第96話 毒沼の森《中》
「またミダイヤに金をせびられたんだな」
マテルはフギンの話にじっと耳を傾けて、そう言った。
彼はフギンよりもっとはっきりとした《先祖がえり》で、髪の色は明るい薄紫色をしている。
仕事は写本師をしており、これは祖父の代から始めた商売だ。マテルの代で三代目になる。
インクのにおいがする作業部屋で、フギンは鍋の底にこびりついた野菜スープと、週末にまとめて大量に焼くせいで六日目には限界の硬さを楽しめるパンの、五日目のパンと、どこの家にもあるチーズと鶏肉を焼いたもののかけらにありついた。
昼間、工房で働く職人に出すまかないの残りであったが干し肉や塩漬け肉の脂身、限界まで薄めた粥が続くのが普通の毎日では、ごちそうだ。
「そのとおりだよ、親友。慈悲深いおまえがいなかったら、たちまち空腹で死んでただろう」
それは冗談なんかではない。突然やってきても嫌な顔ひとつせず食べ物を分けてくれるこの稀少な若者をみると、拝みたくなるような気持ちになる。
鋳掛屋の騒音は不思議に遠のいて、虫のジリジリ鳴く音が静けさに混じって聞こえていた。
マテルは紙の上に金色のインクを落とした。細いペンで蔦の輪郭を縁取っていく。
隣に置いた見本の通り、そっくりだ。
「器用なもんだな」
「高貴なご婦人用の祈祷書なんてのは放っといても山ほど来る依頼だから、もう見本を見なくたって写せるんだよ」
マテルはひと作業すると、トレードマークの眼鏡を外して疲れた目もとを揉んだ。
作業場には五人か六人の写本師のための作業台があるが、最近では昼間になっても空席がすべて埋まることはない。
帝都の錬金術師が発明した《活版印刷》のせいで仕事を奪われた写本師は少なくない。マテルの工房は貴族とのつながりがあるため辛うじて仕事があるが、納期や出来映えについての要求は日々高くなっていくばかりだった。
慎重を要する作業を横目に、フギンはベルトに括りつけた豚革の小物入れから美しい正方形のカードを取り出した。
カードの表面には赤く煌めくインクで魔法陣が描かれている。
それを板張りの床に敷くと、自分の持ち物から取り出した小鍋を乗せた。
鍋へと冷め切ったスープをうつし、冷たく固まった肉とパン、チーズを入れた。準備が済むとカードに向けて両手をかざす。
「《精霊よ、寄りて来たれ》」
短い言葉が呪文となり、すでに火を落とした厨房から、かすかにただよう火の気の精霊を呼び寄せる。
精霊の働きはカードに描き込まれた複雑な魔法陣に熱を宿らせた。
文字が仄かな炎となって燃える。
やがて鍋の中身がくつくつと煮えはじめた。
暖かなにおいが漂いはじめ、マテルがびっくりして顔を上げた。
「なんだい、君、精霊魔術が使えたのかい」
「独学だけど……。錬金術と半々だよ。こっちのカードは錬金術の技術でできてる」
フギンは説明する。
カードに封じ込められた熱の魔法は、魔術師でなくても発動させることができる。電気や圧力でもいい。魔術である必要はない。一定の力が加われば発動する仕組みになっている。
最初の力さえ用意できれば、そのへんの主婦にでも簡単に魔術が使えるという帝都生まれの便利なものだ。
「火打ち石もなしに……、ほんとうに便利だな、錬金術ってものは」
「すごく便利だよ。この方法なら魔力の節約にもなるしさ」
マテルは少し複雑な表情ながら感心したようすで、フギンが鍋の中を掻きまわすのを見つめている。
「錬金術のおかげでヴェルミリオンの兵士は才能も魔力も知識もない一兵卒でも、そのへんの魔術師以上に働くって言うくらいだ」
それゆえ軍の力が大きくなりすぎて、冒険者ギルドは大陸の西側ほどの勢いがない――というのは、脱線なので黙っておいた。
「その力でミダイヤにやり返そうっていう気はないのかい」
「うーん……」
やろうと思えば、できなくもないだろう。
格上の相手だが魔術に関しては仲間に頼らなければなにもできない。
不意を突いて、体に触れられるくらい近づかなければ、ひと泡吹かせることくらいはできるはずだ。
