘えが含まれていたなどとは、あまり言いたくない。


「金なら一昨日渡したばかりだ、無い袖は振れないぞ!」

「ほぉ~、事ここに及んで、しらばっくれようとはいい度胸だ」

「何の話だよ、何の!」


 バカ力に押し敗けて床の上で潰される寸前、ミダイヤの力が急に弱まった。

 フギンは慌てて足の下から退避して、壁際まで逃げる。


「知ってるんだぞ。お前、なんかしょうもない悪だくみしてるだろう」


 と、ミダイヤが藪から棒に言う。


「悪だくみ?」

「高台の坊ちゃんだよ。ホラ……アレだ、マテル、とか言ったか。写本師のひょろ眼鏡だ。アイツ、今朝一番にギルドに来て冒険者登録して行きやがったんだぜ」

「マテルが……冒険者登録……?」


 寝耳に水とはまさにこのことだ。寝耳にミダイヤだけで一杯一杯なのに、まさかの新情報に思考がついていかない。


「お前、まさかとは思うが、この俺様から逃げようなんざ思っちゃないだろうな?」

「…………は?」


 フギンはギクリとした。

 逃げようとは思っていなかった。オリヴィニスに行き自分の過去を探るなど、過酷で汚く精神的にも肉体的にも消耗する仕事に追われ、日銭を稼ぐ毎日では具体性に欠けた夢物語だと感じていた。

 だがマテルの言う通りに行動するとなると、確かにそれは《逃げる》ということになるだろう。少なくともミダイヤの視点からはそう見える。

 動揺が顔に出ていたかもしれない。間髪入れず、ミダイヤの掌がフギンの顔の真横を派手な音を立てて撃ち抜いた。


「この街からそう簡単に逃がすワケねえだろうが、貴重な金ヅルなんだからよ」


 表情は笑っているが、その眼は冴え冴えとしている。


「俺は、何も知らない……」


 そう返すのが精いっぱいだった。

 ミダイヤは目を細め、フギンを見下ろしている。


「――フン、まあいいぜ。お前らが何を考えていようがな。さっきも言ったが、そう簡単に出て行けると思ったら大間違いだ」

「だから、逃げるとか考えてないって言ってるだろ!」

「ま、精々、足掻くんだな」


 フン、と鼻で笑うと、ミダイヤは壊れた扉を蹴り飛ばして出て行った。

 まるで嵐のような出来事だったが、ボンヤリしてもいられない。じきに宿の主が騒ぎの原因を確かめにやって来るだろう。

 扉の修理費を請求される前に、フギンは高台へと急いだ。



*


 マテルはどこか萎びた野菜を思わせる、いわゆる《しょんぼり》とした元気のない表情で、息を切らして坂道を駆けのぼって来たフギンを迎えた。


「ごめんね。フギン、ヘタこいちゃって……」

「冒険者登録ってどういうことなんだ!?」


 覇気のない声にフギンの怒鳴り声が重なる。

 マテルは首元から垂らした銀色の鎖を引き出した。

 鎖の先には、青銅色の金属板が二枚ぶら下がっている。紛れもなく冒険者ギルドが発行した《登録証》だ。銀色の同じものがフギンの首からも下がっている。


「マテル……工房の仕事はどうするつもりなんだ。天涯孤独の俺と違って、お前には家族もいるんだぞ」

「工房のことは、うちでずっと働いてくれている信頼できる職人に任せることにしたんだ。親父もいるから心配ない」


 マテルが使っていた作業台は綺麗なものだ。やりかけの仕事も、並んだインク壺も、何種類ものペンも、定規も、テーブルの上から取り払われている。

 まさかそこまで話が進んでいたとは思わず、フギンは口を開けたまま固まっていた。

 底なしのお人好しだとは思っていたが、底に穴まで空いていたとは思わなかった。


「何度も言うが、俺なんかのためにそこまでする必要はどこにもない」


 マテルはじっとフギンを見つめ、苦笑いを浮かべた。


「実を言うと、君だけのためじゃないんだ。ついて来て」


 マテルがフギンを案内したのは、中庭に建てられた物置小屋だった。

 扉を開けると光が差し込み、内部が明るく照らされる。


「これを御覧よ、フギン」


 マテルは大きな箱の蓋を開けた。


「これは……」


 中に入っていたのは銀色に輝く武器や防具、地図やコンパスや、とにかく様々な冒険道具だった。


「僕の祖父はね、冒険者だったんだ。現役だった頃は大陸の西や東に飛び回って、金を貯めてザフィリにやって来て、この工房をつくった」

「これはじいさんのものなんだな」


 マテルは頷いた。武器は手入れをしなければすぐに錆びつくが、最近まで人の手が入っていた形跡がある。誰かが手を入れていたはずだ。


「どうやら祖父は父さんや僕に冒険者になって欲しかったみたいなんだ。でも工房の仕事が忙しかったし、それはできなかった。この工房が無くなれば、たくさんの職人が路頭に迷うからね」


 祖父、とやらはマテルにも武器や冒険の手ほどきをした。

 だがその頃には、孫が実際に旅立つことは諦めていただろう、とマテルは言った。


「それでも、亡くなるまでずっと僕に武器の手ほどきをしてくれてた。写本師に武器はいらないけど、覚えておけば、きっといつか誰かを助けることができるだろうから……ってさ」


 マテルは壁に立てかけてあった、使い込まれた見事な戦棍メイスを取り上げてみせる。

 短いこん棒と違い、槍と見紛う長物だ。鋼鉄製で、頭部は棍というより槌に近い形状をしており、鋭い突起がついている。頭部と柄の繋ぎには、紫の玉石がはめ込まれていた。精霊の加護が宿っているのだろう、おそらく銘入りだ。

 持ち主はなかなか使冒険者だったに違いない。


「だから、俺に手を貸すっていうわけか……」

「それとね、一生懸命にやってきたつもりだけど、はっきり言って、このままここで、この仕事を続けていくのは難しいと思う」


 写本の仕事は丁寧だが時間も金もかかる。それに比べて最新の印刷技術ならば、工房に写本を頼むよりも遥かに安く、そして素早く本を作ることができると、人伝の噂で聞いたことがある。

 高価な装丁や複雑な紋様を書き写すことについては未だ写本師たちに一日の長があるが、技術が向上すればそう遠くない未来、写本師の仕事はなくなってしまうだろう。


「その前に、この街の外に出て僕自身が見聞を広めておきたかったのもあるんだ」


 フギンは少しだけ気まずい気持ちでいた。

 これまで、マテルのことをどこか都合よく見ていた気がする。困ったときに休む場所や食べ物を分けてくれる、気の優しくて世間知らずのお坊ちゃん、というふうに。

 だけど、そうじゃなかった。

 マテルにはマテルの理由があり、しかもフギンはマテルを育てた祖父にも知らない間に助けられていたのだ。


「もちろん君が旅に出るかどうかは君自身が決めることだ。だって、それは君の過去なんだから……。無理にとは言わないよ」

「いいや、俺も自分の過去を探しに行きたいと思ってたんだ」


 アルドルのことがあってから、ずっと心に燻っていた。

 いつかはっきりさせなければいけないと思っていたと言うと、一瞬だけマテルの顔が笑顔になる。

 しかしいつもの人の好い笑みは、次の瞬間には萎んでいた。


「で、ミダイヤのことなんだけど……」


 マテルの口から出て来た縁起の悪い名前に、フギンはたちまち雲行きが怪しくなっていくのを感じ取っていた。

 

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