「でも錬金術の素材の入手には、金と手間がかかるんだ……。発動させるのは魔術だから、儀式に必要なだけの触媒だっている。知ってのとおり、魔術師は金食い虫だから……あと、三日かかる儀式には、やっぱり三日かかるしな」
現状の錬金術は、形を変えたほぼ魔術だと、フギンは思っている。
ただ、呪文を詠唱するよりははやく撃てるだけだ。
「冷や飯をあたためるのはいいわけかい」
「仕事が終わったばかりだから、これくらいの贅沢は許してくれよ。それにミダイヤはギルドの職員だ。睨まれでもしたら困る」
「しかし精霊術が使えるなら、そんな貧乏暮らしをしている必要はないだろう。魔術師を求めてるパーティはたくさんいるよ」
「うーん……」
「僕は君のことが心配なんだ。同じ境遇の、同じ仲間だから」
マテルはすっかり作業をやめて、フギンに向き合っている。
フギンは喉に魚の骨が刺さったような、なんとも居心地の悪い気持ちになった。
マテルの人の良さは折り紙付きだ。
行き倒れかけている冷や飯食らいの冒険者や、冒険者崩れを見かけるとつい連れてきてしまう。中には受けた恩をあだで返すどうしようもない乱暴者もおり、斬られた傷が残っているのだと、やはり笑いながら言うようなやつなのだ。
「実は……」
気がつくと、フギンはそう口に出していた。
まずいとは思ったが、マテルの濁りの無い澄んだ瞳を前にすると、なぜだか嘘がつけなくなるのだった。
「事情があるんだ。ミダイヤに逆らえないのには……」
「どんな?」
「弱みを握られてる。俺は、人台帳に名前がないんだ」
人台帳というのは、帝国の支配下にある村や町ごとに届けられる、身元を証明するための戸籍のようなものである。
ギルドの権威が弱いザフィリやデゼルトでは台帳に名前が無い者は冒険者になれない。
身元不明の荒くれ者が領地をうろついては困る、というのがその言い分だが、ただの言いがかりだ。全ての領民に籍があるわけではないし、身元のはっきりした冒険者というのも珍しい。
「ああ、それで……」とマテルは納得した様子だ。「ミダイヤに《融通》してもらったということだね」
台帳に記載がなくても冒険者になる方法はいくつかある。
一番簡単でよくある方法なのが、職員の誰かに金を掴ませるのだ。
もちろん違法な行いで、ばれればただでは済まない。マテルはそれを弱みとして、ミダイヤがフギンを脅しているのだろうと思ったのだ。
「そうだけど、そうじゃないんだ」
「というと?」
「《融通》してもらったのは、ミダイヤじゃない。ミダイヤの曽祖父なんだ」
それを聞いたマテルはしばらくぽかんとしていたが、ようやく声を振り絞る。
「どういうことだい? 君はまだ十代のように見えるけど」
「見かけだけだ。俺は歳をとらないんだ。最初はデゼルトにいて、顔を覚えられると困るからザフィリに移った」
「いったい、どれくらい前からのことなんだい……?」
「昔のことは覚えてない。記憶がないから自分が誰かもわからない。わかるのは《フギン》という名前だけで、俺は他の人間みたいに老いることもないし、死ぬこともないようなんだ」
そこまでひと息に言ってのけると、長い間息を止めていたかのように胸が苦しかった。激しい運動をしたときのように心臓がはねた。フギンにとってはこれまで誰にも話したことがない、一世一代の告白なのだ。
フギンが仲間を持たず、ひとりぼっちで仕事をするのはその秘密のせいだ。決して冗談でも、ふざけているわけでもない。
マテルは冗談だと思っただろうか。ただ放心したように椅子にかけたままで、それからいつものようにインク壺に蓋をして道具を片付けた。
「ちょっと待っていて」
ばたばたと工房を出て行く。
もしもこのまま戻って来なかったら、フギンは黙って街を出ようと思っていた。
ミダイヤにいいようにされる毎日には飽き飽きしていたし、どこか別のところで別の生き方をしようと……。
しかしマテルは戻ってきた。
思いのほか短い時間で走り戻ってきた青年の胸には、一冊の本が抱えられていた。
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